逆境で培われた小説世界 黒岩重吾展に思う

クオリティ埼玉 / 2014年3月14日 11時10分

 3月7日、大阪に高さ日本一となる300メートルのビル、あべのハルカスがオープンした。偶然だが、この阿倍野から西成にかけてを舞台にした小説を数多く書いた故・黒岩重吾の記念展が県立神奈川近代文学館で開かれている(3月30日まで)。横浜・港の見える丘公園にある文学館は黒岩の遺族から寄贈された原稿や書簡などの資料3900点余りを収蔵していて、生誕90年を迎える彼の波乱の人生と作品世界を紹介しようというのだ。
 埼玉から横浜まで出かけて行ったのには、ちょっとした個人的事情がある。1967年に証券会社の新入社員として阿倍野支店に配属されたが、埼玉の田舎育ちの私には大阪、特にこの地は異国のようで、戸惑いながらも好奇心をかきたてられた。証券営業ではノルマ達成のために夜遅くまで客回りしなければならない日もあった。客を持たず、行く先のない私の足は西成のほうに向いてしまう。阿倍野も猥雑感はあったが、西成、特に釜ヶ崎と飛田には強い衝撃を受けた。
 釜ヶ崎は日雇い労働者の一大溜まり場で、ドヤと呼ばれる粗末な宿泊施設が密集している。そこにも入れず路上で寝起きする人があふれていた。労働者たちの暴動も頻発していた。釜ヶ崎に隣接する飛田は昔の遊郭がそのまま残っている。1958年の売春防止法施行以後はどの店も料亭の看板を掲げているものの、営業内容は以前と同じなのは一目瞭然だ。飛田新地と呼ばれる地区は2万坪以上の広さで、碁盤の目のような通りには無数の「料亭」が軒を連ねるが、当時はその周辺にも怪しげな店が多数あって、さながら魔窟の様相を呈していた。
 翌年には証券会社を辞め、大阪には1年もいなかったが、あの強烈な印象は証券営業の辛さとともに私の脳裏に刻み込まれた。関西に行く際にはよくこの地を訪ねたが、都市再開発もあって阿倍野・西成間は大きく変貌し、記憶の中にあった街並みはかなり消滅していった。黒岩重吾の作品を初めて読んだのはその頃だ。私が知る阿倍野・西成より数年前の街が背景となっている。
 彼が1961年に直木賞を受賞した『背徳のメス』も、阿倍野にある貧民相手の病院の産婦人科医が主人公だ。欲望のままに女漁りを続けるような人物だが、患者を死なせた上司の処置ミスを揉み消す動きには妥協しない。このように黒岩作品の主人公は男女とも、一見くずれた生活をしながらも心の底で純なものを求めるというタイプが多い。本人も「人間内部に棲むゴッドとデーモンの闘いを追求してきた」と書いている。そして人間の精神の暗部を抉り出すために推理小説の手法を採用した。心の奥底が露呈されるのは事件に巻き込まれた場合が多いからだ。
 このような人間描写力は、ドラマにもなりそうな彼の数奇な人生経験に負うところが多い。自伝『生きてきた道 私の履歴書』(1997年 集英社刊)から抜粋してみよう。
 1924年に大阪で電気技師の父と熱心なクリスチャンの母の間に生まれたが、親の期待するような優等生にはならなかった。旧制中学受験を2年続けて失敗し、奈良の中学に補欠入学。中学では不良グループに入ったが、やくざとの集団喧嘩に負けたのを機に抜け出し、同志社大学に進む。その年に太平洋戦争が始まり、徴兵される。連れて行かれたのは中国東北地区、旧満州だ。軍隊生活は人生で最も嫌な屈辱の日々だったという。軍馬にまで馬鹿にされた。
 敗戦で日本に帰る途中、何度も死を覚悟したが、奇蹟的に帰還できた。すぐ復学せず、闇屋を始めた。進駐軍兵士が横流しする食料品を入手して闇市場に流す。仕入れに行く途中で自動小銃を構えた進駐軍憲兵に囲まれた。荷台は空っぽで難を免れたが、危険を感じて足を洗う。
大学に戻ると1年ちょっとで繰り上げ卒業。仕事にもつかずブラブラしているのを病床の父親が心配したので、新聞の求人広告を見て証券会社の調査部員になる。企業調査が仕事だが、亡父の退職金をもとに株式売買に熱中。大金を手にするが、会社からは単純労働への配置転換を命じられ、退職する。証券情報紙の創刊メンバーに加わり、仲間とゲテ物食いの会を作る。
 食べ物が原因なのか、脊髄灰白質髄炎という全身麻痺の奇病にかかり、入院生活に。この頃、スターリン暴落で株式投資は壊滅的な打撃を受ける。信用取引中心でやっていたから、元手どころか借金が膨らみ、借金取りが病院に押しかけた。普通なら夜逃げだが、歩くのも不自由だから、それができない。母と弟妹が住む家を売ってもらう以外に手がなかった。
 4年近い入院生活を終え、母が移った借家に住むことになったが、どうにも居心地が悪く、勇気を奮って釜ヶ崎のドヤの4人部屋で暮らすことにした。住めば都、相部屋の人とも気安くなり、宿の雰囲気にも馴染めた。釜ヶ崎への愛着はその後もずっと持ち続けたという。入院中に覚えたカード占いと新聞、雑誌への投稿で金を稼げるようになり、ドヤを出て近くのアパートに移る。
 やがてキャバレーの宣伝部員の仕事につき、夕方4時から10時まで勤務。ここでホステスたちの生態をつぶさに見た。さらに弟の友人が社長をしている水道業界紙の編集長という職も得た。
 この頃から本格的に小説を書き始めた。2つの仕事を持ち、帰宅は11時、それから書き始めて午前3時から4時まで。長い入院生活と釜ヶ崎の体験を盛り込んだ直木賞受賞作の評価は高く、原稿依頼が殺到したが、それまでに書き溜めていたものが大量にあり、当初はそれを手直しして対応した。
 黒岩が西成に独特の思いを抱いていたのは、西成に関係する作品タイトルが多いことからもわかる。『西成山王ホテル』『西成海道ホテル』『飛田ホテル』『西成十字架通り』『西成涙通りに舞う』などがある。私も昨秋、奈良に行った際に西成のドヤを建て直したと思われるホテルに泊まった。部屋にはトイレも風呂もない。共同浴場は上層階の客専用とされているから、下の方の階は日雇い労働者用のようだ。1泊100円の黒岩のドヤ暮らしとは比較にならないが、2000円余りの宿代で西成暮らしを体験した。
(山田 洋)
 
 

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