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大トロはゴミ扱いされていた…あらゆる魚を食べる江戸っ子が「マグロ」には見向きもしなかった理由

プレジデントオンライン / 2022年6月10日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/GI15702993

日本人はマグロが大好きだ。しかし、かつてはそうではなかった。江戸料理・文化研究家の車浮代さんは「江戸っ子に人気があったのはタイやカツオで、マグロは下魚の中でも最下級の魚だった。とりわけマグロのトロは不人気で、江戸時代はもちろん、昭和初期までタダ同然で取引されていた」という――。

※本稿は、車浮代『江戸っ子の食養生』(ワニブックスPLUS新書)の一部を再編集したものです。

■1日に1億円が動いた江戸の魚河岸

江戸っ子は、魚をとにかくよく食べました。体の基盤になるたんぱく質は魚介類からとり、活力を養っていました。江戸っ子の魚好きを支えたのが、現在の東京日本橋あたりに開かれていた「魚河岸」です。その様子は、『東都名所日本橋真景并ニ魚市全図(しんけいならびにういちぜんず)』という浮世絵に表されています。

日本橋川には荷物を積んだ船が何艘も行き交い、慶長8(1603)年につくられた日本橋が架けられていました。橋の長さは約50メートル。その東に架かる江戸橋までの北岸が、魚河岸と呼ばれた地域です。

魚河岸からは富士山が大きく見え、たくさんの人々が集まり、魚を売り買いしていました。その広大な魚河岸に大量の魚が集められ、高級魚から下魚までが順番にずらりと並べられていました。

魚河岸では、1日に千両という大金が動いたといわれます。千両とは、今の金額に換算してなんと1億円。ちなみに、魚河岸と芝居町と吉原遊郭の3カ所は、「1日に千両の落ち所」といわれていました。

■武士が最も好んだのは鯛

魚河岸のそばには、「活鯛屋敷」という大きな生け簀がありました。

ここは幕府直営の生け簀で、鯛や鮃(ひらめ)、伊勢海老、車海老などが養殖されていました。これらの高級魚は、祝い事に欠かせません。必要なときにすぐに対応できるように設けられた、大きな生簀でした。

とくに武士に重宝されたのが、鯛です。鯛の体は硬いウロコに覆われ、まるで鎧を着ているようです。さらに、尖った背びれやピンと張った尾びれなど、全身がかもしだす勇壮な姿が武家に好まれました。もともと高級魚として扱われていた鯛ですが、その扱いは、室町時代までは鯉の次でした。公家が鯉を好んだからです。

しかし、江戸時代になると、鯛こそが「魚の王」と扱われるようになりました。江戸時代、鯛は刺身・煮物・焼き物・蒸し物・揚げ物・酢の物・練り物……と、さまざまな料理法が考案され、人気を上げました。

■家康存命中、白魚は庶民に禁止されていた

天明5(1785)年には『鯛百珍料理秘密箱』という、鯛料理のレシピが載った本が発売されています。鯛の旬は春です。同じく、春が旬の白魚も江戸っ子に人気の魚でした。

白魚漁は、篝火(かがりび)をたいて、夜に行われました。白魚は成魚でも体長10センチに満たない小さな魚で、傷みやすいのが難点でした。昼に漁をしたとしても、お客が買ってくれるのは翌朝。これではせっかくの白魚が腐ってしまいます。そこで、夜に篝火をたいて漁をして、早朝出荷する、というシステムができました。

ただ、徳川家康の存命中は、白魚を食べられたのは将軍家だけでした。理由は、家康が大好物であったことが一つ。もう一つは、生きた白魚は体が透けていて、頭に葵の御紋のような模様が見えたためです。「将軍家を下々の者が食べてよいはずがない」とされたのです。そのお達しも、家康亡きあとには解除され、江戸っ子たちは白魚を喜んで食べるようになりました。

やがて、夜、篝火に誘われて集まってくる白魚を、四手網(よつであみ)ですくって獲る白魚漁が、江戸の風物詩になりました。芸者を連れて小舟を出し、海の上で、踊り食いから塩ゆで、素揚げまで、獲れたての白魚づくしをいただく、という贅沢な遊びも人気になりました。

■初鰹を食べると750日寿命がのびる

江戸っ子は初物が大好きです。なかでも、鰹(かつお)は格別でした。「初物を食べると寿命が75日のびる」といいますが、初鰹はその10倍も寿命がのびると迷信が広まり、熱狂した江戸っ子の間で初鰹ブームが起こったのです。

