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ヘヴィメタル/ハードロック伝説 KISS、ガンズ、メタリカ等の知られざる素顔を増田勇一が語る

Rolling Stone Japan / 2021年10月23日 11時15分

増田氏が所有するバックステージパスの一部

ヘヴィメタル・ハードロックのアーティストたちに逸話は事欠かない。そんな彼らの素顔を知るのが音楽ジャーナリストの増田勇一氏だ。氏は、ヘヴィメタル専門誌『BURRN!』の創刊メンバーで、その後洋楽ロック誌『MUSIC LIFE』編集長を務め、1998年からフリーランスになり、シーンの最前線で多くの大物ミュージシャンと交流を重ねてきた。今回、取材歴40年に及ぶ増田氏に彼らとのエピソードの数々を語ってもらった。ある人にとっては懐かしく、またある人にとっては新鮮な逸話がたっぷり詰まっているので、ぜひ楽しんでもらいたい。

※この記事は2020年12月25日発売「Rolling Stone Japan vol.13」に掲載されたものです。

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KISS「相手のレベルを見抜くジーン・シモンズ」

KISSは1977年、78年と来日していて、そのあともすぐに来るはずでしたが、中止になったりいろいろあって、結局、88年まで三度目の来日は叶いませんでした。彼らがメイクを落として素顔になったのが83年で、『BURRN!』創刊の前年。当時の彼らは、アルバムを出せば本国アメリカでビルボードのトップ20界隈には必ず入るし、アリーナツアーもできるぐらいの人気がありました。でも、日本での認識は「やや下降線にあるバンド」というもので、ギャラの折り合いがつかず、おまけに器材運搬にべらぼうに費用が掛かるので、なかなか話がまとまらなかったわけです。そこで、日本の発売元レコード会社とも歩調を合わせながら「次のアルバムのツアーの際こそは」という空気を作っていき、88年の『クレイジー・ナイト』ツアーで状況が整い、10年ぶりの日本上陸となったんです。

話は、その『クレイジー・ナイト』の前作『アサイラム』が85年に出たあとのこと。日本には、レコード会社公認のファンクラブがありまして、そこが「日本に来てくれないなら自分たちで行こう!」ということで、旅行代理店に話を持ち掛け、アメリカまでライブを観に行く団体旅行を企画したんです。その企画に僕も乗っかって一緒に渡米し、そこで初めて彼らと対面取材をすることになりました。86年2月のことです。インタビューでは当時新加入だったギタリストのブルース・キューリック、そしてジーン・シモンズ御大に、それぞれ別々に話を聞きました。サンディエゴにあるスポーツアリーナの楽屋でした。

当時、ジーン・シモンズは主演ではないんですけどけっこう映画に出演していて、バンドのハンドリングはわりとポール・スタンレーに任せてしまっていました。ジーンはライブ会場にも映画の撮影先から来たり、とにかく入りが遅かった。どれぐらい遅いかと言うと、この日、ブルースのインタビューが終わって、ほかのメンバーがライブ衣装に着替えてるのにまだ来ないというぐらい。結局、彼は前座のW.A.S.P.のライブ中にようやく現れたんですが、そのときの風貌がオールバックに黒いサングラスという怖さ。散々待たされてようやくインタビューに移ったんですが、場所はスポーツアリーナにありがちな狭いロッカールームの片隅。机もない部屋でパイプ椅子に腰掛けて話を聞きました。時間は10分ぐらいでしたが、ツアーの反響や日本に来られない理由などいろいろ話が聞けて、ジーンも丁寧に答えてくれました。

シーン・シモンズは話が上手です。しかも、彼が外国人向けに話す英語はすごく聞き取りやすくて、スピーチのような話し方をするんです。しかも、我々の英語力を見抜いて、それに合わせて喋ってくれるという。そこにたとえ話まで盛り込んでくるので、セールスマンでもやったらいいのにと思うぐらいでした。そうなると、こっちとしては「どうやってジーンをギャフンと言わせるか」ということがインタビューの裏テーマになってくるわけです。つまり、ジーンを困らせてやりたい。

初めてそれができたのは、『クレイジー・ナイト』ツアーのちょっとあとのこと。自身が発足させたシモンズ・レコードのプロモーションで来日した際に、僕は聞きました。「今回、あなたはシモンズ・レコードのプロモーションでいらっしゃいましたが、レーベル第1弾となるバンドのアルバムと、先月出たKISSのベストアルバム、LPを1枚しか買えない子供にどちらを勧めたいですか?」と。すると、これまでにないぐらい長い逡巡のあと、ちょっと困った顔をして、「我々のベストアルバムは去年も出ているので、次回に回してもらっても構わない」とようやく答えたんです。内心、「よしっ!」と思いましたね。もちろん、彼と対等になれたわけではないですけど、それまではただのガキだと思われていたはずなので、少なくとも自分の存在がようやく相手の視界に入ったかな、と。

KISS界隈の面白い話はいろいろありますが、96年にオリジナルメンバーでリユニオンをして、再びメイクをしてツアーをしたときのことも印象に残っています。僕はツアー序盤のタイミングでシカゴまで行き、彼らが泊まっているホテルのレストランで朝食をとりながらインタビューをするという運びになりました。

取材当日の朝10時、僕がレストランで待っているとメイクをしていない素顔のメンバーが順々にやってきたんですが、エース・フレーリーは熱を出してしまったため欠席。食事をしながら、ということだったので、先に店内に到着していた僕は注文を済ませていたものの、彼らはあの衣装を着用しての過酷なツアーのためにダイエットをしたり、体力づくりに取り組んでいて、一日の運動量とカロリー摂取量まで決められていたらしく、メンバーはみんな水しか飲まないんです。ジーンが水しか飲まないのに、僕が1人で食事するわけにはいかないですよね。

しかも、当時の彼らは飲酒も一切禁じられていて、アルコールNGということが契約書にまで書かれていたんです。エース・フレーリーとピーター・クリスには飲酒癖の問題もあり、それが過去にはトラブルを引き起こしてきた。それでジーンとポールの側はそれを条項に加えたわけです。

