なぜ元祖コッペパン専門店は岩手を出ないのか…福田パンが「直営4店舗だけ」にこだわる納得の理由
プレジデントオンライン / 2023年12月10日 12時15分
■50種類のメニューが並ぶ盛岡のコッペパン専門店
JR盛岡駅から南にクルマを走らせること約20分、物流倉庫が立ち並ぶ県道沿いにこぢんまりとした赤色の屋根が見えてくる。
ここは、コッペパン専門店・福田パンが運営する「矢巾店」。
お昼時の店内に入ると、カウンターには順番待ちの列ができている。客は約50種類に及ぶメニューの中からお気に入りを選んで注文する。
「あんバター3つとエビカツ。それと……」
注文を受けた店員が手際よくパンに具材を挟んで提供する。商品で一杯になった袋を手にぶら下げて、満足げな表情で店を後にする人たち。一番人気の「あんバター」はボリューム満点で176円という安さだ。
「毎日1万個。連休やお盆には2万個を製造していますね」。福田パンの福田潔社長(54)はこう話す。
■コッペパンブームの火付け役
福田パンの看板商品である「コッペパン」は、盛岡のソウルフードとして有名だ。数年前には全国でコッペパンブームが巻き起こったが、その火付け役と言われている。現在の年間売上高は6億円前後。福田社長が修行先の東京から盛岡に帰ってきた1997年は3億円に満たなかったため、そこから倍以上に伸びた。
ブームの担い手と聞くと、ガツガツしていて金儲けに貪欲な会社をイメージしてしまうが、社長も店構えも“素朴”という表現がピッタリ。福田社長は会社の規模をこれ以上大きくするつもりもないと断言する。
直営店は4店舗あって、盛岡市内とその隣接エリアに構える。地域外に出店する気は毛頭なく、あくまでも目の届く範囲で運営したいという。正真正銘、地元に根ざしたパン屋である。
福田パンを食べたければ盛岡へ行くしかない。従って、休日には県外から多くの人たちが押し寄せている。ここまで福田パンが愛される理由とは何だろうか。
■安い値段で満腹になってもらいたい…学校の売店から広がった
福田パンは、福田社長の祖父である福田留吉氏が1948年5月に設立した。創業の地は本店のある盛岡市長田町。留吉氏は元々、酵母菌の研究者で、戦前はイースト製造会社で働いていたため、パンの製法には詳しかった。
ただし、戦後間もない時期、手に入る材料も限られていた。そこで砂糖などを使わないフランスパンから始め、徐々に品数を増やしていった。
1950年代に入ると学校の売店でパンを販売するように。学生に安い値段で満腹になってもらいたいという思いで、この頃にクリームやバターなどを挟んだ“コッペパン”を商品開発した。
なお、同社ではコッペパンとは言わない。一般的には細長く、真ん中に具材が入ったものをコッペパンというが、福田パンのそれは、ボテっと重厚感のある大きさで、柔らかい生地が特徴。昔からソフトフランスパンとして作っているため、今でも社内では「フランス」と呼んでいる。
■学校に着ていく服がなかった幼少時代
取り扱ってくれる高校や大学などが増えていき、住み込みの従業員も雇えるようにはなったが、決して儲けが出るほどではなかったという。むしろ、子どもの頃は貧乏で苦労したと福田社長は吐露する。
「小学生の時に悔しい思いをしたのが忘れられません。学校に着ていく服がなかったんです」
当時の子どもたちは学校指定の体操着で通学していたそうだが、例えば雨が続いて体操着が乾かないことがしばしばあった。替えの体操着を持っていないため、夏場に肌着の上にジャンバーを着て登校すると、先生からは「お前は馬鹿か」と叱られた。
福田パンはその頃、パンの材料費と社員の給料を払うと、会社にはお金が残らなかった。体操着を買う余裕などなかったのだ。
「家族には当然給料が出ません。両親はじいさんから食費だけをもらっていたようです。自由に使えるお金はなかったから、親父とお袋は店で余ったパンの耳を大きい袋に入れて、何百円かで売っていました。それを小遣いの稼ぎにして、私たち子どもに必要最小限のものを買い与えてくれました」