鰹には、たんぱく質のほか、カルシウムや亜鉛、鉄分などのミネラル、ビタミン各種など、健康増進に大切な栄養素が豊富です。脳の若々しい働きに欠かせないDHA(ドコサヘキサエン酸)も多く含まれます。現代の栄養学から見ても、「鰹を食べると健康長寿によい」というのは間違いのないことでしょう。

ただ、「初鰹を食べると寿命が750日のびる」という迷信は、江戸っ子の信心深さをうまく利用した、鰹の消費量を増やすための策ではなかったかと思います。

鰹は回遊魚であるため、旬や盛りには大漁になります。しかし、なにぶん傷みが早い。われ先にと買ってもらうために、江戸っ子の信心深さが役に立ったというわけです。

鰹は高速船で獲りに行きます。高速船といっても、もちろん、当時は人力です。葛飾北斎の『冨嶽三十六景神奈川沖浪裏』にも描かれていますが、細長く先端の尖った船に、右に4人、左に4人の船頭が座って船を漕ぎ、前に2人が交代要員として待機します。つまり、休憩できる2人も含めて合計10人で順々に漕ぎ手を交代しながら一目散に沖まで行き、たくさんの鰹を釣り上げ、いちばんを目指して帰ってくるのです。

鰹漁は、朝と昼に行われ、新鮮な鰹が魚河岸に届けられました。それが初物となれば、大変な騒ぎです。江戸っ子が我先にと買い求め、天井知らずの値段がつけられた時代もありました。ある文献によると、文化9(1812)年に歌舞伎役者の中村歌右衛門が1本の鰹を3両で買っています。現代のレートに換算すると約30万円。文政6(1823)年には、江戸の料亭の中でも名店中の名店「八百善」が同じく初鰹を3本も買っています。

カツオ刺身
写真=iStock.com/deeepblue
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/deeepblue

■「戻り鰹」が江戸っ子に不人気だったワケ

なお、鰹は、時期によって「初鰹」と「戻り鰹」と2つの呼ばれ方があります。江戸っ子が熱狂したのは、春に獲れる初鰹。さっぱりした味と香りの高さが特徴です。これに対して、秋に獲れる戻り鰹は脂がのって濃厚な味わい。最近では「トロ鰹」との名称で売られることも多く、戻り鰹のほうが人気です。

ところが、江戸時代は秋の戻り鰹は下魚の一つに数えられていました。流通と保存の問題から、脂ののった魚は鮮度が落ちると臭みが出やすく、敬遠されたのです。また、脂がのった戻り鰹は乾燥しにくいために鰹節にも加工しづらく、もっぱら塩漬けにされました。

江戸の節約おかず番付である『日々徳用倹約料理角力取組』に、「塩かつお」として魚類方・前頭六枚目にランクインしています。一方、料理屋では、生臭さを防ぐためにお酒に漬けたり、大根おろしで洗ったりという方法がとられました。ちなみに、現代では、鰹の刺身をわさび醤油や生姜醤油で食べますが、江戸では、からし醤油が定番でした。

■苦肉の策で生まれた鰹のたたき

鰹といえば、たたきも一般的な食べ方ですが、当時は土佐のご当地グルメでした。たたきは、食中毒を恐れた土佐藩の殿様が鰹の生食を禁じたために、領民の間で発生した苦肉の策。あぶっているから生ではない、というわけです。

現代も、寄生虫であるアニサキスの害が問題になっていますが、当時もアニサキスに感染して激しい腹痛にのたうち回る人が多かったのです。アニサキスは主に身と皮の間にいます。

鰹をあぶるようになって、アニサキスを殺せるようになり、感染者は減りました。しかも、栄養豊富な皮も一緒に食べられて一石二鳥。さらに、たたきには長葱、生姜、にんにく、茗荷、青紫蘇などの薬味をたっぷり添えます。これらの薬味には、鰹のDHAの吸収を助け、食欲を増進する作用があるうえ、殺菌作用もあり、食中毒予防にも役立ちます。

なお、江戸の料理書には、土佐風とは異なる、江戸流の鰹のたたきの調理法が掲載されています。こちらは皮をはいで酒に漬け込むことでアニサキスをとり除きます。「江戸っ子はこんなたたきを食べていたんだ」と思いつつ、からし醤油でいただくと、くせになるおつな味です。

