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ジミー・ペイジが大いに語る、レッド・ツェッペリンの歩みとギタリスト人生

Rolling Stone Japan / 2020年11月23日 10時0分

ジミー・ペイジ。1973年、英イースト・サセックスにあるホームスタジオにて撮影。(© Jimmy Page Archive 2019)

ジミー・ペイジが新刊『アンソロジー』の出版を前に、レッド・ツェッペリンの数々の名作やジョン・ボーナムの素晴らしさ、ヒップホップに魅了された理由などを語った。

【写真ギャラリー】レッド・ツェッペリン、ロックの歴史を変えた4人の素顔

ジミー・ペイジはインタビューを受ける前に、「君はギターを弾くかい?」と質問してきた。筆者はペイジの期待通り「イエス」と答える。「それなら話は早い」と彼は言った。

ペイジがロンドン郊外の自宅から電話をくれたのは、2020年10月初めのことだった。彼はガールフレンドと3月から隔離生活に入っている。「庭園が付いているから、自宅に軟禁されているような感じはしない」とペイジは言う。「ただし二人とも、直接会う人間には十分過ぎるほど気を付けている。だからこの6、7カ月で会ったのは、ほんのひと握りの人たちだけだ。」

76歳になったペイジはコロナ禍の長く幅広い休止の期間を、書籍とレコードのコレクションを整理しながら過ごしている。また、朝食後すぐにギターを持つという新たなルーチンも始めた。「ロックダウンに入った途端に、”あれをしたかった、これをやっておけばよかった”などと後で悔やむのは嫌だと思った。常に”全てやり切った”と思っていたいのさ」と言う。ペイジはここ数年、新たなソロアルバムの制作に取り掛かっているようなことをほのめかしてきた。しかし今回のインタビューでは、ただ新曲を書いているとだけしか言わなかった。ペイジはいつも、相手に推察させるような言い方を好む。



ペイジは10年前、著作『ジミー・ペイジ・アンソロジー』で大まかに自分の人生を振り返った。写真も含んだデラックスな自叙伝だ。そして今、ペイジは新著『ジミー・ペイジ・アンソロジー』の仕上げに取り組んでいる。同書はザ・フー、ザ・キンクス、ザ・ローリング・ストーンズらとのセッションワークからヤードバーズ時代、そしてもちろん、世界を変えたレッド・ツェッペリンまでを網羅している。インスパイアされた音楽、使用したギターや衣装、レコーディングセッションの思い出が詰まっている。さらに、「天国への階段」で使用した全ての楽器や、ツアーのセットリストのクローズアップ写真も楽しめる。レッド・ツェッペリンの4枚目のアルバムに見られる、謎めいたZOSOシンボルも随所に登場する。ファンが最も興奮するのは、当時の彼の思考過程について詳細に記述している部分だろう。楽屋でのドラッグや魔術についての暴露本などではなく、神秘に包まれたロックの偉人の一人の心の中を覗ける貴重な機会なのだ。

※編注:日本では今年4月より同書のコレクターズエディションの予約販売が開始。その後、10月よりスタンダード版が流通開始。

今のペイジは、本に掲載された多くの写真を見ながら、自分の音楽人生の意外な展開を振り返って誇らしげに微笑んでいる。彼はポピュラー音楽の流れを幾度となく変えてきたし、それは自分自身も認めている。率直な物言いをするペイジは、革新的なアイディアがどのように生まれたかを長く思慮深い答えで返すことも多い。「この本には長い歴史が詰まっていて、読み応えがある」と彼は言う。「音楽、ギター、バンド、その他諸々に興味を持ってくれた読者の期待に応えられるといいけれど。でも君や僕と違ってギターを弾かない人でも、チンプンカンプンにはならないだろう。ここになぜ6弦や12弦のギターが出てくるのか、或いはインドの楽器が登場するのか、誰でも理解できるようになっていると思う。教本のようなものになってくれたらいいと思っている」

ツェッペリン初ライブの記憶

ーこの本を仕上げるにあたって、自身のアーカイブを詳しく見直したと思います。中でも最も興味深かった再発見は何でしょう?

ペイジ:僕がペンとインクで描いたイラストがある。僕が学生だった頃に見たスキッフルのグループだ。ギターを弾くきっかけになったのはスキッフルだった。キャンプファイヤーのように歌いながら演奏する。それでも僕がギターに入るきっかけになった。あるスキッフル・グループは、茶箱にほうきを取り付けてベース代わりにしていた。茶箱のベースにギターが加わり、その場の雰囲気を巻き込んでいく感じさ。スキッフルはどちらかといえば民族音楽のようなものだ。君は本物のスキッフルを体験したことはないだろう。僕はそのスキッフル・グループを、ロックンロールの感覚で見て聴いていた。当時の僕はロックンロールすら写真で見る程度で、よく理解していなかったけどね。そういう意味でこのイラストはとても興味深い。

ーその他に何かありますか?

