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本能寺の変の首謀者の娘から徳川幕府の権力者へ…徳川家光の乳母・春日局のすごすぎる成り上がり人生

プレジデントオンライン / 2023年12月10日 13時15分

春日局像 狩野探幽筆・麟祥院蔵(写真=M-sho-gun/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

3代将軍徳川家光の乳母、春日局はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「明智光秀の重臣だった父親譲りの才覚を発揮し、孤児のような立場から将軍に次ぐほどの権力者までに大出世した」という――。

■「どうする家康」の語り部、春日局の意外な出自

毎回、「われらが神の君は」ではじまるNHK大河ドラマ「どうする家康」のナレーション。語っているのは女優の寺島しのぶだが、いったいどの立場からの語りなのかと、番組がはじまった当初から一部で話題になっていた。

先ごろ、語り部は春日局なのだと発表された。徳川家康の孫で、2代将軍秀忠の嫡男竹千代、すなわち3代将軍になった家光の乳母である。いよいよ寺島が扮(ふん)して、ドラマに登場する。

たしかに、家康が土台を築いた徳川幕府の支配体制をさらに盤石にした家光の乳母、という立場だから、家康の生涯を理想的に語るには、もってこいかもしれない。それに、じつは波乱万丈の末に大出世を遂げた春日局の人生には、家康とその周辺に対する、さらに深い理解につながる逸話があふれている。

春日局とは、のちに朝廷から賜った称号で、名は福(斎藤福)といい、天正7年(1575)に生まれている。父は斎藤利三で、これがなかなか衝撃的な人物である。福が生まれたころは明智光秀の重臣で、織田信長への謀反を起こす前日の天正10年(1582)6月1日、光秀から事前に、本能寺(京都市)を襲う計画を告げられた5人のうちの一人だが、それだけにとどまらない。

■本能寺の変の首謀者の娘

明智光秀が本能寺の変を起こした動機としては、現在、四国説が有力だ。光秀は信長政権において、土佐(高知県)の長曾我部元親とのあいだの取り次ぎを担当していたが、信長は光秀の立場を無視して四国出兵を決定。これを明智家の存亡の危機ととらえた光秀が謀反に踏み切った、という説で、光秀と長宗我部との関係に斎藤利三がからんでいた。

元親の妻は利三の義理の妹で、つまり利三は元親の小舅。だから光秀は、利三の縁を土台に元親との交渉を続けてきたが、すべて信長にひっくり返されてしまった。光秀以上に立場を失ったのは、利三だったのである。

このため、本能寺の変の首謀者は、光秀よりもむしろ斎藤利三だという見方は、変が発生した当時から根強い。利三は天正10年(1582)6月13日の山崎の合戦で敗れたのち、近江(滋賀県)の堅田(大津市)に潜伏しているのを発見され、6月18日に引き回しのうえ京都の六条河原で首を斬られた。このとき複数の公家が、京都の市中を引き回される利三を見て、「彼こそは本能寺の変の首謀者だ」という趣旨の言葉を日記に書き残している(『晴豊日記』『言経卿記』など)。

その後、利光の遺体は光秀の遺体とともに、首と胴体をつないだうえで、三条粟田口であらためて磔にされている。処刑した豊臣秀吉が、利三は光秀と同罪だと認識していたからだと考えられる。

■子を連れて諸国を流浪

もう少しだけ福の父、斎藤利三についての話を続けたい。利三は稲葉一鉄に仕えていたが、光秀が能力を見込んで引き抜いたという(『柳営婦女伝系』によれば、光秀は利三の叔父にあたる)。

光秀はさらに、稲葉家に仕える那波直治も引き抜こうとしたが、困った一鉄が信長に泣きついた。それを受けて信長は、引き抜きは法に背くからと直治を稲葉家に戻し、引き抜きをあっせんしたと思われる利三に切腹を命じていた。これが本能寺の変の直前、5月27日のことだった。

太平記英勇伝五十四:齋藤内蔵助利三 落合芳幾筆
太平記英勇伝五十四:齋藤内蔵助利三 落合芳幾筆(写真=東京都立図書館/PD-Japan/Wikimedia Commons)

このように利三は稲葉家から離れて明智家に仕えていたが、じつは妻、すなわち福の母は一鉄の姪だった。このため父が処刑されたのち、福は母方の実家である稲葉家に引き取られた。謀反の首謀者の娘が頼る先は、そこしかなかったということだ。その後、一鉄の庶長子である稲葉重通の養女になって、やはり重通の養子であった稲葉正成と結婚している。

福の夫となった正成は秀吉に仕えていたが、のちに秀吉の命で小早川秀秋の家臣となり、5万石を領する家老になった。だが、これでようやく福の人生安泰かと思えば、そうはならなかった。

