「感動ポルノ」と批判する人は誰もいなかった…今では考えられない「24時間テレビ」第1回目のすさまじい熱狂
プレジデントオンライン / 2024年11月29日 18時15分
※本稿は、太田省一『萩本欽一 昭和をつくった男』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。
■萩本欽一が「テレビには芸は要らない」と感じたワケ
『オールスター家族対抗歌合戦』のある回でのこと。山形から来たおじいさんが出演した。地元では町内会の会長。だからマイクを持つなり、身についた習慣からか「本日は家族をお招きいただきましてありがとうございます」と挨拶を始めた。
そして続けて出てきた言葉が、「こうしてNHKに出られて、わたくし、生涯の幸せです」。テレビはNHKしかないと思っていたのである。
この番組はフジテレビ。周囲は慌てたもののおじいさんの挨拶は止まらず、NHKを連呼し続けた(『笑うふたり』122~123頁)。
このとき、その場にいた萩本欽一は、自分が同じセリフを言っても誰も笑わないだろうと思った。
「僕よりもおじいちゃんのほうがテレビのなかの笑いという意味では上」「極端な話、テレビには芸は要らない。芸はテレビで披露してはいけない」。
テレビでは「素人の瞬発力的な笑いにはかなわない」(同書、123~124頁)。そう悟ったのである。
■素人を笑いの主役にした結果
この発見は、自らバラエティ番組を企画するうえで大切なヒントになった。素人を笑いの主役にする。その第1弾『欽ちゃんのドンとやってみよう!』が高視聴率を獲得。続けて『欽ちゃんのどこまでやるの!』もヒットし、萩本欽一は国民的人気者への道を歩み始める(このあたりは後で詳しく述べる)。
そこに目をつけたのが、あの日本テレビの井原高忠である。当時井原は制作局長の要職にあり、日本初の大型チャリティ生番組の企画を進めていた。そう、いまも続く『24時間テレビ「愛は地球を救う」』である。
初回は1978年夏のことだった。井原は全国にある日本テレビの系列局と調整をすませ、次にキャスティングに取りかかった。そしていの一番に声をかけたのが萩本欽一だった。
「これをやれるのは萩本欽一しかない」と井原は考えていた。「あれぐらい日本中にいい人だと思われてる人もいない。しかも子どもからお年寄りにいたるまで、もれなく欽ちゃんのファンですからね。とにかくあの人しかいない」(井原高忠『元祖テレビ屋大奮戦!』229頁)。
■「24時間テレビ」司会が欽ちゃんになったワケ
萩本は、当初難色を示した。というのも、すでにラジオのほうで同様のチャリティ番組に出演していたからである。ニッポン放送の『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』。毎年12月24日、クリスマスイブの正午から翌日にかけて24時間生放送のチャリティ番組である。
目的は、視覚障害のある人のための音の出る信号機を設置すること。「通りゃんせ基金」と名づけられ、募金が番組内で呼びかけられる。萩本欽一は、1975年から始まったこの番組のメインパーソナリティーを務めていた。
またこの頃の萩本欽一は、競馬はする、女の子のお尻は追っかけ回すなど「悪いこともそうとうしてた時期」と本人が振り返るほど。お世辞にも品行方正とはいかず、だから自分は相応しくないと思っていた(『なんでそーなるの!』187頁)。
だが井原は「欽ちゃんしかいない」という思いで、あきらめず熱心に口説いた。結局萩本が折れて、初代の総合司会に就任した。井原の目論見は、結果的に大当たりだった。日本では前例のない全国ネットの大型チャリティ番組ということで放送前は不安も大きかったが、番組とともに起こった募金熱の高まりはものすごいものだった。
■数万人が特設ステージに押し掛けた
5円や10円といった小銭を一杯に詰めたビンや箱を手に集まる人の列が途切れることなく続き、募金を受け付ける電話は鳴りっぱなし。これほど日本中が募金で一色になるとは予想もしなかった。その中心にいたのは、間違いなく萩本欽一である。
大竹しのぶとともに総合司会となった萩本が姿を見せる場所には、どこでも群衆が詰めかけた。第1回のときには、萩本たちが都内の街中に足を運んだのである。「欽ちゃ~ん」と声がかかり、募金を手に握手しようとする人びとが萩本たちを取り囲んだ。そして大詰めのグランドフィナーレは、代々木公園につくられた特設ステージで。
ステージ上には、おなじみの黄色いTシャツを着た萩本欽一と大竹しのぶがいる。会場は2人をひと目見ようと集まった数万人の観衆でぎっしり。「絶対押さないでくださいね」「後ろのひと、押し合わないで」と呼びかけるスタッフの声も聞こえる。2人が「ありがとう!」と手を振ると、観衆も歓声を上げ、手を振って応える。
この24時間のあいだに印象に残ったことを聞かれ、この放送の翌日に目の手術をする女の子が、もし目が見えるようになったら最初に欽ちゃんの顔が見たいと言ったという話を披露。萩本が呼びかけ、会場の人びとから女の子への激励の拍手が送られる。ほかにもさまざまなエピソードが語られ、聖火ランナーとしてタモリが登場する演出もあった。
■そもそも1回限りの単発番組だった