結局、その日のインタビューは和やかに終わって、別の日に僕はオーストラリアからKISSを追いかけてきたバンドとも顔馴染みのカップルと一緒に、メンバーが泊まっているホテルのラウンジで飲んでいました。ちょうどそこに現れたのがピーター。彼はなんと、こっそりお酒を買いに来たんです。ルームサービスで頼むと記録が残ってしまうので、わざわざバーまで来るという計画的犯行。カウンターで「ビール2本!」と頼んだあとに僕たちの存在に気づいて、「お願いだからこのことは黙ってて……!」と祈るようなポーズを。ちょっとかわいそうかな、と思いましたね。




1988年当時のKISS。ポール・スタンレー(左)とジーン・シモンズ(右)(Photo by Rob Verhorst/Redferns)



ヴァン・ヘイレン「都合が悪い時は歌ってごまかすデイヴ」

若いバンドが成功すると「俺が最初に目をつけた」と言いたがる人は多いですが、ジーン・シモンズにもそんなところが。ヴァン・ヘイレンもそうしたバンドのひとつでした。ある日、ジーンはロサンゼルスのクラブに、当時ジョージ・リンチがやっていたバンドを観に行ったんですけど、そのときの前座がヴァン・ヘイレンでした。「なんだ、こいつらは」と興味を持った彼が、「俺が金を工面するからデモをつくれ」と言ったのは有名な話ですけど、ジーンはもしかすると、KISSにエディ・ヴァン・ヘイレンが欲しかったのかもしれませんね。実際、エディを使ってKISSの曲のデモを録ったりしていますし。KISSは74年デビューで、バンドが大きくなったのが75、6年ぐらい。ヴァン・ヘイレンは78年、チープ・トリックは77年にデビューしています。そうやってシーンで頭角を現していくバンドを見ていたジーンの中には、若いバンドに投資したいという気持ちもあったんでしょうね。

ヴァン・ヘイレンとの対面取材ができたのは「5150」のツアーで日本に来たときでした。デイヴィッド・リー・ロスに関しては、ソロ時代にご自宅に行ったこともあります。当時、デイヴのご自宅はカリフォルニアにあって、住所は秘密だったのでパブリシストが家まで連れて行ってくれました。彼の家にはどれだけ歩かせるんだというぐらい広い庭があって、いくつもの建物があって、その中でインタビュー場所として案内されたのはプールサイド。ライオンの口から水が出てくるようなプールで、デイヴは椅子にのけぞって座っていました。彼もすごく聡明な人で、これは大先輩の東郷かおる子さんから聞いたんですが、あのジーン・シモンズがデイヴのことを「あの男はキツネのように賢いやつだ」と言ったそうです。僕からすると「あなたもね!」という感じなんですが、若い時分からデイヴはジーンと太刀打ちできる人物だったんでしょうね。彼の話を聞いてるとまるでトークショーに来たような錯覚に陥るんですよ。

彼はありがちな質問にはあらかじめ決まっていたような回答をするので、僕はこの時に勇気を振り絞りました。彼はそのインタビューのちょっと前に大麻か何かで捕まっていたので、そのことについてインタビューの最後にぶつけてみようと思ったんです。

「これで答えてもらえたらならしめたもの」と。そして、インタビューの最後、意を決してそれとなく聞きました。「ファンは最近、タブロイドでの報道について気にしていると思いますが……」。するとその瞬間、彼は「世の中、いろんなことがあるさ~」みたいなことを歌うように立ち去り、そのままインタビューが終わってしまいました(笑)。 




チープ・トリック「メールアドレスの秘密」

 デイヴ・リー・ロスのようなアーティストには、こちらからも相手が困るような質問をぶつけたくなるんですが、何を聞いてもめげない人もいます。逆に僕が困らされたのがチープ・トリックのリック・ニールセン。ほぼアルバムが出るたびに何らかの形で取材する機会があるんですが、毎回、「おいおい、こないだの計画はどうなったんだ?」と聞いてくるんです。何かというと、彼が日本に来て、数カ月間キャピトル東急に滞在し、日本のバンドをプロデュースするという話なんですが、「元メガデスのギタリストや元MR.BIGのギタリストよりも、俺が日本で活動したほうが面白くないか?」と言うんです。半分冗談なんですけど、半分は本気。そうやって僕らのことをイジって喜ぶタイプの人で、カタカナにすると「イヒヒヒヒ」と笑うんです。でも、こちらがいい質問をすると、「なかなかやるじゃねえか」みたいな反応をくれるので、楽しいし、取材しがいのある人ですね。

チープ・トリックの取材体験談としてちょっと特別なのは、僕がフリーランスになった直後、『チープ・トリック at 武道館』20周年記念として、98年のゴールデンウィークぐらいにシカゴのメトロというクラブで4日間開催されたライブを取材しに行ったときのことです。その何日目かの昼間に、リックから「お前、明日空いてる? 一緒に野球観に行かない?」と誘われました。というのも、リグレー・フィールドでのシカゴ・カブスの試合に彼らが応援に行き、「テイク・ミー・アウト・トゥー・ザ・ボールゲーム」を歌うことになっていたんです。それで僕もメンバーと同じボックス席で試合を観戦することになりました。

ロビン・ザンダーは奥さんと子供を連れてきて、トム・ピーターソンも彼女と一緒。リックだけちゃんとユニホームを着ていました。そんな彼らの姿を見つけた地元の子供たちが「わ、チープ・トリックだー!」みたいな、ちょっとイジるような言い方をしてくるんですよ。地元でリックは「おもしろオジサン」という認識なんだなと思いましたね。

リックが口癖のように言っているのは、「武道館がチープ・トリックを有名にして、チープ・トリックが武道館を有名にした」という言葉で、ここだけの話、彼のメールアドレスのひとつにも”budokan”という言葉が入っているんです。それぐらい彼にとって大切なワードなんでしょうね。





