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だから私は「人間」より「猫」を信用するようになった…小学2年生の養老孟司が「敗戦の日」に体験したこと

プレジデントオンライン / 2022年8月15日 13時15分

愛猫まると養老孟司さん - 撮影=平井玲子

1945年8月15日。敗戦は日本社会を根底から変えた。解剖学者の養老孟司さんは「小学2年生だった私は、あの日を境に世の中ががらりと変わったのを見た。だから私は人間の言葉を信用せず、猫を信用するようになった」という――。

※本稿は、養老孟司『まるありがとう』(西日本出版社)の一部を再編集したものです。

猫は「しゃべらない」から信用できる

「養老さんにとってまるとはどんな存在ですか?」と聞かれて、よく「ものさしです」と答えた。

人間社会に長くいると、判断に迷うことがある。まるを眺めていれば、人間社会の“常識”に毒されず、物事の本質を見誤ることはないだろう。ものさしにする、というのはそういう意味である。そう思う理由の一つに、まるがしゃべらない、ということがある。

私は、人がしゃべったことは基本的には信用しない。そうなった原因は、1945(昭和20)年8月15日の体験である。

当時、私は小学2年生で、大人たちが敵襲に備え、「鬼畜米英」「本土決戦」「一億玉砕」などと言って一生懸命、訓練をしていたのを憶えている。ところが、あの日を境に、世の中ががらりと変わってしまった。「本土決戦」も「一億玉砕」も、そう言うのだから当然やるものと思っていたが、結局やらなかった。もしやったら最悪の状態になっただろうからやらなくてよかったが、どうせやらないのなら、そんなことを言うなよ、と思った。

戦後は一転して「マッカーサー万歳」となり、全体主義から個人尊重の世の中となった。その体験は私の人間形成に大きく影響し、理系に進んだのも研究対象が人間ではなく、「物」であることが大きい。物は決して嘘をつかない。医学部で解剖学を専攻したのも、死体は決してものを言わないから、作業していて気分が落ち着いた。死体が物かどうかは少し詳しい説明が必要だが、とにかくものを言わないことは確かである。

■物事の実態を言葉で伝えるのは不可能である

人間社会はある意味、言葉が支配する社会である。

ところが、物事の実態をそのまま言葉で伝えるのは難しい、というより不可能である。よくいって、せいぜい実態を補完するものでしかないのに、それを絶対視しようとするから、戦前戦中の日本のように、言葉に実態を合わせようとするようなちぐはぐが起きる。

だいたい言葉が介在する世界は相手の話を一応は聞かなければならない。黙っていたら、返答を求められる。そういう世界は面倒で、疲れる。

その点、まるはしゃべらない。嫌なものは嫌だし、好きなものは好き。気楽なものだ。配慮もなければ、忖度もない。実に正直である。寝床で添い寝をしていて、朝起きると、えさをくれという。言葉で「くれ」と言えないので、鳴くか、寝ている私の顔をなめるか。こちらはああ腹が減っているんだなと気付く。それで用事は足りる。えさをやって腹が膨れると、ごちそうさまも言わなければ、ありがとうも言わない。はい、さようならという感じでどこかへぷいと行ってしまう。

■人間は自分の興味のある物しか憶えていない

まるやその前のチロだけではなく、わが家はだいたい猫を飼っていた。子どもの頃、いつも不思議に思っていたのは、彼らが何年たってもしゃべらないことだった。

言葉を話すか、話さないか。これは人間と動物の大きな違いである。どうして動物はしゃべれないのか。それは、動物が感覚を頼りに生きていることと関係がある。

例えば視覚も、すごく敏感に物の違いを見ている。チンパンジーの子どもは「カメラアイ」を持っている。カメラアイというのは、目に映った物をカメラのように、ぱっと映像の形で記憶してしまう能力のことで、「写真記憶」「直観像記憶」ともいわれる。

撮影=平井玲子

人間は、自分の興味ある物に焦点を合わせて見るから、そこしか憶えていない。見た物の大半は家に帰ったら忘れてしまうが、チンパンジーの子どもは目に映った物の細部を短時間で記憶する。大きな部屋に人を100人集めたとして、私たちはそれをすべて同一の「人」と認識できるが、それができるのは人間だけである。

動物はこれをやらない。まずそれぞれの違いに気付く。例えば、その部屋にまるを連れてきたとすると、どうなるか。おそらく別の個体が100人並んでいると感じるだろう。チンパンジーのカメラアイも、こうした感覚を優先する動物としての能力の一つと私は思う。

■人間はなぜしゃべれるのか

同じように、動物は言葉を感覚的に音として捉えている。まるが名前を呼ばれて反応しているのは、おそらく声のトーンによって自分が呼ばれていることを聞き分けているからであろう。

撮影=平井玲子

あるいは、白板に黒いペンで「白」と私が書くとしよう。まるはおそらく白色を連想しない。なぜなら、その文字が黒いからである。同じように黒いペンで、「赤いリンゴ」と書いても、まるが認識するのは、そう書かれた黒い線だけであろう。

反対に、人間はなぜしゃべれるのか。それは、意識が優先するからである。人間の意識には、感覚から得た刺激をすぐに脳みその中でたちまち意味に変換し、「同じ」にしてしまうという働きがある。

私たちがその部屋へ行き、100人の個体を見ても、「人」という概念で一括りにできる。それゆえ、認識を共有して、言葉のやりとりが可能になるのである。だが、それが良いことずくめであるとは限らない。

■人間は実態よりも意味を優先してしまう

人間は意識を優先させるがため、何にでも意味を付けようとする。ほうっておくと、実態よりも意味を優先して、ちぐはぐを起こす。自然をコントロールしようとして森林を破壊してしまうのも人間だし、資源を見つければ根こそぎ取り尽くしてしまうのも人間である。先ほどの戦前戦中の言葉の問題も、構造は同じといえよう。