福田社長が覚えているのは、月末になると売り上げの小銭をかき集めて、祖父が銀行に支払いにいく光景だ。そのくらい自転車操業だった。
■地元の主婦たちの後押しでスーパーに進出
地元の人たちの食欲を安価で満たしてくれる良心的なパン屋ではあったが、商売っ気はなく苦労が尽きなかった。福田社長は当時の雰囲気を、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に出てくる、家族経営の小さな自動車修理工場と重ね合わせて懐かしむ。
そんな福田パンに転機が訪れたのは約40年前。大手スーパーマーケットの「サティ」に商品が納入されることになったのだ。しかも驚きなのは、福田パンから営業活動をしたわけではなく、地元の主婦の後押しだった。
「うちの店の近所の人がサティにパートへ出ていて、売り場担当のチーフの方に提案してくれたそうです。『じゃあ、1度持ってきなさい』となって、採用に至ったみたいです」
スーパーとの取引が決まったことで、きちんと商品名を印刷したパッケージを慌てて作るほど、予期せぬ出来事だった。
サティに商品が並ぶと、盛岡市内の他のスーパーからも引き合いがあり、一気に販売流通網が広がった。ようやく貧乏から脱却でき、「普通のサラリーマン家庭並みの生活にはなった」と福田社長は目を細める。
■注文を受けてから作る「出前スタイル」
売り上げが伸びるにつれて、幾つかのスーパーからは盛岡市外の店舗にも卸してほしいという要望が出てきた。けれども、あくまで市内のみの提供にとどめていた。それには理由がある。当時、福田パンはスーパーからの注文を受けてからパンを製造していたからだ。
「出前と同じで、注文ごとに商品を仕上げていました。例えば、ある店舗からあんバター5個、ジャムバター3個、ピーナツバター3個という注文が入ったら、そこからパンにバターを塗って簡易包装をする。それが5店舗分そろった段階で、配達に出て行くという感じでした」
人員も限られているため、こうしたやり方だと物理的に盛岡市外まで配達するのは難しかった。ただ、断っても熱心に頭を下げ続けるスーパーもあった。ついには根負けした福田パンは、作業工程を工夫するなどして、配達エリアを少しずつ広げていき、福田社長が家業に入った時には花巻市の店舗まで届けるようになっていた。
■できるだけ焼き立てを届けたい
現在は岩手県全域のスーパーに卸しており、生産量も過去の比較にならないほど大きい。それに対応できる仕組みを作ったのが福田社長だった。
約四半世紀前に家業に入ると、まずは商品の品質管理をテコ入れした。それ以前は細い電熱線でパチンと切った、細い閉じ口の簡易包装だったが、大手メーカーと同じくピロー包装に変えた。
「手で袋を押すとプシュッと空気が抜けるようなものでした。配達途中に小さい穴が空いて、そこから虫が入ることがよくあって、しょっちゅうお詫びに行っていました」と福田社長は苦笑いする。
もう一つ、製造体制を見直した。スーパーからの注文は前日までに締め切り、その日の夜から翌朝にかけて製造するようにした。以前のように鮮度の高いパンを配送することはできなくなったものの、通常、大手メーカーであれば、前日夕方には製造を終え、夜中に仕分けし、朝に配送するため、それよりも半日は後ろ倒しとなる。「できるだけ焼き立てを届けたい」という福田パンのこだわりは今なお生きている。
このような仕組みづくりを徹底したことで安定供給が可能になり、現在は福田パンの売り上げ全体の6割をスーパーが占めるほどに成長した。
■ソウルフードの誕生
福田パンが盛岡のソウルフードと呼ばれるようになったのは20年ほど前のこと。地元のミニコミ誌『てくり』が特集記事を組んだことがきっかけだったという。「恥ずかしさもあるけど、そう言ってもらえるのは嬉しい」と福田社長は素直に喜ぶ。
盛岡あるいは岩手には他にも代表的な食べ物はある。その中で福田パンが地元の人たちに愛されるソウルフードになったのは明確な理由がある。その一つが学校販売だ。