ボン・ジョヴィ「ジョン・ボン・ジョヴィと打ち解ける方法」

チープ・トリックのように日本から人気が出たバンドと言えばボン・ジョヴィです。彼らの初来日は84年、『BURRN!』が創刊した年の夏でした。「スーパーロック84イン・ジャパン」に二番手として出演して、その次に来日したときにはホールツアーで2000人クラスの会場を満員にして、その次にはもう武道館。だけど、『スリッパリー・ウェン・ウェット』が出る前の週の開催という無謀なスケジュールだったこともあって2階席はガラガラ。ちなみに、アルバムがバカ売れしたあとに来日したときは追加公演に次ぐ追加公演という状態に一変していました。

僕自身は、2階席がガラガラだった武道館公演のタイミングで初めて対面取材をしました。当時のジョン・ボン・ジョヴィはすでに、次のスター候補。それ以前から『MUSIC LIFE』ではジョンとリッチー・サンボラを中心にガンガン推していたので、『BURRN!』では視点を変えて、あえてリッチーだけを取材するという硬派路線をとることもありました。すると取材当日、ジョンがその様子を覗きに来るんです。さりげなさを装いながら。彼からすると、「なんで俺じゃないの?」というのが本音だったんでしょうね。

当時のジョンはちょっとワイルドぶりたくて、ホテルのテーブルに足を投げ出してみたりするような人でした。なので、僕が彼の取材をすることになった際も、当時の編集長から「増田もね、今はこのアルバムが気に入ってるから取材したいんだろうけど、会えばきっと嫌いになるよ」と言われていたし、過去に彼の取材をしてきた他の人たちも、「ジョンはとにかくスター気取りだし生意気なやつ」と口を揃えていて。それで逆に火がついて、「じゃあ、絶対に仲よくなってやる!」と僕は思ったんです。

まず、ジョンがエアロスミスのファンだということを知っていて、実際、彼らのTシャツを着て写真に納まっているようなこともあったので「よし、これでいこう」と思い立ち、エアロのレアもののTシャツを着てインタビューに臨みました。僕がホテルの部屋で待っているとジョンが現れて、「ああ、いいTシャツだね」とひと言。そこでまず掴みはOK。そのあとジョンはソファに座って、靴紐を直すために屈みました。そこで僕の足元が目に入ったんでしょう。彼はニヤッとしながら顔をこちらに向けました。僕はジョンの真似をして、ピンクと紫のコンバースを片方ずつ履いていたんです。そこで「もしかして、お前、俺のファンなの……?」みたいな雰囲気になり、一気にいい感じで話ができたんです。事前にしっかり仕込んでいったのが功を奏しました。

その取材のときは撮影用に、「ウォンテッド・デッド・オア・アライヴ」にちなんで指名手配書を小道具としてつくりました。茶色いわら半紙みたいな紙に文字を組んで、紙の端をタバコで焦がしたりして、けっこう凝った物を用意したんです。それを壁に貼って、ジョンにポーズをとらせて撮影スタート。だけどその途中、その手配書を剥がして、グシャッと丸めて、ポイッと捨てる様子を連続写真で撮りたいとカメラマンが提案すると、ジョンが難色を示したんです。なぜかと尋ねたら、「こんなによくできたものをグシャッとなんてできないよ……」って。いいヤツじゃんと思いましたね。

たしかに、当時の彼は客観的に見るとやや生意気だったとは思いますけど、彼と同世代の自分としてはちょっと理解できるところもあって。KISS、エアロスミス、チープ・トリックといったバンドのことは子供の頃から尊敬しているけど、自分たちは違うものをつくっていきたいんだという強い意識が彼の態度から感じられたものでした。




デフ・レパード「即席のアコースティックライブ」

同じバンドを何十年も取材していると感慨深くなるような場面が巡ってくることも多いですね。「この人たちがこんな作品をつくるようになったんだ」と思うこともあるし、人気のピークを過ぎてもスタンスが変わらなくて、「この人たちは本当に信じられるな」と改めて思わされることもあります。そんなバンドのひとつがデフ・レパード。

『アドレナライズ』のツアーで彼らの取材にアメリカのダラスに行ったとき、その日がたまたま僕の誕生日だったんです。かなり急に決まった取材で、前日の夜に現地に着いて、次の日にライブを観て、翌朝日本に帰るという行程。なかなか大変なスケジュールだったんですけど、すごく面倒見のいいツアーマネージャーがいて、ありがたいことに開演前の幕が降りた状態のステージを見学させてくれたりしました。「楽しんでくれた?」と聞かれたので、「実は今日、僕の誕生日なんだけど、最高のプレゼントだよ!」と言ったらそれがメンバーに伝わって、楽屋でメンバーの奥さんも混ざって「ハッピーバースデイ」を歌ってくれたんです。

95年に彼らが『デフ・レパード・グレイテスト・ヒッツ』を出したときにも取材があったんですが、取材場所はなぜかインドネシアのジャカルタ。彼らが所属していたポリグラムのコンベンションみたいなものがジャカルタで開かれて、そのタイミングでちょうどリリースがあったデフ・レパードがアコースティックライブをやるという催しがあったんです。でも僕は1泊3日で日本へ帰らないといけなくて、そのライブは取材の翌日に組まれていたので、僕はそれを観ずに帰国することになっていました。そうしたら、インタビュー終了後の部屋にメンバーたちが僕の部屋に集まってくれて、即席のアコースティックライブをやってくれたんです。たしか「トゥー・ステップス・ビハインド」を歌ってくれたのかな。

彼らに初めて対面取材したのは『アドレナライズ』完成直後のことでした。スティーヴ・クラークが亡くなり、リック・アレンが片腕を失い、ヴィヴィアン・キャンベルが加入するタイミングでした。なんでせっかくの初対面の機会なのにそんなに重い話をしかも通訳不在で聞かなきゃならないんだ、という気持ちもありましたけど、その時も彼らやバンドを取り巻く関係者の気遣いを感じたし、そのおかげでしっかり話をすることができて、彼らとの関係はそこから始まったんです。ことにジョー・エリオットはこちらに踏み込んできてくれる人というか、自分からいろいろと話してくれる。しかも年齢的にも近くて音楽的な好みも似ているんで、世間話みたいに盛り上がるんですよ。