ペイジ:セッションの記録かな。『レッド・ツェッペリン I』の制作に取り掛かった頃の、初期のスタジオ・セッションを振り返るのは楽しい。夜10時とか夜11時とか記録されている。スタジオは営業時間外だ。当時のレッド・ツェッペリンはそれから1年後の僕たちとは違って無名だったから、誰も使っていないそんな時間帯にしかスタジオに入れなかったのさ。でも実に効率よくやっていた様子が伺えて興味深い。スタジオでの作業は(1968年)9月だった。30時間でレコーディングとミキシングを終えて、10月までにアルバムを完成させた。北米でリリースされたのは翌年1月の第1週で、僕たちはLAとサンフランシスコで演奏した。

アルバムがリリースされると、まずアンダーグラウンドのラジオ局でかかった。すると山火事のようにあっという間に北米中に広まった。西海岸から東部までツアーしたが、どの地下クラブも満員になった。人々は既にアルバムを聴いて僕らの曲を知っていた。サンフランシスコでの評判が広まると、実際にどんな奴らだか見てやろうという興味が湧いたのさ。そして1969年の終わりに次のアルバム『レッド・ツェッペリン II』がリリースされると、デビューアルバムにも興味が集まって殺到した。2ndアルバムの大半は正にツアー中にレコーディングしたから、ロードのエネルギーが詰まっている。バンドの立ち上げとしては幸先が良かった。

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新刊『アンソロジー』に掲載されたレッド・ツェッペリン初ライブの写真(見開き右側)。バンド名義はニュー・ヤードバーズ。1968年9月7日、デンマークで行われた。(© Jimmy Page Archive 2019)

ーニュー・ヤードバーズ名義でコペンハーゲン近郊の街で行った、レッド・ツェッペリンの初ライブからの素晴らしい写真も何枚か掲載されています。今見返してみてどう感じますか?

ペイジ:どのライブかは具体的によく覚えていないが、確か大学か高校で演奏した時、宿泊できる部屋に案内された。僕は暗闇も怖くなかったから食器棚の中で寝たんだ。初期のライブといえば、そのことだけはっきりと覚えている。

北欧の観客の前で演奏する機会があった時、何だか圧倒されるパワーのようなものを感じた。エネルギーを受けてこちらが押し返すようなダイナミクスだ。さまざまな特性とさまざまな光とダイナミクスと視点があって、集中して聴くこともできないような何かがあった。その時僕らは、まだレコーディングしていない新曲を演奏した。観衆の前で演奏することで、彼らの生のリアクションを吸収できたんだ。リアクションは自然と起きるものだから、僕らにさらなる自信を与えてくれた。それからすぐに、僕らは(ロンドンの)オリンピック・スタジオへ直行したのさ。

バンドのコンセプトが完成するまで

ーザ・ヤードバーズ後、レッド・ツェッペリン結成のヴィジョンはどのように生まれたのですか? ジョーン・バエズの「ゴナ・リーヴ・ユー」などのカバー曲がヘヴィなブルーズに合うなどのアイディアはどこから来たのでしょうか?

ペイジ:この本からも明らかなように、僕はあらゆるものを取り入れてきた。11、12歳の頃にジェフ・ベックと出会った。それからとんでもなく長い時間が経っている。彼にはよく、僕のレコードコレクションは誰よりも本当にジャンルが幅広い、と言われた。確かに、インド音楽、アラビア音楽、クラシック、アバンギャルド、エレクトリックなど多種多様だった。

そして僕はアコースティックギターを始めた。いまだにアコースティックギターを弾くのも曲を聴くのも好きだ。フォークでもクラシックでもブルーズでもね。ジャズは素晴らしい。自分で演奏することはないが、50年代のシカゴのリフを中心とした音楽に大きな影響を受けている。そしてブルーズの前にはロカビリーを聴いて夢中になった。僕は何か新しいスタイルで弾きたいと思った。ヤードバーズとレコーディングすることになった時、エレクトリックだけでなくアコースティックギターも演奏した。そうして「ドリンキング・マディ・ウォーター」のようなブルーズ曲から、「グリンプシズ」や「ホワイト・サマー」などのアバンギャルドまで幅広いジャンルの曲ができたのさ。

ヤードバーズと地下クラブを演奏して回り、バンドが終末を迎えた頃には、自分のやりたい方向性が見えていた。その時点で既に多くの曲のアイディア持っていたのさ。面白いことに、楽曲「タンジェリン」は既にできあがっていたが、(レッド・ツェッペリンの)3rdアルバムまで温存しておいた。もしデビューアルバムで成功したら、次はどうしようかと考えていたのさ。前作とは違うものを出すべきだ、と思っていた。



ーそのようなコンセプトをどのように実現したのでしょうか?