■下魚の中でも最下級だった“あの魚”

現代では、刺身といえば鮪(まぐろ)です。ところが江戸では、鮪は下魚の中でも最下級の魚で、魚河岸ではいちばん隅っこに置かれていました。なぜ、あんなにもおいしい鮪が、江戸では人気がなかったのでしょうか。

鮪は相模湾などで獲れましたが、体が大きく、江戸までは菰(こも)にくるんで大八車で運ばれてきました。菰とは、わらで編んだむしろのこと。その姿がまるで死体が運ばれてくるように江戸っ子には見えたといいます。

さらに古事記や万葉集によると、鮪は「しび」と呼ばれていました。この語感が「死日」、もしくは「死人」につながるとされ、このうえなくイメージの悪い魚だったのです。

アジア・ジャパン東京
写真=iStock.com/urf
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/urf

江戸初期に書かれた『慶長見聞集(けいちょうけんもんしゅう)』という随筆にも、「しびと呼ぶ声の響、死日と聞えて不吉なり」と記されています。鮪が下魚とされたのは、イメージの問題だけではありません。

相模湾から大八車でゴロゴロと運んでくる間に、傷み始めてしまったことも大きいでしょう。とくに脂身は傷みが早く、身崩れし、臭みも強く出ました。魚の脂が腐った匂いほど、きついものはありません。

現代では高価な大トロも、江戸では「だんだら」や「ズルズル」などと呼ばれ、畑の肥料などにされていました。魚好きの猫もまたいで通るというので、「猫またぎ」とも呼ばれました。

■吉宗の倹約令で一気に鮪が人気に

そんな鮪の消費量がいっきに高まるできごとが起こります。

8代将軍・吉宗が「天保の改革」によって贅沢を禁じたのです。これによって人々は下魚を選んで食べるようになりました。鮪は価格が安く、倹約には活躍しました。「まぐろ売り安いものさとナタを出し」という川柳が残っているぐらいで、「日々徳用倹約料理角力取組」にも、いくつもの鮪料理がランクインしています。

さらに、江戸の寿司屋が、鮪の切り身を醤油に漬けた「ヅケ」を考案しました。ヅケは、保存性を高めるだけでなく、魚の身が弾力を増し、舌触りをねっとりと滑らかにします。それが握り寿司で提供されるようになり、人々は鮪のおいしさに開眼し、たちまち人気が出たのでした。

■トロはみそ汁の具にするしかなかった

ただし、これは赤身の話。脂身への悪しきイメージは根深く、冷蔵技術が発達した昭和初期でさえ、タダ同然で取引され、捨てられることも多かったそうです。

車浮代『江戸っ子の食養生』 (ワニブックスPLUS新書)
車浮代『江戸っ子の食養生』(ワニブックスPLUS新書)

江戸時代、鮪の脂身はよく味噌汁の具にされました。「日々徳用倹約料理角力取組」にも「鮪から汁」という名称が見られます。鮪のトロを使うわけですから、現代の私たちからすると、「なんて贅沢な」と感じますが、当時の人たちにしてみれば、安い脂身をいかにおいしく、臭みを消して食べるかが大事でした。そこで、味噌で煮るという調理法が用いられたのです。ただ実際のところ、から汁がどのような料理だったのか、明確にはわかっていません。

「日々徳用倹約料理角力取組」の魚類方のトップ4に鮪から汁の名称があるのですが、レシピを掲載した料理本が見つかっていないためです。このように、料理名しかわかっていない江戸料理は多く、研究者たちがそれぞれに予想し、再現することになるため、いくつかの説が出てきます。から汁の場合も、鮪のすき身の味噌汁だという説もあれば、鮪の味噌汁におからを入れているから「(お)から汁」だという説もあります。

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車 浮代(くるま・うきよ)
江戸料理・文化研究家
企業内グラフィックデザイナーを経て、故・新藤兼人監督に師事し、シナリオを学ぶ。江戸時代の料理の研究、再現(1000種類以上)と、江戸文化に関する講演、NHK『チコちゃんに叱られる!』『美の壷』などTV出演多数。著書に『江戸の食卓に学ぶ』(ワニ・プラス)、『免疫力を高める最強の浅漬け』(藤田紘一郎と共著/マキノ出版)などがある。

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(江戸料理・文化研究家 車 浮代)

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