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『マンダロリアン』シーズン2、感動的な終幕の振り返りと考察

Rolling Stone Japan / 2020年12月26日 9時0分

『マンダロリアン』シリーズ2の最終話「エピソード16:救出」(Photo by Lucasfilm Ltd.)

『マンダロリアン』シリーズのクライマックスを飾った感動的な終幕で制作陣は『スター・ウォーズ』の伝承に立ち返り、シーズン3の可能性を大いに残してくれた。ボバ・フェットのポストクレジットとともに幕を閉じた『マンダロリアン』シリーズ2の最終話「エピソード16:救出」を振り返える。

『マンダロリアン』は子ども向けの番組だ。だが、場合によっては、子どもの心を持つ大人のためのドラマでもある。

ジョン・ファヴロー、デイヴ・フィローニ、そして彼らの仲間たち(ファヴローの脚本をもとに最終話の監督として復帰したペイトン・リードも含む)のストーリーテリングには、以前から洗練されたシンプルさがあった。それは、ただ単に”その週のミッション”という一話完結型の番組構成のみならず(『マンダロリアン』が大人のオーディエンスを対象としていたら、残念ながらこの構成はウケなかった)使い古されたお決まりのものを基本的かつ圧倒的なエッセンスにまとめ上げる点にある。黒澤明監督にささげられた初めてのオマージュであれ、英雄的な犠牲が払われるシーンを500回観るのであれ、これらは神話という力で人々の心を打つ。それは、惑星タトゥイーンの双子の太陽、あるいはミレニアム・ファルコン号がハイパースペースへと飛び去るのを初めて見るとき、または映画というエンターテイメントが夢にも想像しなかった場所へと私たちを誘ってくれることに気づかされるときと同じ驚きをもたらすためにあるのだ。

そして『スター・ウォーズ』シリーズが神話から着想を得た物語からそれ自体が神話的なものへと変化していったからこそ、『マンダロリアン』の制作チームは、時折主人公マンダロリアン(マンドー)をモス・アイズリー・カンティーナやボバ・フェットの宇宙船内に登場させることがこうしたゾクゾク感を生み出す最善の方法であることを心得ている……

……あるいは、ルーク・スカイウォーカーと引き合わせるなど。

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アソーカ・タノがいくつか前のエピソードで”ベイビー・ヨーダ”ことグローグーを訓練できるジェダイはそう多くないと言った瞬間から、グローグーを訓練できる唯一のジェダイとはいったい誰だろう? とファンの頭の中の歯車が回り始めた。果たしてそれは、『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』(2005)で絶命しなかった『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』(2008)のキャラクターなのだろうか? それとも、メイス・ウィンドゥは実は死んでいなかったと遍在的なサミュエル・L・ジャクソンが登場して説明してくれるのだろうか? ファヴローは、ルーク・スカイウォーカー本人を登場させるといった大胆な手を使うだろうか? もし使うとしたら、マーク・ハミルの”替え玉”を買って出るほど勇敢あるいは向こう見ずな俳優はいったい誰だろう(オールデン・エアエンライクが同じようにハリソン・フォードの”替え玉”になったとき、あまり良い結果をもたらさなかったことを読者は覚えているはず)?


その代わりにファヴローは、マーベル・シネティック・ユニバース(MCU)の同僚たちからヒントを得(故ピーター・カッシングと故キャリー・フィッシャーをCGでよみがえらせた2016年の『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』を思い出してほしい)、デジタル技術でハミルを若返らせることでシリーズ史上もっともシビれる貴重な数分間を実現させた。たしかに『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(2016)の若きトニー・スタークほどの完成度ではなかったにせよ(とりわけR2-D2をはじめ、他のキャラクターとルークの一部が一緒に映っているシーンなど)、ルークが過去から物語の世界へと足を踏み入れる瞬間のインパクトは完璧以上の何ものでもなかった。別のスピンオフ作品で主役を任されたアソーカ・タノがグローグーの訓練を断ってから、この任務にふさわしいジェダイはいなくなってしまった。それは、生存しているジェダイ全員の名前をすぐに挙げられるコアな『スター・ウォーズ』ファンにも、映画しか観たことがないという気軽なファンにも同じくらい難しい問題だ。物語のこの時点で、グローグーの声に応じられるジェダイは、ルーク・スカイウォーカー以外はあり得ない。ファヴロー以外の人なら、ハミルが『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還』(1983)に出演してから40年近くが経っているという現実を理由に、別の選択肢を選んだだろう(『ジェダイの帰還』は『マンダロリアン』の舞台の数年前という設定になっている)。

