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なぜ日本からパワハラがなくならないのか…「フランス語を生きる」文学者が気づいた"日本語の限界"

プレジデントオンライン / 2024年9月26日 10時16分

上智大学名誉教授の水林章さん - 撮影=今村拓馬

なぜパワハラやカスハラはなくならないのか。『日本語に生まれること、フランス語を生きること』の著者である上智大学名誉教授の水林章さんは「パワー・ハラスメントの根本に何があるのかと考えたら、それはやはり日本語ではないか」と指摘する。どういうことか。ノンフィクションライターの山田清機さんが聞いた――。(後編/全2回)

■「日本語」が日本社会の構造的な特徴を支えている

さて、ここまでの議論に登場した、天皇を頂点とする「垂直的な階層構造」や、上位者に価値が集中する「権力の偏重」、そして被抑圧者が抑圧者に豹変する「抑圧移譲」といった現象は、われわれが常日頃漠然と感じていることと、大きく相違するものではないだろう。多くの人が、「そう言われればそうだな」という感想を持つのではないだろうか。

ところが、『日本語に生まれること、フランス語を生きること』には、まさに目からウロコが落ちるような斬新で、衝撃的な指摘があるのだ。上記のような日本社会の構造的な特徴を支えているのは、他ならぬ、日本語だというのである。

これはいったい、どういう意味だろうか。

【水林】たとえばぼくが、岸田文雄氏に面会したとして、ぼくはいったい彼のことをどう呼ぶでしょうか。

まさか「岸田」と呼び捨てにすることは問題外ですし、「岸田さん」もありえない。二人称の人称代名詞「アナタ」を使うことすらできない。結局、「総理」と肩書きで呼ぶことになるのでしょうか(※編注)。

※取材は2024年8月に行われた。

■「二人称の人称代名詞」を相手との関係で使い分ける

【水林】この時、いったい何が起きているかと言えば、「首相」に対しては、「キミ」も「オマエ」も「アナタ」もだめで、「総理は」とか「岸田首相は」という選択しかありないということは、日本語がぼくにそのように命令しているということです。話し手の自由にはならない。

水林章『日本語に生まれること、フランス語を生きること』(春秋社)
水林章『日本語に生まれること、フランス語を生きること』(春秋社)

一方、フランス語では、相手が首相だろうと大臣だろうと大富豪だろうと、二人称の人称代名詞は基本的にvous(ヴ)しかありません。英語でいえばyouに当たる、vous以外に呼びようがないのです。

では、日本人はいったいどういう基準で二人称の人称代名詞を使い分けているのかといえば、相手との上下関係、強弱関係によって使いわけているわけです。

たとえば、いまここにメロンがあるとします。フランス語だったら「これはメロンです=C’est un melon」としか言いようがありませんが、日本語の場合、「これはメロンです」「これはメロンでございます」「これはメロンだ」「これはメロンだろ」などと、複数の言い方が可能ですね。もうひとつ別の例を引きましょう。漱石の『吾輩は猫である』をフランス語に訳すとJe suis un chat(英語ならI am a cat)としか訳せません。実際、仏訳版ではそのように訳されています。ところが逆に、Je suis un chatを日本語に訳すとなると「吾輩は猫である」は可能な翻訳のひとつに過ぎないことに気づきます。「わたしは猫である」「わしは猫である」「わたしは猫です」「ぼくは猫です」「俺は猫である」「俺様は猫だぞ」などなど、いろいろ考えられるからです。

そして、どの使い方を選択するかは、ひとえに相手(=対話者・二人称)と自分の関係を話し手がどう意識しているか、つまり「相手が誰なのか」にかかっているのです。日本語が「二人称的世界」であるといえるのは、この特異な現象をとらえてのことです。森有正の話をする時がきたようですね。

■日本語の特徴を深く考察した森有正

水林さんによれば、こうした日本語の特徴について最も深く考察したのは、人生の大半をフランス語とともに過ごした森有正(哲学者・作家)だったという(『日本語に生まれること、フランス語を生きること』p.98。以下、ページ数の表記はすべて同書のもの)。

東大助教授だった森はフランスに一年の予定で留学したのだが、東大助教授のポストを擲(なげう)ってまでもフランスに残ることを決意し、結局はパリで客死することになった。その森が日本語の本源的な特徴を「二人称的世界」としてつかみ出し、日本語には現実が嵌入(かんにゅう)している(入り込んでいる)と指摘しているという。

『日本語に生まれること、フランス語を生きること』から、森の思考の核心に迫る部分を引用してみよう。

「二十五年の長きにわたってフランスで(を)生き、二十年間フランス人に日本語を教えた経験から森が得た日本語観の核心にあるものは何か。それは日本語の本源的特徴としての二人称的性格である。〈私〉(人称としての「私」――これにはワタシ、オレ、アタシなどいろいろある――ではなく、発語する以前の存在としての私)の現れ方は〈あなた〉によって規定されており、またその〈あなた〉という〈私〉も、〈私〉という〈あなた〉によって規定されているという二人称を中心とする円環的ないし閉鎖的・秘伝的構造、これである。」(p.174)

■日本語の特徴が引き起こす問題

では、日本語がこうした特徴を持っていることによって、いったい何が起こるというのだろうか。何か不都合があるだろうか?