フリーランス転身後は久しく取材の機会がなかったんですが、10年以上ぶりに取材をすることになった際も、彼は普通に「ハーイ!」と挨拶してくるんですよ。僕のことなんて忘れてるんじゃないかと思って「10年ぐらい会ってないけども?」と言ったら、「嘘つくんじゃねーよ」みたいなことを言われましたから、彼にしてみたらそんなに会ってない気はしてなかったんでしょうね。





メタリカ「ついつい話が長くなる男」

久しぶりに会ったときの反応が面白かったのはメタリカ。フリーランスになってからも、ジェイムズ・ヘットフィールドとの取材の機会はたびたびあって、たとえば2010年に『デス・マグネティック』のツアーで来日した際にもさいたまスーパーアリーナの楽屋で、彼とは話してるんですが、ラーズ・ウルリッヒやカーク・ハメットとは久しく会っていなかったし、ロバート・トゥルージロには取材をしたことすらありませんでした。

ところが、2013年に彼らが来日し、サマーソニック大阪の楽屋で4人個別に話を聞く機会があって。ミート・アンド・グリートの合間に15分ずつ話を聞くことになって、まず最初に現れたジェイムズは3年前のことを覚えてくれていて、「お前かよ!」みたいな反応をしてくれ、気持ちよく話をしてくれました。2人目のカークも「もちろん覚えてるよ~」という軽いノリで話をしてくれ、3人目のロバートも初対面にもかかわらず「みんなから話は聞いてるよ」と言ってくれました。「みんなから聞いてる」ということは、最初のインタビュー相手だったジェイムズが何かを言ったということになりますよね。だけど4人目のラーズは、僕が席で待機していると、眉間にシワを寄せながら「誰、お前?」と言わんばかりの表情で向こうのほうから近づいてきたんです。「あれ? ジェイムズが何か言ってくれてると思ったのは勘違いだったかな……」と思っていると、僕の目の前まで来たラーズはクルッと表情を変えて、笑顔で「元気だった?」と言ってきたんです。あれは面白かったですね。

今のところ、最後に彼らの取材をしたのは2017年のソウル公演のときで、それ以来彼らはアジアに近づいていないんですが、そこでジェイムズ30分、ラーズ40分という珍しい時間の切り方でインタビューをしました。ラーズは短い時間だと質問に答えきれないから、「ちょっと長めに設定して」と自分からリクエストしているらしいんです。たしかに、僕がこれまでに最も長いインタビューをしたのは彼で、120分テープが往復して「ごめん、テープが終わったから入れ替えます」ということがありました。それは『メタリカ』、通称ブラック・アルバムの完成間近のレコーディングスタジオで行ったインタビュー。彼は同じことを何度も言うから話が長くなるんです。あのときは、その時点で収録が決まっていた曲について1曲1曲丁寧に話をしてくれたし、「自分たちは次のステップへ進まなきゃいけない」みたいなことも話してくれたと思うんですけど、とにかくすごく熱のある人なんです。

あの当時はメタリカが使っていたワン・オン・ワン・スタジオにも2回ほど行きました。あの頃はバンドに関わるすべての工程をビデオに撮っていて、スタジオや至るところにカメラが置いてあったんです。当然、インタビューの様子も撮られていて、その結果、VHS2本組のドキュメンタリー作品『コンプリート・シーンズ・オブ・メタリカ』が出るときにソニーから呼び出され、作品に僕がちょっとだけ映り込んでいるけども肖像権のことで訴えないという旨を契約書にサインさせられました。

話はさらに遡りますが、メタリカのメンバーと初めて会ったのは初来日時に『BURRN!』でメンバー全員の個別インタビューをおこなった際のこと。僕はカーク担当でした。ちょうど彼の誕生日が近かったので、バースデーケーキを用意して、「Happy Birthday, Kirk!」みたいな写真を撮りましたね。クリフ・バートンが亡くなった直後だったので、どんな顔をして彼らに会えばいいのかわからない感じではあったんですけど、だからこそ楽しげな写真にしたいという気持ちがあったように思います。カークは日本のカルチャーが好きで、その時もGASTUNKのTシャツを着ていたんですけど、アニメやコミックにも精通していることはよく知られていたので、僕は『北斗の拳』のムック本をプレゼントしたんです。ただ、インタビュー開始前に渡してしまったのが間違いでした。取材中、彼はずっとそれを眺めていましたから。

当時は洋楽を扱う媒体が多かったし取材枠もけっこうあったので、できるだけほかとは違う写真を撮りたいということでバックドロップをつくったり、カークのバースデー・ケーキのときのようにいろいろ工夫をしていました。そのおかげでエアロスミスにも褒めてもらったことがあります。



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エアロスミス「インタビュー中に閃くスティーヴン」

エアロスミスは77年1月に初来日したんですが、当時、僕は高校生でお金がなかったので観に行けませんでした。それ以来、彼らはずっと日本に来ず、『パーマネント・ヴァケイション』のツアーまで時間が空きました。ちゃんと彼らの取材ができたのはこのときで、僕も気合を入れてエアロのバックドロップを作って持っていったら、それをジョー・ペリーが褒めてくれたんです。あれはうれしかったですね。そこからちょこちょこ彼らに取材をするようになりました。

エアロは『BURRN!』でも『MUSIC LIFE』でも表紙になる人たちだったので、新譜が出るタイミングでは電話インタビューをしたり、来日前のタイミングではアメリカツアーを取材しに行ったり、いろいろなケースがありました。でも、意外とこぼれ話はないんですよね。あるとしたら、スティーヴン・タイラーがインタビュー中に歌い出すことでしょうか――。

彼らの新譜のリリースタイミングでは世界中のプレスが1カ所に呼ばれ、順繰りにインタビューをするという機会が設けられるようなケースもあるんですけど、そういう場では各媒体の持ち時間が15分とか厳密に決められていて、1秒たりとも延長させてもらえない。マネージメントの関係者がストップウォッチ片手にチェックしてたりするんです。