ペイジ:レッド・ツェッペリンを結成した頃、既に素晴らしいリズムセクションがいた。僕はロバート(・プラント)を家に呼んで、僕がやりたいと思っていることなどを話し合ったんだ。そして何曲か弾いて聴かせた。その中に「ゴナ・リーヴ・ユー」もあった。既にギターでどう表現しようか考えてあったからね。僕は「これらの曲は少し難しいかもしれないが、ジョーン・バエズのあの悲壮感が漂うメロディーラインを君が歌うことができたら、どんなにフィットするだろう」って伝えたのさ。試しに歌ってみた彼は、「おお、すごい」という感じだった。二人の心が通じ合う素晴らしい瞬間だった。

だからリハーサルに入る頃には、本当にいい感じだった。4人それぞれがフル回転して、一人ひとりの人生を一変させるような体験をしていたんだからね。演奏を終えた僕らは、お互い顔を見合わせて笑顔になった。これまで他のミュージシャンとやってきた中で、こんな化学反応を感じたことはなかったからね。そして、その化学反応がそのままバンドとしての活動にも継続した。

過去の楽曲は全て覚えている

ーレッド・ツェッペリンの各アルバムのコンセプトは、どのように決めたのでしょうか?

ペイジ:デビューアルバムを完成させると、北米ツアーに出た。そして1969年4月に、2ndアルバム用に「胸いっぱいの愛を」をレコーディングし始めた。でもその時、「強き二人の愛」も既に書き上がっていた。そこで僕は、リフを中心とした楽曲の次に、少し軽めだけれどもドラムのヘヴィなダイナミクスにパワーコーラスを乗せた「強き二人の愛」を持ってきたのさ。すると「胸いっぱいの愛を」とコインの表裏のようになった。そうやって方向性ができあがっていった。

それが3rdアルバムにどう影響したかというと、まずロバートとジョン・ボーナムには、「移民の歌」と「フレンズ」の2曲を聴かせた。すると「移民の歌」のハードなリフが耳に残り、「フレンズ」ではジョンがコンガを演奏している。そうしてアコースティック寄りのサウンドが確立した。この時も僕らはツアー中に、次のアルバムに入れようとしているアイディアを試していた。それが僕らのやり方さ。

ーここ数年で、レッド・ツェッペリンのボックスセットをリリースしています。新たな視点から過去の作品を振り返ることはありますか?

ペイジ:いや、ないね。そもそもどれだけ良かったかと思うくらいだ。

ー何の驚きもありませんでしたか?

ペイジ:信じられないかもしれないが、そうだ。記録用に録音していた1/4インチテープには、誰かがオーバーダブした別テイクなど、楽曲のさまざまなバージョンが入っていた。それぞれのテープには、タイトルと録音日付のみが書かれている。でも僕はそこに何が入っているか全て覚えている。奇妙な話だが、DNAに刻み込まれているような感じだ。

唯一、『プレゼンス』に収録したジョン・ポール・ジョーンズのピアノをフィーチャーしたインストゥルメンタル曲(「10リブズ&オール/キャロット・ポッド・ポッド」)だけは違った。レコーディングしたのは覚えているが、こんなにもオーバーダブを繰り返したとは思っていなかった。ミックスを1度しただけだと思っていたからね。1975年のことだった。しかし一方で、自分の記憶の正確さを実感したのさ。



ーボックスセットのプロジェクト以降、新たな発見はありましたか?

ペイジ:最近、ごく初期の(パーソナルデモ)テープを発見した。長い間どこかに行ってしまっていたテープさ。そこには「レイン・ソング」のフルオーケストレーションが入っていた。最初から最後まで今聴いているのと同じ感じで、中盤でややヘヴィになり、そしてまた静かな心地よいパートが続く。メロトロンをはじめ全てが使われている。ジョン・ポール・ジョーンズのようには演奏できていない。この曲の彼の演奏は本当に素晴らしかったからね。フレーズなどは部分的に異なる。だから聴き慣れたものとは違った曲が楽しめる。

ジミー・ペイジが持ち込んだ「ある機材」

ー本には、シタールを弾くあなたの姿を撮影した1962年の写真があります。当時ザ・ビートルズが「ラヴ・ミー・ドゥ」を出したかどうかという時期です。そのように早期に、あなたをインド音楽やアバンギャルドへ向かわせたきっかけは何でしょうか?