「〈私〉が「天皇に対しては臣下である、親に対しては息子である、姉に対しては弟である、あるいは先生に対しては弟子である」とき、〈私〉はそのたびごとに別々の人称詞のもとに異なる「私」として現れるわけで、誰に対しても普遍的に同じ「私」は存在しない。
(中略)
変化しない「彼」としての「私」が集まってつくる団体が「社会」なのだと森は言うわけだが(中略)、ほんとうの「私」、福沢諭吉が問題にした「あなた」によってゴム人形のように伸び縮みする「私」ではない、「彼」としての「私」がいなければ(社会は)成立も存立もしないということになろう。遍在的天皇制のもとでは、「「あなた」と「あなた」がわあわあ集まっている」共同体はべっとりと拡がっているが、「社会」は存在しないというのが、森のここでの思索の到達点なのである。」〔p.176。( )内は筆者〕

■日本語には「上下・強弱・敬卑関係」がついて回る

【水林】日本国憲法は、間違いなくフランスの人権宣言の衣鉢を継いでいるわけですが、フランス革命の理論的な指導者のひとり、『第三身分とは何か』(岩波文庫)の著者、アベ・シエイエスがナシオン(国民)を「同輩者たちの集団」と定義したことから明らかなように、人権宣言が構想している「社会」とは、同輩者、つまり上下関係のない対等な市民による自己統治的な秩序のことです。

ところが、日本の社会関係のすべてを媒介している日本語の世界は、森有正が指摘している通り、現実の上下・強弱・敬卑関係が嵌入した(入り込んだ)二人称的世界であって、人権宣言が構想する「社会」とはまったく異質なのです。それが森の言う、日本には「社会」が存在しないという言葉の意味です。

日本語とは、相手を自分よりも上の人間、強い人間と見るか、自分よりも下の人間、弱い人間と見るか、つまり上下関係、強弱関係を抜きにして相手を対象化することができない言語なのであり、日本人は日本語を使っている以上、目の前にいる人間のことを「自分と対等な基本的人権の主体である」という見方に立つことがなかなかできないのです。森有正は、敬卑語は日本語の一部なのではなくて、その全体をおおっているのだという言い方をしていますが、炯眼(けいがん)だと思います。

結果として日本には、対等な市民を単位とする「社会」がまったく成り立っていない。あるのは、親分・子分関係によって貫かれた、ヤクザ的世界だけということになります。

「対等な市民」による「社会」が成り立っていないという。
撮影=今村拓馬
「対等な市民」による「社会」が成り立っていないという。 - 撮影=今村拓馬

■パワハラの根本にあるのは「日本語」ではないか

だからこそ、日本人には人権意識が希薄であり、人権を蹂躙するパワー・ハラスメントが後を絶たないのだ。しかも、内部告発をするのが極めて難しい。なぜなら、権力の偏重によって上位者に価値が集中しているからだ。上位者がいかにおそまつな人間性の持ち主であっても、上位者であるだけで無条件に「えらい」。えらい人に盾を突けば、分限をわきまえていないと指弾され、最悪の場合、自死に追い込まれてしまう。

水林さんは、「日本語に生まれること」の限界を、こう指摘する。

【水林】パワー・ハラスメントの根本に何があるのかと考えたら、それはやはり日本語ではないかと思うのです。いや、日本語が手を貸しているというべきかもしれない。だからといって、日本人は日本語によってしか考えることができないし、日本語によってしか感じることができません。ヴィトゲンシュタインという哲学者は「わたしの言語の境界はわたしの世界の境界である」と述べているそうですが、言語の外に出ることはできないのです。言語とは、いわば牢獄なんです。

ぼくとフランス語の付き合いは50年を超えました。ダニエル・ペナックの面識を得たことがきっかけとなって10年ほど前からフランス語で本を書くようになってから、日本語とフランス語の両方の言語で生きる経験が非常に深まったと感じています。日本からフランスに行けば別世界だと思うし、フランスから日本に戻ってくれば、やはり別世界だと思う。同じように空があって、同じように地面があって、同じように建物があるのに、まるで違う世界だなと……。

