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江戸時代の日本の小売業を「世界最先端」に変えた…「日本最初の起業家・三井高利」の歴史的偉業の数々

プレジデントオンライン / 2023年12月10日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mizoula

商品を陳列し、値札を付けるというアイデアは、世界に先駆けて日本で生まれたものだ。ベンチャーキャピタリストの古我知史さんは「大衆向けの薄利多売のビジネスモデルを現実化した三井高利は、世界の小売りの常識を変えた」という。新刊『いずれ起業したいな、と思っているきみに 17歳からのスタートアップの授業 アントレプレナー列伝』(BOW BOOKS)より、一部を紹介する――。(第3回/全4回)

■日本が誇る、世界の小売りの常識を変えた男

三井高利 Mitsui Takatoshi
1622~1694 伊勢生まれ。三井家の家祖。14歳のとき江戸に出て長兄の営む呉服店越後屋に奉公。いったん郷里に戻るも、1673年長兄没後、江戸日本橋に宿望の呉服店を開き、’83年現金による店頭での定価販売、布地の切売などの新商法を開始。店内分業制や賞与制などの新しい管理法も始める。同時に両替店を開いて金融業の兼営を始めた。

本稿では、日本の代表的なアントレプレナーを紹介しよう。わたしの尊敬する人の一人だ、残念ながら、お会いしたことはない。なにしろ、1600年代、つまり江戸時代の人なので。

三井高利。この名を知らなくても苗字でピンとくるだろう。三井物産、三井不動産、三井化学、三井E&S、三井住友銀行等々の三井グループ、その元となる戦前の三井財閥の創始者だ。

■「越後屋」をつくった以上の偉業がある

その三井財閥の基礎をどうやって築いたかというと、いまの三越百貨店の前身である呉服屋「越後屋」だった。三越百貨店自体、いまは、三越伊勢丹ホールディングスとなっているし、若い人には百貨店そのものがオワコンで、だから何? かもしれないが、三越と言えば、戦前からバブル期までの昭和の時代、三越でお買い物、というのがある種のメッセージを発するような日本一の高級百貨店だった。

ただ、これからお話しする三井高利のアントレプレナーとしてのすごさは、単に、その三越の前身をつくったなどということではない。いまも続く、世界初のとんでもない「革命」を商習慣そのものに起こしたことにある。とにかく、かれのビジョンとスタイルは、現代の若いきみたちにも、十分、勉強になるはずだ。

■兄に疎まれ、不遇の時代もくじけなかった

三井高利は、1622年、いまの三重県の松阪に、商家の四男四女の末子として生まれる。

14歳で江戸に出て、長兄の営む呉服店で奉公したが、なかなか認めてもらえなかった。かれの能力の高さが長兄俊次に疎まれてしまった。再び高利が江戸に出てくることのないように、母の殊法を支えることを名目に説得し、郷里に送り返される。28歳のときだ。

だから、かれが、再び江戸に出たのは、それから24年後、その長兄が亡くなった1カ月後、52歳のときだった。そこでようやく、悲願であった、いまの日本橋三越があるその場所に「三井越後屋呉服店」(越後屋)を開業する。

そして数々の商売の革命を起こすわけだが、ただの思いつきではなかった。長兄が亡くなるまで、三重県の松阪に根を下ろして、我慢に我慢を重ね、検証に検証を重ね、とにかく考えて、考えて、考えた。もし、再び、江戸に出る機会があったら、こういう商売をやろうと。つまり、小さなトライ&エラーを現場で積み重ね、三つの汗を徹底的にかいて、特に脳みそに汗をかいて、夢と野心と志を温め続けた。

■母のもったいない精神を受け継いだ?

実は不遇と思われている松阪時代、三井高利がもっとも寄り添った母の殊法こそがブリコルールの体現者、もったいない精神の具現者であって、一切物を捨てない廃物利用の達人であったことにわたしは注目している。つまり高利のビジネスモデルの発想は殊法のやり方や考え方をロールモデルとしているのではないか、と。奉仕の精神の実行者でもあって、お店の気の利いたサービスすべては、殊法がいろいろ考え工夫してつくりだしたものであった。

こうして雌伏の松阪時代に考え抜いて挑戦した商いの方法が、世界で誰も思いつかなかった新しいビジネスモデルだった。

当時、最大の商品と言えば、着物だった。いまで言うアパレルだ。日本では着物。だから、日本では、金融業を除けば、着物を扱っている業者が、商売人としてはいちばんの金持ちだった。つくっている人よりも商っている人が儲けていた。西陣でつくった着物を京都の着物の豪商が売る、江戸の豪商が売る、というのが、一つのメガトレンドのビジネスモデルだった。

■ヨーロッパも中国も「掛け売り」だった

基本的なスタイルは、顧客の家にいくつかの反物を見繕って持って行って売るというもの。相手は、大名や両替商などといった金持ち。かれらに、着物一着分の一反単位で、売る。代金は、その場では回収しないで、盆暮れの2回、期末に集金する。

これが当たり前の商売のモデル(屋敷売り)で、実は世界中そうだった。ヨーロッパの貴族の邸宅に出入りする業者も、中国のそれも。お客さんのところへたくさんの商品を持って行って、丸ごと掛けで買わせて、あとから代金回収する。いわゆる掛け売りだ。それが普通の商売のスタイルだった。

庶民は、お店に出かけて行って買うこともできたが、お店に商品が並んでいるわけではない。希望を言うと、店員が見繕って、いくつかを奥から持ってくる。その中から選んで、やはり一反、丸ごと買わなければならない。

価格は、といったら、基本、決まっていない。交渉次第で、その場で決まる。そもそも、定価という概念が存在しなかったからだ。

だから、庶民と言っても、ある程度裕福な人でなければ怖くて買えないし、そもそもそうでなければ相手にしてもらえない。それが、当時の普通の商売のスタイルだった。ビジネスモデルだったということだ。

■商品陳列、値札は17世紀の江戸で生まれた

それを、かれは、180度変えた。17世紀の日本、江戸で、世界で初めて!