ペイジ:英国にはBBCワールドラジオとラジオ4があって、時たま世界のどこかの音楽がかかる。そこで初めて(作曲家)クシシュトフ・ペンデレツキの「広島の犠牲者に捧げる哀歌」を聴いた。シリアスでアバンギャルドな楽曲だ。その曲を聴いて自分の耳を疑った。インド音楽のシタールを聴いた時も、同じような感覚だった。とても美しいと思った。インドのミュージシャンがシタールの弦をベンドしているのはすぐにわかった。ブルーズやロカビリーのミュージシャンもギターの弦をベンドしているからね。とても洗練されながらも情熱的で、さまざまな音色を出していた。インド音楽には、確立されたサイエンスが感じられた。数学的でもある。「ギターでも似たようなことはできるだろうが、自分でシタールを弾いてみるべきだ」と考えて、やってみたのさ。

ロンドンのコンサートホールでラヴィ・シャンカールと会う機会があった。共通の女性の友人がいたんだ。彼女が彼を紹介してくれた。彼と会った部屋の中で、僕らが一番若かったことを覚えている。彼はとても思いやりのある人だった。彼は僕に、シタールのチューニングのやり方を教えてくれた。僕は知らなかったからね。帰ってから僕は教わった通りにチューニングを合わせてみた。すると僕のシタールが突然歌うように鳴り出したんだ。とても不思議な体験だった。



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デッカ・スタジオでドラマーのボビー・グレアムと楽譜をチェックするペイジ。60年代半ばにペイジは数多くのセッションをこなしていた。(© Jimmy Page Archive 2019)

ーインド音楽への系統、テレミンの演奏、バイオリンの弓を使ったギター演奏など、あなたがロックにアバンギャルドなテクニックをどれほど持ち込んだか知らない人も多いと思います。

ペイジ:そうだろうね。セッションミュージシャンとして僕が持ち込んだもののひとつがディストーションボックス、つまりオーバードライブボックスだ。当時はファズボックスと呼んでいた。あるセッションで会った(電気エンジニアの)ロジャー・メイヤーが、「エレクトリック音楽のギターで、あったらいいなと思う物はあるかい?」と聞いてきたんだ。「もちろんあるさ。これが欲しいんだ」と答えて、僕はギターの歪んだサウンドを聴かせた。当時持っていたテープレコーダーのマイク入力端子にギターを直接つなぐと、とても歪んだ音が出た。弦を弾くと、究極のサスティーンが得られたのさ。

しばらくして彼は、このボックスを持って戻ってきた。当時スタジオワークをしていた僕は、アンプの後ろに彼の作ったボックスをいつもセットしていた。とても小さなボックスだった。セッションプロデューサーはよく「この曲に何か付け加えてくれないか?」とリクエストしてくる。そこで僕はまずリフを弾いてみて、次に「これはどうかな」と言ってファズボックスをオンにする。すると僕よりも7歳は年上の周りのギタリストたちは、顔を真っ青にするのさ。「このガキはこれまでのギターの役割というものを大きく変えた上に、何か新しいものを持ち込んできた」とね。とにかく噂はすぐに広まって、僕は多くのセッションに呼ばれるようになった。「お前のファズボックスを持ってきてくれ」って感じさ。

ーザ・フーやザ・キンクスのセッションにもファズボックスを使ったのでしょうか?

ペイジ:ああ、使った。キンクスの1stアルバムでファズボックスのサウンドが聴ける。確か、フーの「アイ・キャント・エクスプレイン」のB面曲「ボールド・ヘッデッド・ウーマン」の中のいくつかのフレーズでも使った。



ジェフ・ベックと音楽を研究した日々

ーヤードバーズに加入したのは、あなたとジェフ・ベックがギターでビッグバンドのホーンサウンドを再現できると考えたからだ、とかつておっしゃっていました。

ペイジ:そうだ。短期間だったが、一緒にやった。とても楽しかった。彼がバイオリンの弓で演奏するのを真似たのもその頃だ。「なんて凄いんだ」と思ったよ。でもその後は僕のトレードマークになったけれどね(笑)。

ーかつてジェフ・ベックにインタビューした時、2人でやる日曜の夜のジャムセッションがとても役に立ったと言っていました。エルヴィス・プレスリーやジーン・ヴィンセントのレコードで、誰がどうやって演奏しているかを研究していたそうですね。あなたにとってもアイディアの源になったでしょうか?

ペイジ:ジェフに出会った本当に最初の頃、僕は彼に「(リトル・ウォルターの)『マイ・ベイブ』はどう弾いている?」とか言って、彼の弾き方をチェックしていたんだ。そして僕は「そうか、僕はこう弾いている」という感じだった。彼とはすぐに打ち解けた。彼は自作のギターをとても自慢にしていたと思う。子どもだった僕らはロックンロールをよく聴き、ロックンロールのギターにのめり込んでいった。ティーンエイジャーの頃はそれが全てで、ロックに夢中だった。

ジーン・ヴィンセントの新しいレコードがリリースされても、ギタープレイをコピーするのは至難の業だった。しかしアコースティックでなくソリッドボディのギターを手に入れてからは、どうにか弾けるようになった。それでも上手く弾くためには努力が必要だった。特に(1956年の)『ジョニー・バーネット・アンド・ザ・ロックンロール・トリオ』は衝撃的だった。このアルバムの音楽的な調和は本当に驚異的で、ギタープレイはそれまで聴いたこともないほど難解だった。




ー2人がサウンドを追求し、誰がどう弾いているかを研究していたとは興味深い話です。後に楽曲制作をプロデュースする際の役に立ったでしょうか?