ところが、スティーヴン・タイラーの場合、質問に答えている最中、何かを喋っているうちに自分の言葉が歌詞みたいなフレーズになっていくことがあるんです。そして、突然それを歌い出す。ミュージカルみたいで楽しいですけど、時間制限を設けられているこちらとしては「ごめん。そこは活字にならないし、勘弁してほしいんですけど」と困惑させられることがたびたびありました。これはヴォーカリストあるあるで、スティーヴンに限らず、ブラック・クロウズのクリス・ロビンソンもそんなタイプでしたね。





ガンズ・アンド・ローゼズ「アクセルとイジーの『いい話』」

87年9月、エアロスミス『パーマネント・ヴァケイション』とほぼ同時に登場したのが、ガンズ・アンド・ローゼズの『アペタイト・フォー・ディストラクション』でした。彼らについては、88年12月の初来日時の話に尽きますね。一度来日が延期されている間にアメリカで『アペタイト~』が一気に売れて、日本でも人気が出た結果、再び組まれたホールツアーの追加公演が武道館というすごいスケジュールになりました。そのタイミングで「BURRN!」ではメンバー全員の個別インタビューをすることになりました。

今はなき六本木プリンスホテルというホテルが六本木3丁目にあって、メンバーはそこに滞在していました。コの字型の変な建物で、内側がガラス張りで中庭にプールがある。そして、2階にあるカフェテリアの窓際の席から内側を見ると、誰がどこの部屋に入ったのか丸見え。宿泊客のプライバシーがまったく守られていない不思議なホテルだったんです。そんなところが彼らの取材場所でした。まず、マネージメント側から「アクセルのインタビューは保証できない」と言われたものの、他4人のインタビューは予定通り、何の問題もなく実施されたんです。すでにアクセルはそれ以前に表紙を飾っていたので、そのときはスラッシュを表紙にすることになり、何か面白い写真を撮りたいと考えた結果、季節的にその頃はお歳暮シーズンだったので、取材当日にデパートに立ち寄り、小さな日本酒の酒樽を買って行ったんです。それを片手に抱えた、くわえ煙草のスラッシュの写真が表紙を飾ることになりました。実際、スラッシュは日本酒をとても気に入っていたんですよ。ホテルのガラス越しに見える廊下を彼が、ルームサービスで注文した日本酒が入っているガラスの徳利を持ちながら上半身裸でウロウロ歩いている姿を今もよく憶えています。それで徳利から直で日本酒を飲みながら、誰かとすれ違うたびに「モシモシ」と声をかけてて。彼は日本人が「モシモシ」と言いながら電話をかける様子を見て、「Hello」の意味だと思ってたんでしょうね。そんな経緯もあったので、小道具に日本酒を持っていったら喜ばれるかも、と考えたんです。本人も「すごくクールだ」と喜んでくれました。

そんなふうにして4人分のインタビューを終えて、残るはアクセル。するとある夜、伊藤政則さんとうちの編集長にレコード会社経由で六本木のステーキ・レストランに呼び出しがかかり、そこで突発的にアクセルの日本での初インタビューができてしまったんです。その翌朝、何も知らない僕が出社すると、編集長から内線があって、「ごめんな、お前を呼ばなくて」「はっ?」「昨日、アクセルのインタビューができて……」「なんスか、それ!?」という話になったわけです。

でも後日、幸運にもちゃんと時間が取れて僕もアクセルのインタビューができました。ホテルの部屋に入ると、彼はルームサービスの小瓶のビールを飲んでタバコを吸いながら、おつまみのとんがりコーンを食べていたんですけど、当時、デイヴ・リー・ロスも担当していたパブリシストが僕のことを紹介すると、吸っていたタバコをすぐに消して挨拶をしてくれました。インタビューもすごく丁寧に、40分ぐらい応えてくれたんです。

ところで、前述のように編集長がひと足先にインタビューを済ませていたことで、ひとつエピソードが増えることになりました。あまりに突然の出来事だったため質問を用意することもできなかった編集長は、苦し紛れに「自分の棺桶に入れたいアルバム3枚」を聞いていたんです。そこでアクセルが何を挙げたかというと、セックス・ピストルズの『勝手にしやがれ!!』、自分たちの『アペタイト~』、そしてクイーンの『クイーンII』。その話を聴いていたので、僕は取材当日の朝に『クイーンⅡ』のCDを買いに行き、それをアクセルにプレゼントすることにしたんです。というのも、クイーンの旧譜は当時アメリカではまだCD化されていなくて、しかも日本でも初CD化されていたばかりで、他でもない『クイーンⅡ』のライナーノーツを僕が書いていたんです。取材時、すべての質問を終えた後、「プレゼントがあるんだけど……」と彼にそれを渡すと、それまでは「イッツ・ソー・イージー」の歌い出しのような低い声で喋っていた彼が、「ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル」の声になって喜んでくれた……と言えばその時の彼の様子が伝わるでしょうか。「CDあんのかよっ!」って。ちなみにその後、アメリカでクイーンの旧譜はハリウッド・レコードからリリースされたんですが、その契約にもアクセルがひと役買っていたようです。

実は、ガンズのメンバーの中で一番縁があったのはイジー・ストラドリンでした。彼の取材は初来日のときにしていて、そのときの彼はけっこうヨレヨレで。それから数年が経ち、ガンズは『ユーズ・ユア・イリュージョン』を録り終わったものの、なかなかアルバムが出ない。そんな状態でリリースの4カ月も前に全米ツアーが始まったので、僕はその序盤、インディアナポリス公演を観に行き、彼らに取材することになりました。ただ、リクエストは控えめにして、当時新加入だったマット・ソーラムをインタビューすることに。

当日、会場に早く着きすぎてしまい、まだ受付でプレスパスを受け取ることができませんでした。で、当時はまだこういった現地取材に慣れていなくて、今となると素人の発想で恥ずかしいんですけど、「関係者の駐車場のほうに行けば、もしかしたらマネージャーに会えるかもしれない」と思って行ってみたんです。そうしたら、偶然、イジーの車が入ってきて、「あ、イジーだ!」と声を上げて車の行方を目で追っていると、なぜか車が戻って来て、こちらの前で止まったんです。そして、彼はこう話しかけてきました。「日本で会った人だよね? あとでね~」