先述したように、創業してからすぐに地元の高校や大学の売店にパンを卸していた。福田社長が高校生の時は、自身が通っていた学校にも従業員が販売に来ていて、毎日飛ぶように売れていた。
「コンビニがまだない時代。みんな“早弁”するから、昼になるとお腹が空いて、うちのパンを待っているわけですよ。3時限目と4時限目の終わりの2回販売で、500~600個は売れていました。昔はほとんどの高校のお世話になっていたので、うちのパンを食べたことのない学生はいなかったはず」
盛岡で育った人たちにとっては、懐かしい青春の味なのだ。現在も盛岡市内の大学3校、高校5校ほどで販売している。福田社長は「洗脳ですね」と冗談っぽく話すが、すっかり福田パンのファンになったかつての学生たちは、卒業した後も店に通い続けることが少なくない。福田社長はこんなことがあったと語る。
「ある年のゴールデンウィーク、本店で2時間待ちの行列ができて、私が駐車場の整理をしていたんです。そこに小さな子どもを連れた夫婦が歩いてきて、ご主人が『学生のころ、よくここに買いに来たんだ。思い出の場所だよ』と話していました。それを聞いた時は嬉しかったですね」
■テレビ番組で紹介され、コッペパンブームが広がる
とはいえ、まだまだ岩手エリアに閉じた存在だった福田パンが全国区になったのは、福田社長の記憶によると2016年のことである。同年2月にご当地グルメなどを紹介するテレビ番組「秘密のケンミンSHOW」(日本テレビ系列)で取り上げられた。
「放送の翌朝、いきなり店の前に150人ほどが並んでいました。それから3日間、私も寝ずに働きました」
さらに5月、バラエティ番組「嵐にしやがれ」(日本テレビ系列)で紹介されたことで、福田パンの名が一躍全国に知れ渡るように。以降、休日になると県外から客が大挙をなしてやってきた。それがコッペパンブームの始まりとされている。
■似たような店が続々、バブルだと割り切る冷静さ
同時期にドトール・日レスホールディングスの子会社が運営するコッペパン専門店「コッペ田島」や、明らかに福田パンを意識した「盛岡製パン」というチェーン店などが相次いで登場した。こうしたブームをどう見ていたのか。
「正直言ってうちも儲けさせていただいたので……」とはにかみながら、福田社長は続ける。
「これはバブルだからと割り切って、工場も製造設備も特に大きくすることはなく、会社の規模も広げることはありませんでした。親父からの教訓です。以前、青森の寿司屋がコンビニで商品化されて爆発的に売れたので、工場をもう一つ建てたそうです。ただ、商品の売り上げが落ちて契約解除された結果、簡単に会社がつぶれてしまったと、親父がよく話していたのを肝に銘じていました」
他方、空前のブームで福田パンの店舗は連日大混雑に。地元客に迷惑をかけてしまったと福田社長は嘆く。
「うちはあくまでも地元のお客さんを相手に商売をしてきました。ブームに関係なく、地元の人たちはずっと買ってくれていました。それが、いつも混んでいて買いに行けなくなったのは申し訳ない気持ちでいっぱいです」
今はブームも落ち着き、平日は地元客、休日はそれ以外の客と、棲み分けができつつあるそうだ。
■「福田家がやっているから福田パン」
あくまでも地元のために――。盛岡以外に出店しないというポリシーからも、これが決して取ってつけたような言葉ではないことがわかるだろう。なぜ福田パンは地域外に出ないのか。
「頭のいい社長だとどんどん会社を大きくできるんでしょうけど、私くらいのレベルだと今のままで十分。会社それぞれにあった規模がある気がしていて、大きくなった方が安全な会社もあれば、こぢんまりと経営した方が安全な会社もある。うちはこのくらいが安全だと思います」
福田社長はそう謙遜するが、突っ込んで話を聞いていくと本心も見えてきた。
「(フランチャイズなどで)規模を広げると会社が人手に渡りますから。自分たちだけでは運営できなくなり、どこかの支援を頼るしかなくなる。実際、地方の製パンメーカーのほとんどは大企業グループの傘下に入っています。福田家がやっているから福田パンだと思うんですよ。じいさんや親父が切り盛りしていた姿を見て、私も『福田パンってこうなんだ』というイメージを持っています。将来、私の息子もそうした姿を見ることで後を継いでくれると思います。金だけではないです」