登場するルークは、英雄としての権威をあますところなく与えられる。私たちは事実上『マンダロリアン』のエピソード全編をすでに堪能していて、マンドー、キャラ・デューン、ボバ・フェット、フェネック・シャンド、ボ=カターン・クライズ、コスカ・リーヴスが帝国軍残党の指揮官モフ・ギデオンの乗るライトクルーザーに侵入し、ギデオンの兵士を制圧するのを見てきた。すべてのアクションシーンは歯切れが良く、これ以上ないくらいエキサイティングだ。一人ひとりが輝く瞬間があり、もちろん我らが主人公マンドーもこの上なく便利なベスカー鋼の槍でダークトルーパーのドロイドとダークセーバーを持つモフ・ギデオンの両者を破る。その後、マンダロリアンとボ=カターンの間に緊張が生じる。マンダロリアン宮殿の玉座を取り戻すには、ダークセーバーの持ち主となったマンドーをボ=カターンが倒さなければならないからだ(訳注:ダークセーバーは、持ち主を倒さないと自分のものにできないという掟がある)。ギデオンを演じるジャンカルロ・エスポジートは、どうにもならない掟のせいで闘わなければならないと気づいた瞬間のマンドーとボ=カターンを目の当たりにする喜びを見事に演じている。

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惑星マンダロアの極めて異なる教義の代表者ふたりが対決しようとするや否や、マンドーが先ほど宇宙の彼方に吹き飛ばしたダークトルーパーたちが戻ってくる。マンドーはなんとか生き延びるが、クルーザーのブリッジを占拠している寄せ集めの兵士の軍団相手に勝てる見込みはほとんどない。その瞬間、Xウイングに乗ったひとりの男が飛び込んでくる。茶色いローブをまとい、緑色のライトセーバーを持つこの男の右手は、黒い手袋で隠されている。これらはすべて、この男がルークであることを示すヒントであり、まさか肩透かしを食わされるのでは? と心配になるほどだ。だが当然ながら、この男は紛れもなくルークだ。ブリッジのモニター越しにちらりと見えるだけだが、ジェダイがダークトルーパーの残党を倒していくシーンは、予算的な懸念はもちろん、マンドーとグローグーと対面するまで正体を隠しておきたいという制作チームの願いの現れでもある。モニター越しでしかルークが見られない状態は、グローグーへのインパクトを増大させる。グローグーは、初めて『スター・ウォーズ』を観る子どものように宇宙をひとつにし、すべてを良くするフォースという全能の力にただただ驚いているのだ。グローグーがモニターに手を伸ばすのは、彼とルークが力によって結びつけられているからだけではない。それは、圧倒的な力を目の当たりにし、それに近づきたいと思っているからだ——たとえそれが父親的存在を残していくことだとしても。


最終話「救出」がもっとも力強い効果を発揮しているのは、ルークの正体が明かされるときではなく、別離の瞬間だ。『マンダロリアン』の主人公ではないため、短い間だけでもルークが同シリーズに登場するのはわくわくする。ルークの物語は、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(2017)で見事な終幕を迎えたのだ。ここでのルークは、ダークトルーパーから味方を救出する、グローグーを守り、訓練する、そして少なくとも一時的にマンドーと息子のような存在のグローグーを引き離すという複数のエンディングの手段なのだ。だが『マンダロリアン』は、孤児だったところを”ウォッチ”というカルト教団に救われ、厳しい戒律のもとで育てられたディン・ジャリン(マンドーの本名)という男の物語であり、彼は別の孤児を救い、その孤児のことを大切に想うようになった結果、彼のすべてだった社会の掟よりも孤児との絆を選ぶ。グローグーがマンドーのヘルメットに触れると、マンドーはヘルメットを脱ぐ。シーズン1の最終話、または最終話以前のエピソードのように必要に駆られてそうしたのではない。彼は、グローグーに自分の顔を見てほしかったのだ。保護者の正体を知り、その顔に触れてほしかった——それが一瞬だとしても。マンドーのミッションは、ずっと前から仕事でもなければ、アーマラーに命じられた冒険ではなくなっていた。これは愛の物語であり、俳優ペドロ・パスカルが声だけでの演技(*)を強いられるなか、同シリーズが2シーズンにわたって経験してきたありとあらゆる障害を十分正当化できる美しさがある。


グローグーとルーク・スカイウォーカーの出会いの場面 (Photo by Screengrab/Lucasfilm LTD.)