まず、対象を大衆にした。大名や豪商ではなくて、江戸の庶民、町民や農民を含む大衆をターゲットに設定した。のちのヘンリー・フォードを想起するよね。高利は200年以上も早かった。

そして、商品を店の前に陳列した(店前(たなさき)売りと呼ぶ手法だ)。それまで、店に入っても商品はなく、客は希望を言って奥から出してきてもらう方式だったのを、店に行けば、そこに陳列された反物を手にとって自由に見ることができるようにしたのだ。

駿河町三井越後屋の内装(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)
駿河町の三井越後屋の店内を描いた「浮絵駿河町呉服屋図」(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)

さらに、そこには、値段が明記されていた!

正札(しょうふだ)と呼ぶ手法だ。それまで値段というのは、交渉事だったのを革新し、これはいくら、これはいくらと、正札を付けて値段を固定化した。定価という概念が世界で初めてここに導入されたのだ。

さらに、反物は、一反まるごと買う必要はなかった。客は、必要な長さだけ買えるようになった。切り売りという常識を覆す売り方だ。もちろん庶民は大喜びである。支払いは、掛け売りなしのその場での現金払いだ。いまでいうチラシ広告の手法も世界で初めて編み出した。

■商売敵からは仲間外れや嫌がらせに遭う

小売り業で革命を起こしたとされる世界的ベンチャーのウォルマートにも300年以上も先駆けて、大衆向けの薄利多売(EDLP=Everyday Low Price)のビジネスモデルを、現実化したのである。

つまり、それまでの商いの方法をすべて否定して、現代まで続く小売りのビジネスモデルを、世界で初めて生み出したんだ。

同時代に生きていればいかにすごいことを三井高利がやり遂げたか、わかるに違いない。何しろ、士農工商の封建社会の身分制度があって、幕藩権力に対して従属するのが豪商、政商の生き残り方だった時代だ。しかも幕府御用達の豪商たちが排他的に既得権益を守るべく、徹底して新参者を排除する根強い商慣習があった。

三井高利の当時の様子がうかがえる三井の『家伝記』や『商売記』があるが、商売敵に仲間外れにされ、邪魔や嫌がらせ行為をされながらも、これらの困難にまともに先頭に立って、挑戦していくリーダーシップは生半可なものではない。

いつの時代も、アントレプレナーが、強烈なリーダーシップとともにたちあらわれるということだ。

■27カ条の規則で店員のプライベートも徹底管理

三井高利のビジネスモデルや商売の考え方がうかがえる、年々改訂されていた複数の店規(店の経営の原理原則のようなもの)が残っている。

『いずれ起業したいな、と思っているきみに 17歳からのスタートアップの授業 アントレプレナー列伝 エンジェル投資家は、起業家のどこを見ているのか?』
古我知史『いずれ起業したいな、と思っているきみに 17歳からのスタートアップの授業 アントレプレナー列伝』(BOW BOOKS)

とにかく細かい。そして、厳しい。徹底的に細かいことまで店と店員(丁稚や手代のこと)の規則として定めて、署名までさせている。高利のパラノイア(偏執症)ぶりは想像を超えるものだ。

27カ条もあるのですべてを記すのは割愛するが、たとえば、掛け売りや紛失などによる損害は一切責任者の負担とするとか、売れ残り品は見切りをつけて古着屋に処分することとか、遊興や悪友との交わりは営業上の利益があっても敢えて禁ずる、などの方針を明記している。大酒や酩酊(めいてい)を慎むこと、健康に留意すべきことなど、私生活にまで立ち入った規則も書かれている。

印刷技術のグーテンベルクや自動車のヘンリー・フォードのようには世界で知られていないが、三井高利がなし遂げた数々の商売のイノベーションは、ものすごいことだと思わないか? 三井高利こそ、日本が誇るアントレプレナーの最初の人だとわたしは思っている。

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古我 知史(こが・さとし)
ウィル キャピタル マネジメント代表
早稲田大学政経学部政治学科卒業後、モンサント、シティバンク、マッキンゼー・アンド・カンパニーなどを経てウィルキャピタルマネジメント株式会社を設立、80社の起業、事業開発や投資育成の現場に、投資も含め、直接参画してきた。九州大学大学院客員教授、FBN(ファミリービジネスネットワーク)ジャパン理事長、一般社団法人衛星放送協会外部理事などを歴任。橋下徹が大阪市長時代に進めていた大阪都構想に参加。大阪府市統合本部特別参与として、経済部門を担当した。現在、県立広島大学大学院客員教授、京都大学産学官連携本部フェロー、IPOを果たしたベンチャー企業の取締役などを兼任。主な著書に『戦略の断想』(英治出版)、『もう終わっている会社』(2012年ディスカヴァー)、『リーダーシップ螺旋』(晃洋書房)などがある。

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(ウィル キャピタル マネジメント代表 古我 知史)

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