ペイジ:部屋の雰囲気を感じ取って、「こうこうこんな風だ」と表現することはできるだろう。同じくリトル・リチャードの曲を聴いて、何をどう弾いているかを理解することができる。スタジオミュージシャンになった時は、レコーディングのイロハを学ぶ良い機会だった。プロデューサーが何をして、アレンジャーがどう動くかを勉強できた。「自分なりのやり方を身に付けろ」とよく言われていたから、僕にとっては好都合だった。こちらの思い通りだ。その後エンジニアたちと関わるようになって、「聴いて欲しいレコードがある。どうやってこの音を作っていると思う? 僕にアイディアがあるんだけど」などと話せるようになった。学習曲線を描いていったのさ。そうやって訓練されていたから、僕は関係する皆にとって効率の良いやり方というものを心得ていた。

ジョン・ボーナムとドラム革命

ーレコーディングする部屋の雰囲気に集中する訓練を積んでいたことが、ジョン・ボーナムのドラムをプロデュースする上で役に立ったでしょうか?

ペイジ:ドラムは難しい。僕はスタジオミュージシャンとして、世界屈指のドラマーと仕事をしてきた。彼らは最高のドラマーだった。そして本当に素晴らしい音を出すドラマーを、孤立したブースに閉じ込めるのを見てきた。アクリルガラスでも使わない限り、彼らの姿を見ることができない。また、全楽器の音を抑えようとしているため、ドラムの音も聴こえない。録音した音を聴き返すと、全力で演奏したドラマーはがっかりする。箱の中に閉じ込められたような音がするからだ。ドラムのハーモニクスは、防音壁やボリュームを絞ることで損なわれてしまっていた。アコースティック楽器の魅力を奪っていたんだ。

僕はすぐにそのことに気づいた。だからジョン・ボーナムのドラムを聴いた時、直感的にどうすべきかを理解した。彼の上方にマイクを設置することで、彼のドラムから出る全てのハーモニクスを捉えることができた。彼も、自分のドラムをどうチューニングすればよいかを心得ていた。実際に彼は、曲のキーに合わせてチューニングを変えている。そうやって距離を保ち、マイクで音の奥行きを作ったのさ。



ー「レヴィー・ブレイク」などの曲では、彼がドラムを叩いている部屋の音響がよく聴き分けられます。

ペイジ:ヘッドリィ(グランジ。バンドが4枚目のアルバムをレコーディングした石造りの家)で僕らはまず、リビングルームでレコーディングを始めた。すると2台目のドラムキットが出てきた。僕らは気付かなかったが、広いホールに設置されていたんだ。ジョン・ボーナムが叩いてみると、3階まである吹き抜けのホールに反響した。木製の階段やタイル張りの床など、素晴らしい反響音が得られる環境だった。全てのドラムが広々とした空間で鳴っている感じだった。僕はそのドラムの音を聴いて、どうすべきか頭に浮かんだ。「レヴィー・ブレイク」は元々、スタジオでは「If It Keeps on Raining」というタイトルでレコーディングしていたが、ヘッドリィでのサウンドとは全く違っていた。でも僕は、そこで何をどうすべきかがわかっていたし、反響するドラムサウンドをどう利用すべきかも理解していた。そうやって録音したものをオーバーダビングしてすぐに仕上げたんだ。

ベース、ガイドヴォイス、ギターで1度通した後、バッキングギターをかぶせた。そして次はロバート・プラントのハーモニカパートだった。バックのハーモニカパートを自然なエコーのように聴かせたかった。全ては素早く進行した。ドラムがセットアップされてジョンが叩いてみたのを聴いた途端に、全てが浮かんだのさ。

ーはっきりと喚起されたのですね。

ペイジ:その通り。聴いたものをヴィジュアライズできたんだ。常にそうとは限らない。仮にそうなら、僕は特別優れた人間になっているだろう。だがこれが現実だ。

コロナ禍のロックダウン中ずっとそうしていたように、僕がギターを弾く時は、まず自分がよく知っている曲やフレーズを弾く。そして自分が意識する前に、即興で弾いている。即興もずっと弾いていると、これまでとは違った何らかの形になってくる。つまりそうやって、新しい曲が書き上がるのさ。自己流で学ぶミュージシャンの仲間入りだ。このような習慣には、良い面もあれば悪い面もあると思う。皆それぞれのやり方がある。一方で音楽教育を受けたミュージシャンは、スケールを一日中練習しなさいと言うだろう。



ージョン・ボーナムについて、彼がとても素晴らしくかけがえのないドラマーだということを、ドラムを知らない人にどのように説明したらよいでしょうか?