■「中世的世界」からのヒント

言語が牢獄だとすると、日本人が日本語を使い続ける以上、人権宣言が構想する「社会」、対等な個人によって構成される同輩者的な世界が日本で実現することはあり得ないことになってしまう。パワー・ハラスメントを根絶することも、内部告発者を保護することも、そもそも不可能ということになってしまう。

ひとつの可能性として水林さんが挙げるのは、意外なことに、日本の「中世的世界」を見直すことである。

【水林】大野晋という日本語学者が指摘しているのですが、日本の歴史が律令的貴族的な古代社会から、東国出身の武士の時代に移行した時に、日本語が変化しているというのです(p.295)。つまり、社会と言語は相互規定的であって、社会が変われば言語も変わるし、言語に対して自覚的な働きかけをすることによって社会が変わる可能性もあるわけです。

では、中世に東国出身の武士団が力を持ったことによって、社会にどのような変化が起こったかといえば、それを象徴するのは、鎌倉時代の武家法である『御成敗式目(貞永式目)』です。『御成敗式目』の世界は、ひとことで言って「道理」の世界、さきほどの用語を使うとすれば「超越的普遍者」のいる世界です。

言語に対して自覚的な働きかけをすることで、社会が変わる可能性もあると語る。
撮影=今村拓馬
言語に対して自覚的な働きかけをすることで、社会が変わる可能性もあると語る。 - 撮影=今村拓馬

■日本でも「道理」で物事が判断された時代があった

【水林】「道理」とは、最上位にいる人間のさらに上にある超越的な正義の観念であって、「道理」の世界では、伝統的な権威や現実的な権力からの圧力、あるいは親しい親しくないといった親疎の感情に引きずられることなく「道理」によって政道が判断され、「道理」によって紛争の解決が行われていたといいます。ふたたび丸山眞男に従えば、中世は、「道理」の存在によって、日本の歴史の中では例外的に、市民的な「私=個」が自己を力強く主張した時代、領主たちが契約によって水平的に結合する「一揆」の時代だったのです(p.61)。

歴史学者の石母田正(『中世的世界の形成』の著者)は、「道理」と「一揆」の中世は天皇制を克服した時代だったと指摘し、そして大野晋は、中世では主格を表す助詞の「ガ」と「ノ」の用法が変化して、「日本語は、はじめて尊卑観念(上下、強弱の観念)から離れた主格表現の助詞を獲得したといえる。」(p.298)と述べているのです。

かつての日本に、上下関係や強弱関係とは無縁の「道理」によって物事が判断された時代があり、その時代に日本語が大きく変化したのだとすれば、意識的に日本語に働きかけ、日本語を変化させることによって、「道理」が通る世の中を再興することができるのかもしれない。非道なパワー・ハラスメントやカスタマー・ハラスメントを、根絶できるのかもしれない。

■長い時間をかけて言語的な実践を行っていく

【水林】即効薬はありません。途方もなく長い時間をかけて日常的に言語的な実践を行っていくことによってしか、社会が本質的に変わることはないでしょう。しかもこれは、非常に難しいことでもあります。

大学の教師だったころ、ぼくより若い同僚がぼくのことを「水林先生」と呼ぶので、「先生はやめて、お互い~さんでいきましょう」と提案したことがあります。少なくともぼくの周囲では、上下・強弱関係を反映した言葉遣いは極力やめるようにしていたわけですが、ゼミ生を性別によって「○○さん」「○○君」と呼び分けることは、ぼく自身、なかなかやめることができませんでした。自然に身についてしまった言語的な習慣を改めるのは、とても難しいことなのです。

より本質的なことを言えば、教育を通して「社会は何のためにあるのか」をしっかりと定着させていくことが大切だと思います。

『社会契約論』(岩波文庫)を書いたルソーは、自由な自然人たちが対等な資格で生きている、社会・国家に先行する世界を「自然状態」と呼びました。いかなる社会も存在せず、したがっていかなる社会的地位や資格も存在しない、自然のままの世界です。社会関係をいっさい知らない平等な自然人たちは自由に振る舞うことができます。しかし、一人の自然人の自由は別の自然人の自由と衝突せざるを得ないため、自然状態は必然的に戦争状態に移行することになりますから、生き方を変えない限り、やがて人類は滅亡してしまう。ルソーはそう言うのです。そこから、「社会契約」の必然性が導き出されます。

