富岡の世界遺産保存を支えた大宮製糸場資産

クオリティ埼玉 / 2014年5月14日 16時3分

 群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界文化遺産に登録される見通しとなり、ゴールデンウィーク中は観光客がどっと押し寄せた。明治政府が1872(明治5)年に設立した官営製糸場で、当時の最先端製糸技術が投入され、生糸生産を日本最大の輸出産業に育て上げる礎となった。
 後に民間に払い下げられ、1939(昭和14)年から片倉工業が経営を引き継ぎ、1987年まで操業が続けられた。その後も「売らない、貸さない、壊さない」の3原則を掲げ、2005年に富岡市に移管されるまで、工場施設を高額な経費を負担して維持し続けてきた片倉工業への評価は高い。
 片倉という名は、埼玉県央部では大宮の片倉工場が馴染み深い。1873年に信州岡谷で創業の片倉組が東京・千駄ヶ谷工場を大宮町仲町(大宮駅東口の近く)に移転したのが1901年。以降、生産高を急速に拡大していき、1916年には工場を仲町から吉敷町の現在の地(さいたま新都心駅の東側の7万8000坪)に移した。当時の生糸生産は隆盛をきわめ、1922年には日本の輸出総額の41%を生糸が占めたほどだ。
 大宮はほかにも信州系資本の2つの大きな製糸場や地元資本の工場などがあり、鉄道とともに町の主要産業になった。ところが、1929年の米国株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌が日本の製糸産業を直撃した。大宮の製糸工場も軒並み行き詰まったが、片倉大宮製糸所は製品の切り換えが早かったので、以後も生産高を伸ばした。
 1945年の敗戦後間もなく、片倉工場には米兵300名が進駐し、県内の米軍本部のような役割をはたしたという。その後、片倉工業は次第に製糸部門を縮小していき、今や医薬品や不動産部門が稼ぎ頭になっている。不動産部門の柱が広大な大宮工場跡地だ。1980年代には会社の資産に着目した香港投資家グループが片倉株を買い集め、大宮の跡地利用をめぐって経営陣と対立、その間に株価は記録的な高値を付けた。このような資産があってこそ、富岡の工場も維持できたと言えよう。
 大宮の片倉が残したものに学校もある。1937年に女子従業員の教育を目的に、普通科、本科、研究科の3課程で生徒数500人余の青年学校が設立された。企業内の学校だから授業料は取らなかった。この学校が片倉学園につらなり、戦後は他校と統合し、埼玉県立大宮高等学校となった。
 もう1つ付け加えれば、片倉は大宮から有名政治家を誕生させた。片倉工業の取締役で埼玉県副知事でもあった福永健司は、1949年の衆議院議員選挙に埼玉1区より立候補、大宮で票を固めて当選。その後も当選を重ね、衆議院議長にまで昇りつめた。
 富岡製糸場の派手なニュースの陰になっているが、大宮製糸場のヒストリーも記憶にとどめたい。
(山田 洋)
 

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