ペイジ:1stアルバムの最初の曲は「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」だが、これは意図せずそうなった訳ではない。なぜ1曲目かというと、とても短い曲だが、多くのアイディアが詰め込まれているからだ。最初にドカンと爆発させる感じだ。しかしリフ以外に重要なファクターのひとつは、ドラミングだ。この曲のドラムで彼は、人々のドラムに対する見方を一夜のうちに変えてしまったからね。そういうことさ。

もうひとつの特徴は、バスドラムのロールだ。彼はひとつのバスドラムをひとつのペダルで操っている。ツーバスではない。片足だけで叩いているんだ。「俺でもできるさ」と言うかもしれないが、実際にやってみると、すぐに無理だとわかるだろう。ほんの少しだけなら真似できるかもしれないが、彼はそれを何年間も続けてやってきたんだ。彼のテクニックは並外れていた。さらに彼はイマジネーションも持ち合わせていた。

それにジョン・ボーナムのドラムは音圧が凄かった。フォアハンドのスマッシュが強いだけでなく、どうチューニングすればどんな音が出るかをよく知っていた。全てのプレイに対するバランス感覚が優れていたんだと思う。彼のバスドラムは腹に響いてくる。彼のテクニックはとにかく素晴らしかった。彼はドラムをプレイすることを楽しんでいた。そしてもちろん、レッド・ツェッペリンを愛していた。バンドを愛し、家でもよくプレイしていた。だから僕らはステージの上でも即興を楽しんだよ。

ヘヴィな音楽を作るモチベーション

ー『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』をリリースした後、あなたとボーナムはもっとヘヴィなレッド・ツェッペリンのアルバムを作りたかった、という記事を読んだことがあります。そのアルバムに関してはどのようなビジョンがあったのでしょうか?

ペイジ:1980年に既に取り掛かっていた。僕らはヨーロッパ・ツアーを行った。『プレゼンス』はギター・アルバムだった。その後ジョン・ポール・ジョーンズが、「ドリーム・マシーン」と呼ばれるヤマハ(シンセサイザー)を手に入れた。スティーヴィー・ワンダーも同じものを所有していた。彼はそのキーボードから多くのインスピレーションを受けた。彼はそれまで作曲などしたこともなかったが、突然たくさんの曲を書き出した。そこで僕は、ジョン・ポール・ジョーンズのキーボードをフィーチャーするのも悪くないと考えたのさ。彼はロバートと何曲か書いた。「素晴らしいじゃないか」と言える曲だった。その時点では明らかに、『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』がどのようなアルバムになるか、頭の中で描けていた。しかし次のアルバムは、キーボード・アルバムから脱却しようとしていた。

『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』のセッションを終えてジョン・ボーナムと僕は、次はもっとリフを中心としたハードでトリッキーな作品にしたいな、と話し合っていた。もちろん、彼がどのようなドラムを叩きたいかもわかっていた。彼は、人が聴いて「いったい何だ、これは?」と驚くようなハードなドラムを好んだ。僕のギターパートも同様だ。次回作のアイディアを練っていたが、それは基本的にキーボード中心のアルバムではなかった。キーボードはフィーチャーしても、メインではない。これまでとは違ったアルバムになるはずだった。ところがジョンを失って、実現しなかった。

ーヘヴィな音楽を作ろうと思ったモチベーションは何でしょうか?

ペイジ:強烈さや情熱のことかい?

ーはい、そうです。

ペイジ:何らかの形でとても印象に残った音楽や、ある時期に関わって変化が生まれたものや、聴いた時に自分に影響を与えた音楽などから来ているのだと思う。クラシック音楽のようなフルスケールの曲や、多くのレイヤーやテクスチャーを重ねた曲などもそうだ。例えばマディ・ウォーターズの「ロング・ディスタンス・コール」では、マディ・ウォーターズのスライドギターとディック・クローフォードのベースに、リトル・ウォルターがアンプを通してエレクトリックハーモニカを吹いている。背中がゾクゾクするような音楽だ。それぞれが効果的な役割を果たしている。



ギターから振り返る「天国への階段」

ー本には、「天国への階段」で使用した全てのギターの写真が掲載されています。「この楽器を全部使って曲を書いてやろう」という考えだったのでしょうか?

ペイジ:大半はハーモニー(アコースティック)ギターで書き、ヴォーカルのパートを考えた。そして僕が「ファンファーレ」と呼ぶギターソロの前の12弦を活かしたパートができあがった。そしてソロパートのコード。ソロのコードはエンディングでも使っている。

全てをアコースティックギターで作り、バンドのメンバーとリハーサルし、レコーディングした。全体ができあがったところで、僕は12弦ギターをかぶせた。ヴォックスの12弦を最初に使ったと思う。左右のスピーカーそれぞれに、別の12弦ギターを割り当てようと考えた。だからヴォックス12弦とフェンダー12弦のサウンドの違いが出ている。もちろん、ギターソロの前のいわゆるファンファーレのパートでは、全てを一緒に弾いている。

最後にギターソロを作った。基本的にこれが全てだ。メインはアコースティックで、全体を通じて流れる2台の12弦ギターとギターソロ、という構成だ。

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「天国への階段」で使用されたギター。中央から時計回りに、60年代半ばのハーモニー・ソブリン、1966年製ヴォックス・ファントム12弦、1968年製ギブソンEDS-1275ダブルネック(ライブ用)、1966年製フェンダー・エレクトリック12弦。(© Jimmy Page Archive 2019)



ーライブではどのように再現しようと考えましたか?