小早川秀秋は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦における裏切りで有名で、そこまではよかったのだが、2年後の慶長7年(1602)に急死して、小早川家は断絶してしまう。福は正成とのあいだに、正勝、正定、正利の三男と二女をもうけていたが、夫の正成は牢人になってしまったのである。

■元夫は復権し長男は大出世

それから2年後の慶長9年(1604)、数え26歳になった福は、竹千代(のちの家光)の乳母に採用され、江戸城に入ることになった。それに当たって、福は稲葉正成と離縁している(それ以前に離婚していたとする史料もある)。

江戸中期に成立した『明良洪範』には、京都の粟田口に「将軍家ノ御乳母募集 京都所司代板倉勝重」という高札が立ち、それに福が応募したという逸話が記されているが、さすがに怪しい。だれか(『春日局譜略』などによれば、秀忠の正室、江の乳母の民部卿局)に推挙されて、江戸に送り込まれたと考えるのが自然だろう。

本能寺の変の首謀者の娘とはいえ、家柄自体には問題なく、将軍家の嫡男の乳母に欠かせない教養も申し分なかったようだ。また、(元)夫の稲葉正成も、関ヶ原合戦で裏切りの決断がなかなかできない小早川秀秋を説得するなど、軍功が大きかった。竹千代の乳が不足するなかの急募ではあったが、そうしたことが選考の決め手になったものと思われる。

その後の福のめざましい活躍は、『徳川実紀』に「すぐれた豪夾(ごうきょう)の性質」と書かれた父、斎藤利三から受け継いだものがベースになったのではないだろうか。

まず、前夫の稲葉正成は、家康に召し出されて家臣に採用され、慶長12年(1607)には大名に復帰している。また、長男の稲葉正勝は永井直貞、水野光綱、岡部永綱、松平信綱らとともに竹千代の小姓となり、元和9年(1623)には老中に就任。寛永9年(1632)には相模(神奈川県)小田原で8万5000石を領するまでに出世した。

■みずから勝ちとった権力者の座

さらに、元和9年(1623)に家光が将軍になると、福本人が老中をもしのぐ権力を握ったといわれるが、それは家光が将軍になるにあたって、福が貢献したからだろう。

秀忠と正室の江は、竹千代に2年遅れて生まれた国松(のちの忠長)をかわいがり、とくに江は溺愛したとされる。病弱で吃音がある家光に対し、国松は容姿端麗で才気煥発だったというが、秀忠夫妻が竹千代を疎んじた理由は、それだけではあるまい。竹千代は表向きには江が生んだことになっているが、じつは奥女中に生ませた子である可能性がある。

そこで福は、『徳川実紀』などによれば、駿府の家康のもとに赴き、世嗣は竹千代にすべき旨を家康に訴えたとされる。福の持ち場はあくまでも江戸城であり、そこを勝手に離れて直訴したことは、厳しい処罰の対象にもなりうる。だが、それを家康が受け入れたのは、家康自身が長男を世嗣に定める必要性を感じていたこと、そして、福を評価していたことが理由だろう。

こうして福は、将軍の乳母の座を見事に勝ちとった。家光が将軍になって3年後の寛永3年(1626)、福は将軍の私生活の場である大奥の統率権を獲得している。この役は将軍の正室がになうべきものだが、秀忠の正室の江はこの年に没し、家光は正室の鷹司孝子(たかつかさ・たかこ)と別居していた。このため、絶大な権限が福のもとに転がり込んだのである。

徳川家光像・金山寺所蔵・岡山県立博物館への寄贈
徳川家光像・金山寺所蔵・岡山県立博物館への寄贈(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

■朝廷と幕府を仲立ちする立場に

だが、この時点では、福はまだ春日局ではなかった。

寛永6年(1629)、福は上洛して天皇との交渉役を務めた。その2年前から、いわゆる紫衣(しい)事件を通じて幕府と朝廷のあいだがギクシャクしていた。紫衣とは袈裟(けさ)のなかでも最高位の僧にだけ与えられるもの。これを天皇が勝手に与えたのは禁中並公家中諸法度に違反するとして、幕府が紫衣を無効にした事件だった。

幕府がこうして朝廷に対する優位な立場を示したのを受け、後水尾天皇は譲位の意向を示していた。そんなときに福は上洛して、秀忠の娘である中宮和子らに贈り物をし、参内を許されて、和子から「春日局」の称号を賜った。さらには一介の乳母が天皇に拝謁して、天盃を賜ったというのである。

福の役割は、こじれていた朝廷と幕府の関係を融和させることにあったと思われるが、謀反人の娘が幕府と朝廷との関係を仲立ちする立場になったのは、すさまじいばかりの栄達である。

それも、家康が彼女の直訴を受け入れたところからはじまったなら、家康を「われらが神の君」と呼ぶにふさわしいといえるだろう。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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