その後、無事にマネージャーと会えて、楽屋でマット・ソーラムのインタビューをしていたときのこと。スケボーで遊んでいたイジーが、「あとでインタビューやろうよ」と言ってきたんです。「えっ!? こっちは大歓迎だけど、マネージャーさんに確認しないと……」「いいよ、そんなの。でも、そのほうがいいならそうして」。それでマネージャーに「実はイジーがインタビューしようと言っているんですけど……」と確認したら、「それ、奇跡だよ! 俺がいくら言っても何もやってくれないんだから!」と言うんです。それぐらい彼のことをコントロールできていない時期だったんでしょうね。それでほんの30分ぐらい、イジーにいろいろ話を聞くことができたんですけど、彼は「いや~、俺はアルバム2枚同時に出すなんて嫌だなあ」「前座もスキッド・ロウじゃなくて、ジョージア・サテライツとかのほうがよかったなあ」なんて話をするわけです。おそらく、それが彼自身にとってガンズでの最後のインタビューになったはずです。このときのインタビューを翌月の『BURRN!』に載せたタイミングで彼の脱退のニュースが届いたので。僕が見ている限り、彼はそんなにシャキッとした印象ではないんだけど、とにかく穏やかで、フランクに話してくれる人でしたね。



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パンテラ「俺は臭くないから大丈夫」
 
 『カウボーイズ・フロム・ヘル』を90年に、『俗悪』を92年にリリースしたパンテラの初来日は、その年の夏のことでした。そのときのオープニング・アクトは日本のOUTRAGE。笑ってしまったのが彼らの楽屋。部屋中がバーベルだらけだったんです。腹筋台なんかも並んでて、OUTRAGEのメンバーも一緒になってやっていたので、「ここはジムか?」という感じでした。

その際、僕は、夏物の薄いパーカーを着てライブを観に行ってました。終演後、楽屋まで挨拶をしに行って、「いやあ、素晴らしかったね」なんて話をしていたら、ヴォーカルのフィリップ・アンセルモが僕のパーカーを指差して、「これ、いいね。欲しいんだけど。ちょっと着てみてもいい?」と言ってくるわけです。もちろん、ライブ後なので汗だく。こっちは「え……?」という顔になりますよね。それを察知したフィルが「いや、俺は臭くないから大丈夫だよ!」と言うので、さすがに「ああ、そんなこと気にしてないよ」と渡したら、鏡を見ながら「いいなー、いいなー」と言っていて、「もしこれを俺にくれるなら、君が欲しいものを何でもあげるよ」と言うんです。そこで、「いや! あげてもいいんだけど、これをあげちゃうと今日僕が着て帰るものがなくなるから、君たちが日本にいる間に同じものを買って持って行くよ」と約束したんです。フィルは「本当か? うれしいよ。なんでもあげるから」って。

後日、同じパーカーを丸井のスパークリングセールで買って(笑)、フィルに進呈したところ、とても喜んでくれて、「何をあげたらいい?」と聞いてきたので、「読者プレゼント用にパンテラのTシャツをたくさんちょうだい!」とお願いして、10枚ほどもらうことができました。そのときに「ひとつだけ約束してほしいんだけど、ほかの雑誌の取材ではそれを着ないでもらえるかな?」とお願いしたら、「おお、もちろんもちろん!」と彼は快諾。

その次の日のライブで僕が前のほうの列で観ているときに、ステージ上の彼に見つかって、「『BURRN!』のお前じゃないか! ごめん、今日撮影があるって知らなくてお前からもらったパーカー着ちゃった! 許してくれるか?」とマイクを通して言われてしまうというオチがつきました。まわりのお客さんはわけがわからずポカーンとしてましたが。

その初来日の際、『BURRN!』では初めてフィルを表紙にしています。実は、その号では別のアーティストが表紙候補になっていたんですけど、それがボツってしまい、代わりにパンテラになったんです。そこで普通にアンセルモを撮っても面白くないので、彼がそれ以前の記事の中でマーシャルアーツについて話していたことを思い出して、柔道着を着てもらおうということになりました。でも、彼はTシャツの上から道着を着てしまって、そうするとどうしても総合格闘家みたいに見えてしまう。だから、通訳さんを通じてTシャツを脱いでもらえないかお願いしたんですけど、「いや、俺はマーシャルアーツにリスペクトがあるから、モノマネみたいなことはやり

たくないんだ」とまっとうな理由を言うんです。そこで僕がかくかくしかじかで……と伝えたところ、「……わかった」とすぐに脱いでくれました。何を彼に伝えたかと言うと、「『BURRN!』では少し前にロブ・ハルフォードに侍の格好をしてもらって表紙の撮影をしたことがある。今回の表紙はそれと同じぐらい神聖なものだと捉えているんだ」ということだったんですが。

当時のフィルには、ちょっとイキがりたい性質があったように思います。続く『脳殺』というアルバムのときに「MUSIC LIFE」の表紙を彼一人で飾ることになりました。取材が行われたのはちょうどアルバムリリースの翌週で、全米初登場1位を獲得することがわかったときだったんですけど、彼はそれを知った途端に機嫌が悪くなってしまって、その日に撮った写真は全部むくれた表情になってしまったんです。「俺たちは数字でジャッジされるためにバンドをやっているわけじゃない」みたいなことを言い始めて、撮影も途中で切り上げられてしまって、こっちとしては「何故そこで不機嫌になる?」という感じなんですが、巻頭ページを埋めないといけないので、そんな空気の中で一問一答みたいなインタビューを1時間やりました。でも、なんだかんだで彼はけっこう喋ってくれるんですよ。「俺は数字でジャッジされたくないんだ。撮影も嫌いだ。写真一枚でどんなバンドか決めつけられるのは嫌だ」「だからこそこうやって喋らないといけないわけですよね」「そうだ」みたいな感じで、なんとか会話が途切れないように続けていったんです。それを見ていた現地のレコード会社の担当女史が「彼はあなたには心を開いていると思うわ」と言ってくれたんですけど、こっちからすると「あれで!?」という感じでしたね。