ペイジ:間違いなく「天国への階段」は、これまでの自分たちの楽曲にも他のアーティストの作品にもない壮大な曲で、ライブに欠かせない作品だった。そこで「ライブではどうやってアプローチしようか? 6弦のアコースティックか12弦か? 12弦と6弦のダブルネックもある」などと考えた。最終的にダブルネックのギブソンを選んだ。そのギターは今も弾いている。

つまり、楽曲の方がギターを選んだのさ。僕はそれ以外に何もできなかった。ダブルネックを見ると「あ、ジミー・ペイジだ。よく知っている。でも違うかな?」と思うだろう。しかし赤いギターだったら、それは恐らくジミー・ペイジだ。

ZOSOのシンボルマークが持つ意味

ー4枚目のアルバムに描かれているZOSOのシンボルマークが、さまざまな形で本の各所に見られます。現在のあなたにとってどのような意味を持つのでしょうか?

ペイジ:基本的に僕が感じるのは、4枚目のアルバムだということ。(暫く沈黙)ごめん、君はローリングストーン誌だったね。『レッド・ツェッペリンII』があって、次にアコースティックギターを多くフィーチャーした『レッド・ツェッペリンIII』をリリースした意味も理解できないようなマスコミに酷評されたからね。実際にはデビューアルバムにも2ndにも3rdにも、アコースティックギターを使っている。しかし否定的な見方しかしないマスコミは、現在の方向性を急激に変えて進化しようとしているバンドの姿勢を理解できないんだ。それだけでなく、ステージ上でも僕らのように即興演奏したりすれば彼らは理解できず、認めようともしない。4枚目のアルバムは、とにかく何の情報も付けずにリリースしてほしいと思った。そうすれば、ああだこうだ言われることもなく、詐欺だとか誇大広告だとか批判されずに済むからね。いいさ。僕らのような音楽の技量を備えた詐欺師とやらが他にいるだろうか。いるはずがない。

数例を挙げると、「ブラック・ドッグ」「レヴィー・ブレイクス」「限りなき戦い」「天国への階段」を何の予備知識も与えずに聴かせたら、マスコミはどう評価するか見てみたい。何の情報も付けずにアルバムをリリースするんだ。ただし昔ながらの職人が独自のトレードマーク的な絵柄のスタンプを持っていると知っていれば、その人間を識別できるだろう。ただのシンボルマークから、誰もが独自のシンボルマークを持つという最高のアイディアへと発展する。誰もができることだ。

だから僕は自分のシンボルを使っている。それだけのことだ。初めに(レコードレーベルに)使った。すると人々は「このアルバムは、仮にこのシンボルを音に置き換えた名前で呼べばいいのか」と考えるだろう。だから意図的ではなかったが、どう思われようが、あるいは思われまいが構わない。今となっては、良いチョイスだったと思う。すぐに僕だと認識でき、長い間残り続ける。元々そのシンボルができたのが16世紀だろうがいつだろうが、それから1971年を過ぎてさらに続く。(暫く間を置いて)こんな曖昧な答えでよかったかな。

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『アンソロジー』に掲載されたジミー・ペイジの「ドラゴンスーツ」の写真。(© Jimmy Page Archive 2019)

ーはい、結構です。本には衣装の素晴らしい写真もあります。ドラゴンスーツがきれいな状態で保管されていることに感銘を受けました。

ペイジ:このスーツはロンドンのビクトリア&アルバート博物館へ貸し出したんだが、返却された時には衝撃を受けた。まるで仕立てたばかりのような状態で戻ってきたんだ。肩の部分にギターストラップで付いた跡もなかった。不思議な衣装だと思っていたが、本当にそうだった。ポピー・スーツの方には、ややダメージがあった。それでも素晴らしい状態だ。

イエスのメンバーと結成したXYZについて

ーレッド・ツェッペリン後はイエスのメンバーと、「eX-Yes and Zep」から名付けられたXYZ名義でレコーディングしています。XYZの作品はリリースされませんでしたが、どのようなサウンドだったのでしょうか?