募金はこの時点でおよそ3億8500万円。予想をはるかに超えていた(最終的には11億9000万円余り)。萩本と大竹は観客席に入り、時間の許す限り募金を受け取りながら握手をして回る。あまりの混雑ぶりに迷子も出て、萩本がそんな子どもたちを急きょステージに上げて親を探すためインタビューする場面も。会場は、熱気の渦に包まれた。
そこに現れたのが、日本テレビ社長(当時)の小林与三次。小林は2人の労をねぎらうと、「皆さんの声がある限り、何度でもやります!」と興奮気味に宣言した。
実はこの『24時間テレビ』は、この年限りの予定だった。それだけ時間も労力もかかる超大型番組である。だが小林は群衆の盛り上がりを目の当たりにして、継続することを思わず生放送で宣言してしまったのだった。
こうして『24時間テレビ』は毎年恒例となる。貢献度ナンバーワンの萩本欽一も、翌1979年、さらに1980年と総合司会を続けた。
■車椅子の少年に言ったひと言
「萩本欽一=いい人」というイメージが決定的に定着したのは、このときからだろう。
だが人並みにギャンブルもやるし、いろいろと遊んでもいた萩本にとって、そのイメージは後ろめたさを伴うものだった。なかには「なんでそんないい人になりたがるんですか?」などと聞いてくる人間もいる。それでも引き受けた以上、イメージを守るために女性のいる飲み屋に行くことをきっぱりやめた(同書、187頁)。
そのあたりは、一度決めたらいつも徹底しているのが萩本欽一というひとである。だが『24時間テレビ』の仕事をしたことで、思いがけない良い出会いもあった。
毎年、友だちを連れて車椅子で会場にやって来る少年がいた。番組には、普段会えない有名人や芸能人が大勢参加している。興奮した少年たちは、サインをもらおうと車椅子で動き回っていた。
会場にはテレビ用の機材が所狭しと置かれ、床には配線用のコードなどが張り巡らされている。車椅子だと危険なことこの上ない。テレビ局のスタッフも、普段なら「ばかやろー」などと怒鳴ってやめさせるところだが、相手が車椅子の少年なので遠慮している。そうしているうちに、翌年、翌々年と少年たちの人数も増え、ますます傍若無人になった。
これはさすがに危ないと思った萩本は、「お前らいい加減にしろ! みんなが君たちを大事にしてくれると思っていい気になるんじゃない! 事故が起きたら君たちも大変だし、テレビ・スタッフにも迷惑がかかるんだ!」と怒鳴りつけた(同書、188~189頁)。
■「僕、やっとふつうの人間になれた」
周囲の人間は、その剣幕にみな目を見張っている。テレビ局の人間も慌てていた。マスコミの人間もその場にはいる。どう書かれるかわからない。さすがに言いすぎたかもと思った萩本は謝った。ところが、案に相違して、向こうのリーダー格の少年も謝ってきた。そしてこう言った。
「僕、生まれて初めて人に怒られた。でも欽ちゃんは僕をふつうの人とおなじように扱ってくれたから、真剣に怒ってくれたんだよね。僕、なんかやっとふつうの人間になれた気がする」(同書、119頁)。
これを機に仲良くなった2人のあいだには、こんなやり取りもあった。
少年が、「欽ちゃん、よく二郎さんのことどついてたよね。僕、まだだれからもどつかれたことないから、僕のことどついてくんないかな」と頼む。萩本は、「おい、また走ってんな。邪魔なんだよ、お前は!」とツッコみながら、頭をぽーんとぶつ。すると少年も負けてはいない。「このやろ~、だれにも殴られたことのない俺を殴ったな!」(同書、189~190頁)。
■「欽ちゃん=日本社会」だった
このエピソードは、「欽ちゃん」の笑いが有していた包容力の大きさを物語っている。1970年代、「欽ちゃん」の笑いは、二郎さんのようなプロだけでなく素人も相手にするようになった。そしてそれは、決して一方的なものではなかった。素人もまた笑いに参加することを求め始めていた。
その広がりは、笑いの当事者にすることがまだはばかられるような障害のある人びとがそこに参加したい思いをかきたてられるほどのものだった。その意味で、当時「欽ちゃん」という存在は、テレビを通じ日本社会そのものと言ってもいいくらい巨大なコミュニケーションの輪の中心にいた。
『24時間テレビ』の総合司会というポジションは、本人にとっては戸惑いもあったにせよ、時代が求める必然だった。それは、萩本欽一ならではの笑いのコミュニケーションが引き寄せたものだったのだ。
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社会学者
1960年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本、お笑い、アイドルなど、メディアと社会・文化の関係をテーマに執筆活動を展開。著書に『社会は笑う』『ニッポン男性アイドル史』(以上、青弓社ライブラリー)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩選書)、『SMAPと平成ニッポン』(光文社新書)、『芸人最強社会ニッポン』(朝日新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)、『21世紀 テレ東番組 ベスト100』(星海社新書)などがある。
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(社会学者 太田 省一)
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