パンテラのフィリップ・アンセルモ。写真は文中に出てくる『BURRN!』表紙撮影時のもの。(Photo by Gutchie Kojima/Shinko Music/Getty Images)



ジューダス・プリースト「話の内容と口調のギャップ」

僕にはジューダス・プリーストの取材をする機会がなかなか回ってこなくて、ロブ・ハルフォードに初めて対面取材をしたのは一昨年の11月に来日したときが初めてだったんです。とても丁寧に対応してくださって、こちらが恐縮してしまうくらいでした。

でも、実はそれ以前に電話インタビューをしたことがあって、彼がファイトとして活動していた94年に『MUSIC LIFE』で取材したんです。僕は自宅で待機していて、「ああ、そろそろ時間だな。ロブはちょっと几帳面そうだし、時間通りにかかってくるだろうな」と思っていたら、定刻を3分過ぎたぐらいに電話が鳴りました。「ハロー?」と電話に出ると、”Hello? Can I speak to Mr. Masuda, please?  Hi, this is Rob Halford speaking. Am I calling you at the right time?”(増田さんとお話ししたいんですが、時間は合っていますか?)という具合にすごく丁寧な口調で話してくるので、喋っている内容と口調が実にアンバランスで。”Yes! This is a new form of heavy metal!(そう、これはメタルの新たな”型”なんだ)”なんてことをすごく格調高いイギリス英語で言うんです。そんなふうにしてインタビューが終わったあと、僕は気づきました。うちの時計が3分進んでいたんです。ロブはしっかり定刻に電話をしてくれていたんですね。

昔は今とは時代が違って、彼は自分がゲイだということを公表しにくい風潮があった。よく覚えているのは、84年に『背信の掟』というアルバムでジューダス・プリーストが来日して、初めて日本武道館でやったときのこと。当時の担当ディレクターは、「初の武道館だし、ここで一気にデカくするぞ!」と気合の入った紙資料をつくったんです。そこには「ジューダス・プリーストのここがすごい!」みたいなことがたくさん書いてあったんですけど、一箇所だけマジックで黒塗りになっていました。そこに何が書かれていたのか気になって透かしてみると、「ロブ・ハルフォードはゲイであり」と書いてある。「ああ、隠さなきゃいけないんだね……」と。今や自伝の中でも赤裸々に語っているわけなんですが。



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アイアン・メイデン「髪型エピソードが爆笑された理由」
 
アイアン・メイデンを取材したことはそんなにないんですけど、ブルース・ディッキンソンがソロでプロモーション来日したときの発言で、その場にいた全員が大爆笑したことがありました。90年代半ばのことですね。それまで長髪だったブルースが髪を短くして、「キープ・ザ・フェイス」の頃のジョン・ボン・ジョヴィと同じような髪型をしていたんです。すごくすっきりしたヘアカットで、革のロングコートを着て後ろを向いているとジョン・ボン・ジョヴィそっくりなんだけど、こっちを向くとやっぱりブルース。それが面白くて、「随分イメージが変わりましたね」と伝えると、「いや、これは楽だし、うちのかみさんも気に入っているんだよ。『別の男と寝てるみたい』って」。「それ、喜んでいいんですか?」という話になって、みんな「ん?」と一瞬だけ沈黙し、その直後、大爆笑になりました。ブルースは聡明な人で、聞き取りやすい英語で理路整然と喋ってくれる姿が印象的でした。

あと、暗黒時代扱いされているブレイズ・ベイリーの話もあります。彼がプロモーション来日したとき、新人なのに”俺様”な態度だということで悪評が立ったんです。でも、それには理由があって、自分が露骨に新人扱いされていたからでもあったらしいんです。僕は彼がメイデンの前に所属していたウルフズベインというバンドがメイデンの前座をやっているのをイギリスで観たことがあって、彼らの作品のライナーノーツを書いたこともあったんです。そのことをインタビューで本人に伝えたら、「じゃあ、俺たちのことをよくわかってるんだね!」と食いつきが全然違って。デカいバンドに入った新メンバーの複雑な心境をその一瞬に感じましたね。スティーヴ・ハリスと並んで喋ると、どうしても向こうのほうが弁が立つわけで、取材者の側も彼にばかり質問し、ブレイズには「メイデンに入れてどんな気分ですか?」みたいなことばかり聞いてくる。そういうことが重なっていくうちに次第に感じが悪くなってしまった。ジョン・ボン・ジョヴィも最初の頃はそうだったと思うんですよ。自分のバンドだけど、音楽的な話はリッチーのほうが喋れたりするわけですからね。



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スレイヤー「帝王の笑顔」

スレイヤーについてはすでに、怖い印象がありながら実はいい人たちだということがバレてますよね。「DOWNLOAD JAPAN 2019」で行われたラストライブの最後の去り際の場面とか、今思い出してもグッとくるものがあります。ついさっきまで激しく吠えていたはずのトム・アラヤに、あの哀愁を帯びた優しい声で「サンキュー」って言われただけでそうなりますよね。彼はホントに優しいんですよ。90年12月に『シーズンズ・イン・ジ・アビス』のツアーで初来日したとき、『BURRN!』は徹底的に取材するということで、毎回ライブを観に行って楽屋にも挨拶に行っていたんです。当時、『BURRN!』はTシャツとかキャップみたいなグッズをいろいろ作っていたので、それをメンバーに人数分あげるとすごく喜んでくれたんです。彼らにしてみると、着替えをたくさん持って日本に来ているわけではないから助かるというのもあるわけですけどね。そうやってメンバー全員にグッズを分配し終えると、僕のところにトムが近づいて来たんです。何かと思ったら、「キャップをもうひとつもらえないかな……? 実はうちのクルーに弟がいて、彼にもあげたいんだ」って。彼の弟はジョン・アラヤという名前で、のちに僕は彼と再会することになるんです。なんとジョンはDIR EN GREYの欧米でのツアーでテックを務めていたんです。