ペイジ:イエスを知っているなら、彼らのテクニックがどんなに素晴らしいかわかるだろう。卓越したベースプレイヤーのクリス・スクワイアとドラマーのアラン・ホワイトが、一緒にやらないかと声を掛けてくれたんだ。断る理由はないだろう? ジョン・ボーナムを亡くしてから初めてのレコーディングだった。「難しいことに挑戦するなら、これが良い機会だ」と思った。彼らは素晴らしいミュージシャンだからね。(イエスの)スティーヴ・ハウのギタープレイは聴いたことがあるが、「どうなるか楽しみだ」という感じだった。

彼らが用意した何曲かのギターパートを弾いたが、とても良い経験だった。クリスが歌った。「集中しなければ」と思った。リズムが普通とは違ったからね。真剣に取り組んだよ。しかし素晴らしく見事だった。そして「これ、気に入ったからもらうよ」と言って一部使ったのが「フォーチュン・ハンター」となって、ザ・ファームのアルバムに収録されている。

その後トラブルになった。「いいさ、彼らが取り組んだことに間違いはない。たぶんイエス時代の作品だろうが、ただの即興ではない」と僕は思っていた。

「フォーチュン・ハンター」はいい曲だ。イエスの曲は詳しくないが、実際に僕らがプレイしたいくつかの部分はイエスの作品から来ている。「そうさ、後に『フォーチュン・ハンター』となった曲がある。しかしクリスと一緒にやったものとは完全に発想の違う作品だ。クリスと僕のギター・インストゥルメンタルと言う方が近い」と言える。



ーXYZの作品は世に出るのでしょうか?

ペイジ:残念ながらクリスは亡くなっている。僕としてはひとつのプロジェクトとしてリリースするために、クリスやアランと話し合いたかった。もはやただの願望となってしまったから、これ以上話すことはない。完成した作品を聴く機会もなく、何ができて何ができなかったのかも知らない。ミックスダウンした作品ももらっていない。どこにあるかすらわからない。

ヒップホップに魅了された理由

ー80年代にボーナムのドラムが、ヒップホップのベースとなるサウンドに使用されました。あなたは後に、「カシミール」をフィーチャーしたパフ・ダディの曲でコラボレーションしています。ヒップホップを重視する理由は何でしょうか?

ペイジ:君は音楽環境のひとつの産物だ。僕はアコースティックギターやキャンプファイヤー的なスキッフルの楽曲を学び、少しずつエレクトリックギターの弾き方を覚え、自分のスタイルを築き上げてきた。僕はサー・リチャード・バートン(19世紀の英国の探検家)のように、ナイル川の源流を求めて探検したいのさ。君には君の環境がある。僕らの音楽作品のサンプリングは別にしても、ヒップホップは幅広い分野と彼らの聴いている音楽から影響を受けていることがわかる。さらに、別々のものを統合してひとつの芸術作品に仕上げる能力がある。素晴らしい。レッド・ツェッペリンが辿ってきた道と基本的に同じだからね。

カルチャー全体も、ブレイクダンスも、ストリートから来たあらゆるものを含めて、ヒップホップは魅力的だ。素晴らしいと思う。大胆さもいい。

パフ・ダディが一緒にやりたいと言ってきた時、僕は「いいね。サンプリングはさんざんされてきたが、実際にやるべきだよな」と感じた。良い話だと思った。彼の功績だ。彼がオーケストラを2組も用意していたのには参ったよ(笑)。そんな豪華なことはしたことがなかった。彼と『サタデー・ナイト・ライヴ』に出演したのも、驚くべき経験だった。何度かリハーサルして本番を迎えたが、演奏するたびに彼は違った。即興が得意なんだ。彼のやり方には感心する。



ー「カシミール」を違う視点から見られたでしょうか?

ペイジ:そうだな。「カシミール」のリフは円のように一周してから下降する。最後のレコードのブラスパートを聴いているようだ。まるで「胸いっぱいの愛を」のようだとも言える。ジェームズ・ブラウンやブラック・サバス、スヌープ・ドッグとのマッシュアップがネット上にあるのを見たことがあるかい? どれも「胸いっぱいの愛を」をベースにしている。リフが素晴らしいからさ。

ものすごく出来の良いマッシュアップもある。僕としては「素晴らしい。このリフがジェームズ・ブラウンとのコラボをインスパイアしたのなら、使ってくれて嬉しい。僕も仲間に入れてくれよ(笑)」という感じだな。「胸いっぱいの愛を」などを使ったこのような作品を見るのは楽しい。このリフを弾く時に笑顔になってくれたら、それは素晴らしいことさ。だから僕は演奏を続けているんだ。だから音楽を作りたいと思うんだ。



ー自分の作品を見直すきっかけになりましたか?

ペイジ:誰かの人生を変えたり、少しの間でもハッピーにするために音楽作品を作りたい。それが全てさ。覚えたてのいくつかのコードでスタートして、やがてプロになる。スタジオミュージシャンだろうがヤードバーズだろうがレッド・ツェッペリンだろうが、世に打って出ることを真剣に考え、人々に影響を及ぼす音楽を作れるようになる。そして、ジェームズ・ブラウンやロックンロール・トリオ、アルバート・キング、フレディ・キング、B・B・キング、マディ・ウォーターズ、ロバート・ジョンソンらから一生かけて学んだ全てのものを、若い世代へと受け継いでいく。誰かに影響を与えられたとすれば、それは素晴らしいことだ。

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From Rolling Stone US.

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