■目的地はまだまだ遥か彼方

【水林】自然人は社会契約によって自然状態を抜け出し、各人の自然的自由をより高次な市民的自由として確保する。これがルソーの考えるところですし、1789年の人権宣言の核心にある思想です。

つまり「社会」とは元からその辺にころがっているものではなく、自然人たちが「自然的」であり、「神聖」であり、「譲渡不可能」であり、「時効にかかることのない」諸権利(自然的諸権利)を擁護するために、ただそれだけのために「社会契約」を媒介にして、みずから製作したものなのです。ここで「」に入れた表現は全部1789年のフランス人権宣言からの引用です。それでは自然権=自然的諸権利とは何かと言えば、それこそが、われわれ自身にも言葉としては馴染みのある「基本的人権」なのです。つまり社会とは、基本的人権を守るために、ただそのためだけに「自然的諸権利」の主体者自身たちによって製作された、そういう思想です。

これが「近代的」であることの核心です。「分限」にとらわれ、「わきまえる」ことを意識して生活しているわれわれの現在地から見ると、目的地はまだまだ遙か彼方という感じですね。わたしたちは、『第三身分とは何か』のアベ・シエイエスが「第三身分とは何か」と問い、これに「すべてである」という解答を与え、「分限」の思想をこっぱみじんに破壊することによって「近代」が始まったということを噛みしめる必要があります。要するに、日本は依然としてまったく「近代的」ではないのです。

■「社会とは何か」を教える教育の重要性

丸山眞男は、「基本的人権が自然権であり、いわゆる国家的権利であるということの意味は、あらゆる近代的制度が既製品として輸入され、最初から国家法の形で天降って来た日本では容易に国民の実感にならない」と、1960年にいち早く書いていますが、ぼくはこれが今でも依然としてまったく「実感」になっていないと思うものですから、この引用を今回の本の冒頭に掲げました。

基本的人権の国家性(=自然性)を「実感」たらしめることができるのは、教育だけです。日本は、フランスの人権宣言の衣鉢を継ぐ日本国憲法を持っているわけですが、「社会」(=市民社会)とは何かを教える教育を怠ってきたのではないか。「日本は天皇を中心とする神の国である」などと平然と言ってのける首相を輩出する、日本国憲法をあからさまに敵視する政党にはそれは容認しがたいことですし、構想不可能だからです。

『日本語に生まれること、フランス語を生きること』には、「来たるべき市民社会とその言語をめぐって」というサブタイトルがついている。誰もが対等である市民社会を招来するために、具体的に動き出すことはできるだろうか。

【水林】読書会を開くのも、いいかもしれませんよ。

■「本の前では人間は平等」読書会のすすめ

【水林】『日本語に生まれること、フランス語を生きること』の「あとがき」にも書きましたが、ぼくは2020年の10月に『壊れた魂』という小説(フランス語の原書)によって、フランスのセーヌ・マリティム県が創設した「セーヌ・マリティム県公務員読者賞」を受賞しました。

セーヌ・マリティム県の県庁には約1500人の公務員がいますが、職員なら誰でもこの賞の審査員になれるのだそうです。日本でいえば「東京都職員読者賞」といったところですが、フランスにはこうした地方自治体が創設した文学賞があったり、人口500人に満たない小さな村で開催される文芸サロンがあったりするのです。そんな小さな村に2日間のうちに人口をはるかに超える人数の読者が集まって、本をめぐっての言葉の交換を楽しむという具合に、フランスでは本を読んで討論する文化が社会の深層にまで浸透しているという印象を持ちます。

セーヌ・マリティム県県庁を訪問して、読者賞の事務局をやっているマルティーヌさんの話を伺ったのですが、審査委員は20名ほどいて、県立図書館の専門委員が候補作を5点ほど挙げ、そのリストをもとに審査委員が討議をして受賞作を決めているとのことでした。

印象的だったのは、審査委員のひとりであるシルヴィーさんの言葉です。彼女によれば、「審査委員には仕事上の上位者も下位者もいるけれど、書物を前にした討議では上下関係は消滅する」というのです。

つまり、本の前では職員は完全に対等だということです。フランス語はそういうことを可能にする言語なのですね。討論とは、本来、同輩の者たちのあいだで成り立つ言葉の交換形式であって、「えらい人」とそうでない人からなる集団には成立しにくいに決まっています。しかし、そこを一歩一歩突き崩してゆくということでしょうか。

書物が媒介する水平的な「人民の交際」(福澤諭吉)の中で交わされる新しい日本語が、やがて日本社会を変えていく力になるかもしれない。

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山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター
1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。

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(ノンフィクションライター 山田 清機)

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