スレイヤーが初めて『BURRN』の表紙を飾ったとき、編集部ではトムとケリー・キングが歯茎を出さんばかりに笑っている写真を選んだんですけど、それにまつわるエピソードがあって。この写真はニューヨークで撮影されたもので、カメラマンさんはデヴィッド・タンさん、そして取材は彼の奥様でもある林洋子さんというジャーナリストにお願いしたんです。これはその林さんから聞いた話なんですが、こういう撮影のときに「ケータリングでこういうものを用意してほしい」というリクエストがあることは日常的だけども、彼らの場合はビールとかだけではなく、どこそこのラムだとか、ハードリカーの銘柄や本数を細かく指定して注文してきたっていうんです。一体どんな人達が来るのかと思ったら、林さんいわく「とてもスイートでセクシーな人たちだった」と。当然、こっちはスレイヤーは怖い人たちだと思ってるから「ええ~!?」と思うわけです。

で、その取材時に撮られた写真一式が現地から届いたときに、一枚だけ2人が大笑いしているものがあって、それを見て僕が「表紙は絶対これですよ! スレイヤーが笑うなんて誰も思わないじゃないですか! 絶対インパクトありますよ!」と編集長を説得して、それが表紙になったんです。すると読者投稿欄の似顔絵コーナーに笑顔のスレイヤーの絵がたくさん届くぐらい反響があって。そして来日時にときにその号を持っていったら、トムはそれを見た瞬間に本を伏せてしまったんです。「気に入らなかった……?」と聞いたら、「ごめん、これを見てると笑っちゃうんだ」って。「かわいいな、この人」と思いましたね。

トムはすごく正直な人で、近年になってから彼に取材したとき、「実は、90年前後に僕はあなたとよくお会いしていたんですよ、覚えてますか?」と聞いたら、「ごめん……というか、あの頃出会った人のことは誰も覚えてない」と言うんです。当時はアル中寸前だったので彼はその時の記憶がないんだ、と。当時はライブが終わってから、最低でもビールの6パックを持ってホテルの部屋に戻っていたみたいで、それでも足りないことがあったそうです。それぐらい飲まないと眠れなかったんですね。

その取材が終わったあと、「一緒に写真を撮ろう」という話になったんですけど、「撮るには条件がある、『スレイヤー!』と叫べ」と。場所は恵比寿の高級ホテルです。だけど流れ上、やらないわけにもいかず、その場にいたメーカーの担当者に目で「ごめん!」というサインを送り、「スレイヤー!」と大声で叫んで、「あっはっは!」と笑われながら一緒に撮りました。おちゃめな方なんです。スレイヤーに限らず、あの手のバンドには意外とそういう人が多いですね。




スレイヤーのケリー・キング(Photo by Ann Summa/Getty Images)

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セパルトゥラ「持ち物に名前は忘れずに」

セパルトゥラはパンテラと同じ時期、92年夏に来日していて、僕はその前に『ARISE』というアルバムのツアーのときにイギリスでカヴァレラ兄弟に取材しているんですが、『BURRN!』の見本誌をあげたら弟のイゴール・カヴァレラが、その表紙にマジックで「IGOR」と書いていて、「え?」と思って彼を見ると、「こうしておかないと誰かが持っていっちゃうんだよ」と顔をしかめて言うんです。

後日、ロンドン滞在中に再び彼らと会う機会があって、マックス・カヴァレラが「お前にプレゼントがあるんだよ」と誘ってくれたので彼らが泊まっているホテルまで行ったら、セパルトゥラのメンバーと前座のセイクレッド・ライクとヒーゼンのメンバーが、ロビーで輪になって座って飲んでるんですよ。それで僕も「お前も飲めよ」みたいな感じで飲まされていたら、マックスが部屋からレジ袋にいろいろとグッズを入れて持ってきてくれたんですけど、あとで見てみると、その中に明らかに新品ではないスウェットが1枚入ってたんです。「なんだこれ?」と思ってタグを見てみたら「IGOR」って書いてありました。それはいまだに持っていますね。

あの人たちがかわいいなと思ったのは、その次に取材した際、僕が「久しぶりだね」と挨拶したら、マックスが「いや、俺はメタリカのビデオでお前のこと見たけどな」って言うんですよ。さきほど話に出た『コンプリート・シーンズ・オブ・メタリカ』のことです。ツアーの移動中は暇だから、いろんなバンドのビデオを買って観ていたんでしょうね。

初来日のとき、半日だけオフがあって、当時の発売元のメーカーがはとバスをチャーターして、メンバーに観光をさせてあげたんですよ。そこに『BURRN!』も同行して撮影させてもらったんですけど、ラテン系の人たちは時間を守らない。なので、行く予定だった場所を2カ所ぐらい飛ばしていました。あと、そこには若干名のファンを招待していたので、そこから情報が漏れて、バンドが行く先々にファンが待ち受けてたのを覚えてます。

彼らが一番時間を費やしたのは、浅草の仲見世にあるおもちゃ屋さん。ゴジラのデカいフィギュアを買ってご満悦でした。観光を終えて六本木のホテルに戻ってからは、居酒屋の座敷で宴会。そのお店にはカラオケも置いてあったので、メーカーの人がBOØWYを歌ったりして、「お前もなんか歌え!」と言われたんですけど、洋楽が入ってないカラオケだったので、「どうしよう……」と悩みながらとある曲を入れたら、パウロJr.がイントロから踊りだしてくれたんですよ。それは郷ひろみの「お嫁サンバ」。ああ、本当にサンバの国の人たちなんだなと思いましたね



増田勇一(ますだゆういち)
1961年生まれ。1984年に創刊された日本初のヘヴィメタル専門誌『BURRN!』の副編集長、洋楽専門誌『MUSIC LIFE』の編集長を務めたのち、1998年よりフリーランスに転身。邦楽・洋楽を問わず幅広く取材・執筆活動中。著書に『ガンズ・アンド・ローゼズとの30年』などがあり、映画『ボヘミアン・ラプソディ』の日本語字幕監修も手掛けている。例年は年間平均150本のライブに足を運んでいる。

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