(*) 効果は若干弱まっているものの、「エピソード7:信奉者」の構想上ペドロ・パスカルのヘルメットを脱がすという選択は、エピソードとエピソードの合間でマンドーがヒゲの手入れをしたからではない。ヘルメットを脱ぐシーンは印象的だったものの、最終話までこれを温存していれば、どれほど効果的だったことか。

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ボバ・フェットとフェネック・シャンドがかつてのジャバ・ザ・ハットの玉座を奪うポストクレジットのシーンはさておき、マンドーとグローグーの別れは、シーズン3の可能性を比較的多く残している。グローグーの可愛さはもちろん、若きルークを使用する上での同作の明確な限界も去ることながら、彼らがずっと離れ離れでいることは想像し難い。だが、現時点では、ダークセーバーの持ち主となったマンドーは、守るべき”幼な子”を失った。いまとなってはマンダロア奪還を掲げるボ=カタンの計画に加わることもできるし、事実上の支配をボ=カタンに任せて名目上の支配者を演じることもできる。いますぐにボ=カタンと対決することもできる。あるいは、別の賞金稼ぎのミッションを求めてこの場から走り去る、あるいは盗まれたグローグーの血(あるいは血を注入された被験者、またはその両方)を見つけるためにキャラと手を組むことも可能だ。その点では、ボバとフェネックのスピンオフ作品『The Book of Boba Fett(原題)』は、マンドーとボバは味方から敵同志になるシーズン3の副題とも言えるだろう(現時点で米ディズニーは、スピンオフ作品のタイトルが何を意味するかをまだ明かしていない)。

素晴らしいデビューイヤーからあらゆる方法でレベルアップを遂げた『マンダロリアン』の最終話は、スリリングで最終的には涙を誘う終幕となった。ギデオンがマンドーとボ=カターンに決闘が避けられないと説く一方、ギデオンはダークセーバーではなく、この物語自体に本当の力があることを教えてくれる。『マンダロリアン』は物語が持つパワーの大切さを理解している作品だ。そしてこれは、少しでも『スター・ウォーズ』のことを気にかけているすべての人の幼心に訴える方法でもある。

その他の考察:
* 現時点でファヴローとフィローは取材を拒否しており、最終話がすべてを語るがままにしている。

* ポストクレジットのシーンは、いくつかの疑問を投げかける。『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還』以降、ビブ・フォーチュナが存在感を増したのは、ジャバの玉座と何らかの関係があるのだろうか(そうだとしたら、ボバも負けてはいられない)? いまは亡きボスに変わって犯罪帝国を支配する一方、ビブは玉座の下に追いやられるほどの憎しみを買ったのだろうか? ゲートに立つボバとフェネックは無事だったのだろうか? ボバがシーズン3のスピンオフ作品の主演であるかどうかはさておき、コブ・ヴァンスとの対決は来年こそ見られないものだろうか?

* 同作は、『スター・ウォーズ』というなじみ深い作品を新しくて恐ろしいもの(TIEファイターへのズームインなど)に再構築した。その一方、盗まれた帝国軍の宇宙船がチューブを移動する場面は、同じような宇宙船がデス・スターに着陸するときよりも危険な気がする(すでに恐ろしげなダークトルーパーに極度にズームインすることで、もっと大きな危険がマンドーと仲間たちの身に迫っている印象を与える)。

* そして最後に、ルーク・スカイウォーカーに関するネタバレがソーシャルメディアにあふれたことは、同シリーズの最終話を米太平洋時間の真夜中にリリースする難しさを改めて提示した。Disney+はNetflixのやり方を踏襲しているだけだが(Netflixは、エピソードのほとんどが配信されるタイミングとしてこの時間を導入)毎週新たなエピソードを配信する番組とフルシーズンのリリースとではわけがちがう。それに、『マンダロリアン』は世界中に配信されているため、ネタバレから人々を守る最適な時間というものは、本当は存在しないのだ。だが、Disney+やその他の動画配信サービスが、たとえば、今季は東部標準時間の午後9時に配信しますと宣言したらどうなるだろう。まったくあり得ない話ではないと思うのだが。



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