エコロジーという超宗教                        外交評論家  加瀬英明

クオリティ埼玉 / 2014年10月24日 19時2分

 いまや、エコロジー(環境)が、グローバルな超宗教になりつつある。
 そう思い至ったのは、このあいだの朝、愚妻に請われてゴミを出しにいった時だった。
 近所の人々が敬虔(けいけん)な表情を浮かべて、ゴミを分別した袋に入れて、恭しく持ってきたのを見て、まるで神前に供えるようだと感じたのが、きっかけとなった。
 宗教は至高の存在である神を仰ぐことにより、人々に共通する倫理観をあたえ、善き行動規範となって社会の安定を支えてきた。その力が失われれば、人は目指すべき理想を失い、エゴイズムにのみ突き動かされる獣と化して、社会は崩壊にむかう。
 そのようなところにエコロジーが既存宗教にかわる新しい宗教―人々が共有する倫理―として、出現するようになった。それも、全世界におよぶ超宗教―スーパー・レリジョンと呼ぼう―になりつつある。
 エコロジーには、このまま環境の汚染を続けなければ、世界が滅びるという終末観もある。今の人は「罪」とか、「罪障」といっても理解しないが、「汚染」といい替えれば、胸が疼く。地球の存亡がかかっているのだから、グローバルな超宗教としての条件を備えている。
 これまで、どの宗教も、神か、仏と一体になることを目標としてきた。
 これに対してエコロジーは、自然と一体になることを、目指している。神や、仏を、自然に置き換えればよい。
 生物のなかで人間だけが神話を持ち、さまざまな宗教を創りだしてきた。なぜか人間だけが思考能力を備え、自然界とは一線を画してきた。自然と自分との間に距離をおき、自然と一体化していないのである。
 そのため、かえって「自分とは何か、宇宙とは何か」という、深い疑問と不安にさいなまれてきた。そうした人間にとり、神や、仏は、人と自然とのかかわりを、解明する手だてであった。
 神仏は長いあいだ、人を守るものと信じられてきた。ところが、19世紀に入ると、科学が眩しく煌く光を放って、宗教がかつて果たした領域を侵すようになった。科学が宗教に代わって、人と自然の間の関係を説明し、人を守るものとして信じられるようになった。
 もはや既存の宗教は、多くの人々にとって、人を守るものと見なされなくなった。ヨーロッパ文明の基盤となってきたキリスト教でさえも、いまや協会に通う者の数が大きく減るようになった。神父や牧師をめざす優秀な若者も減り、教会は信仰の場であるよりも、冠婚葬祭の世俗的な儀式を提供する場となっている。
 一方、科学は技術を飛躍的に発展させることによって、人々を貧困から解放して、未曾有の豊かさをもたらした。ところが、科学技術との取引は、同時に人の心を深く傷つけることになった。
 一人ひとりが経済的に豊かになって自立の度合が高まるにつれ、人と人との繋がりが弱まり、共同体が破壊されていった。その結果、人は孤独感に病むようになった。
 そのかたわら、科学技術の力が巨大化し、自然環境を破壊していることが、問題とされるようになった。
 宮沢賢治は、すでに昭和のはじめに、「宗教は疲れて科学によって置換され、然も科学は冷たく暗い」(『農民芸術論』)と嘆いた。今日では科学技術は冷たいだけではなく、地球環境そのものを、回復不能なところまで傷つけてしまう危険なものとして、深い猜疑の目を向けられている。
(8章 神道は新しい世界宗教であるエコロジー教だ)
 

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