人間社会で暮らしていると、自然に人間社会の垢がたまってくるので、感覚の世界を時々、確認したくなる。まるをものさし、つまりある種の基準として観察することで、私は自分の生き物としての自然な感覚を忘れないように、生身の自分を調整していたのである。

人間社会を見れば、西洋はアジアと比べてはるかに意識中心の世界である。

その意識は、自分が見たり触ったり感じたりした物事を、どんどん抽象化して「同じ」にする。いつもいうように、リンゴとミカンがあれば「果物」に抽象化する。それにサンマが加わると「食べ物」になる。抽象化は、このように階層を成していて、「同じ」を繰り返して突き詰めていくと、最後は一つになる。

その頂点は何か。私はそれが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のような一神教における「神様」であると思っている。ところが、自然を基礎に置く日本人は、物事をそれほど理屈中心で考えない。だから、神様も「八百万(やおよろず)」である。そのような日本人の信仰を、私は「実感信仰」と呼んでいる。西洋のように、唯一神にはならない。ちなみに、西洋的な抽象化の階層でいえば、「実感」は最下層にある。

■マッカーサーが言った「日本人12歳説」

戦後の日本を統治した連合軍司令官のダグラス・マッカーサーが言った「日本人12歳説」をご存じだろう。議会の委員会で質問に答え「現代文明の基準で測ると、私たちアングロサクソンが45歳であるのに対して、日本人はまだ12歳の少年のようだ」と述べた。彼らが信仰のように大事にしてきた民主主義、自由主義の理想や思想的価値観をものさしにして「成熟度」を測ると、そういう見方になる。

こういう考え方をするのは西洋人ばかりではない。日本人も、西洋側からの視点に立って日本的な感覚を「素朴」とか「原始的」などといいがちである。だが、果たしてそうだろうか。明治以来、日本人は西洋についてよく知ろうとしてきたが、自分たちの特性については西洋型を前提にして批判するという形でしか考えてこなかっただけであろう。だからそのような捉え方になるのである。

例えば日本ではよく、その場の空気で大切なことが決まる。それは悪いことのように思われがちであるが、言葉で言い表せない微妙なところを空気で補完しているわけで、あながち悪いことと言い切れない。いや、そもそも日本人がそれでうまくいくのなら、むしろ良いことなのではないか。

■日本人は「談合」を悪いことだと思っていない

だいたい日本人は公共工事の談合を、心の底ではそれほど悪いことだと思っていないだろう。現代では法律で禁止されているが、それは建前で実態は今も因習として残っている。

撮影=平井玲子

西洋的フェアネス(公正)の精神からすると非常にアンフェアネス(不公正)ということになるが、みんなが順番に落札者になれるように、入札業者同士で事前に話し合って「調整」することで、誰も損をしない。それによって、新規参入が阻まれ工事が手抜きになるなどという人もいるだろうが、ひょっとしたら西洋化以前は、日本人は談合と併せてそうしたことをきれいに排除する手だてを持っていたかもしれない。なかったかもしれないし、あったかもしれない。そんなことは今となっては、誰にも分からない。

大相撲で、対戦相手がもう一勝できなければ番付が下がるという局面でわざと負けてやる「人情相撲」がある。これも西洋的な価値観を基準にすると、著しくスポーツマンシップに反することになるが、例えば優勝争いに影響しない消化試合で星の貸し借りをして、果たして誰が損をするのだろう。

一夜にして世の中ががらりと変わったのを見た

言葉は意識中心の世界が生み出したと述べたが、空気や呼吸といった感覚で大事なことが決まる仕組みが良い場合もあるはずである。どちらが良いかは、時と場合による。少なくとも言葉の世界が、何にもまして高尚とは限らない。

養老孟司『まるありがとう』(西日本出版社)
養老孟司『まるありがとう』(西日本出版社)

あまり意味を考えてはいけない、理屈にしない方がいい場合もある。「雰囲気」とは、そういうことである。現代人は理屈に合うものが正しいと信じているが、人間そのものが元来、理屈にあったものではない。だいたい、どうして虫なんか調べるんですかと聞かれても、説明できないではないか。大切なものほど、言葉になんかできないのである。

私には、戦後の日本人が民主主義、自由主義を本気になって受け入れたと思えない。日本に西洋で発生した理想主義が本当の意味で根付くのか。平和、人権、民主主義と声高に叫んでいる人を見ると、「あんた、本気で言ってるの?」と言いたくなる。決して揶揄ではない。そういう人ほど言葉に依存している、つまり意識の世界にいるからである。

時代が酷くなったら、おそらく人権や平和、民主主義を強く叫んでいる人から順番に壊れていく。一番大きな理由は、先ほど述べた敗戦の体験である。1945年8月15日、一夜にして世の中ががらりと変わったのを見てしまったからである。

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養老 孟司(ようろう・たけし)
解剖学者、東京大学名誉教授
1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。医学博士。解剖学者。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。95年、東京大学医学部教授を退官後は、北里大学教授、大正大学客員教授を歴任。京都国際マンガミュージアム名誉館長。89年、『からだの見方』(筑摩書房)でサントリー学芸賞を受賞。著書に、毎日出版文化賞特別賞を受賞し、447万部のベストセラーとなった『バカの壁』(新潮新書)のほか、『唯脳論』(青土社・ちくま学芸文庫)、『超バカの壁』『「自分」の壁』『遺言。』(以上、新潮新書)、伊集院光との共著『世間とズレちゃうのはしょうがない』(PHP研究所)、『子どもが心配』(PHP研究所)など多数。

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(解剖学者、東京大学名誉教授 養老 孟司 構成=大津薫)

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