■全国展開の話は断る、パン作りを学びたい人は断らない
コッペパンブームも相まって、今までに地域外出店や全国展開を打診してきた企業は数知れず。福田社長が一番驚いたのは、関東地方の大手銀行が、資金も用地も準備するから店を出さないかとオファーしてきたことだった。
しかし、どんなに好条件でも福田社長は聞く耳を持たなかった。自分の目の届く範囲、すなわち地元・盛岡でしか店舗を構えない。この信念が揺らぐことはない。
では、長年培ったノウハウや知見は門外不出かというと、そういうわけではない。福田パンの技術などを真剣に学びたいという人に対しては教えることを惜しまない。現に、東京都葛飾区の吉田パン、福岡市の山本パン、大阪府高槻市のゆうきパン(現在は閉店)のオーナーが福田パンで指導を受けて、コッペパン専門店の開業にこぎつけた。
「『パン作りをしたことがないけど、パン屋をやりたい』とやって来たので、『じゃあ、教えてあげるよ』。その程度のことです。うちのやり方だと、1種類のパン作りを覚えればできるから、教えるのは簡単ですね。(教育費やブランド使用料などの)お金は一切いただきませんが、その代わりすべて自己責任でやってくださいと伝えています」
現在も、秋田から毎月福田パンに通って修業を積んでいる開業希望者がいるそうだ。
■「社員が家を買えるようにしたい」
この先、福田パンはどうありたいのか。「大きくするつもりもないですし、今のやり方を変えるつもりもない」と改めて強調した上で、福田社長はこう呟く。
「社員が家を買えるようにしたい。子どもが大学に行きたいと言えば、すんなり行かせられるようにしてあげたい。小さい会社なので、そんなに給料を出せてはいないんですけど、それでも社員が喜んで働きにきて、十分な生活を送れるようにしたい。去年も社員の一人がマンションを買ったんです。そういうことが一番嬉しいですね」
福田社長には4人の子どもがいて、全員を大学に送り出すことができた。社員にも同じことをさせてあげたい。そのためにも会社を維持する責務がある。
目下の課題は雇用の確保である。人手が足りずに福田社長自らもパンの製造ラインに入ることがある。地元の若者にとって、もっと魅力ある会社に育てるのが使命だと感じている。
■盛岡以外に店を出したい唯一の場所
もう一つ、福田社長には夢がある。盛岡から出ないことを頑なに貫いているが、実は唯一、花巻には出店したいのだと明かしてくれた。花巻は創業者である祖父の故郷である。
「じいさんが花巻出身だから、いつかは店を出したい。今は花巻もシャッター商店街になっていて、活性化のために若い人たちが頑張っているんですけど、何かしらお役に立てれば。それが恩返しだと思っています」
謙虚さ、素朴さ、地に足のついた経営、そして何よりも地元を大切にする思い。これらの総合力が福田パンの魅力の源泉であり、だからこそ客も愛着や信頼感を持って店に何度も通うのだ。未来永劫(えいごう)、福田パンの名が岩手の地に残り続けることを願ってやまない。
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ライター・記者
1979年生まれ。神奈川県出身。専門テーマは「地方創生」「働き方/生き方」。慶應義塾大学環境情報学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修了。ニュースサイト「ITmedia」を経て、社会課題解決メディア「Renews」の立ち上げに参画。
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(ライター・記者 伏見 学)
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