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中川五郎が語る、フォーク・ソングとの出会いからコロナ禍までを描いた自叙伝

Rolling Stone Japan / 2022年5月1日 11時30分

書籍『ぼくが歌う場所 フォーク・ソングを追い求めて50年』表紙画像

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2022年4月の特集は「最新音楽本2022」。パート2は平凡社から発売された『ぼくが歌う場所 フォーク・ソングを追い求めて50年』にスポットを当てる。著者のシンガーソングライター、評論家、訳詞家である中川五郎本人をゲストに迎え、自身の名曲を辿りながら本の内容について語る。

田家秀樹:こんばんは。「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのは中川五郎さんで「腰まで泥まみれ」。1969年URCから発売になったアルバム『六文銭 ・ 中川五郎』。片面が『六文銭』、片面が中川五郎さんというアルバムの曲でした。今日の前テーマはこの曲です。

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腰まで泥まみれ / 中川五郎

今週は去年の秋に平凡社から発売になった中川五郎さんの自叙伝『ぼくが歌う場所 フォーク・ソングを追い求めて50年』のご紹介です。ゲストにお迎えしているのは著者の中川五郎さん。1949年生まれ。1967年に中川五郎さんが書いて、高石ともやさんが歌った「受験生ブルース」がヒットして注目を浴びました。1969年に自身がシンガーソングライターとしてデビュー。「腰まで泥まみれ」はアメリカのフォークシンガー、ピート・シーガーの日本語カバーです。中川五郎さんはシンガーソングライターだけではなく、アメリカンミュージックを紹介する評論家、訳詞家としても活躍されております。『ぼくが歌う場所 フォーク・ソングを追い求めて50年』は、フォーク・ソングとの出会いに始まり、コロナ禍での最近の活動までを綴った自叙伝です。彼を通した日本のフォーク・ソングの歩みをたどった本でもあります。こんばんは。よろしくお願いします。

中川五郎:こんばんは。

田家:五郎さんは評論や翻訳の本もたくさんお出しになっていますけども、自叙伝というのは?

中川:自叙伝と紹介していただいたんですけども、今回出した本は1960年代半ばから日本でアメリカの影響を受けたフォーク・ソングがどういう流れを辿って変化して、どういうことがあったかという、その現場に身を置いていた者からの1つの記録としてまとめたい気持ちがありました。自叙伝でもありますけども、1つの記録本でもあればいいなと思っております。ちょうどやり始めて50年でそれなりに区切りにもなるし。

田家:50年という時間が経って2022年、世の中がこんなふうになる中であらためて自分が歌うべきこともいろいろ考えてらっしゃるんだろうなという話も伺いながら、今日は進めていけたらと思っています。あらためて1曲目、先程お聴きいただいた、「腰まで泥まみれ」のシングルバージョンをお聴きいただきます。





田家:本の中でもお書きになっていますけども、1967年10月にビート・シーガーが大阪に来て、そのコンサートをご覧になってこの曲を聴いて自分で歌うようになった。

中川:ちょっと大げさな言い方になってしまうかもしれないんですけども、自分の人生を決める一瞬みたいなものが僕の中にあるとすればピート・シーガーのコンサートを観に行って、実際に生で戦争の愚かさを伝えるこの歌を聴いて、「これはすごい」と思った。そこで僕の人生が決まったみたいなものなんです。

田家:そのときこの歌はライブで聴く前もご存知だったんですか?

中川:はい、僕はその頃からアメリカのフォークにすごく興味があって。当時アメリカのフォーク・ソングの雑誌とか輸入販売で買っていたんですよね。当時ピート・シーガーの「腰まで泥まみれ」がすごく話題になっていて、楽譜とか歌詞とか既に手に入れていたんです。で、コンサートで実際に聴いてすぐに日本語の訳詞を作って歌い始めました。

田家:そのときにご存知だったのは重要ですよね。さっきの話にもありましたけども、そのときにはもうあちこちで歌う活動はされていたんですね。

中川:はい。1967年の3月、ちょうど高校2年生から3年生になる春休みに出かけに行った場所で、高石ともやさんが歌いに来たんですよね。その時に話しかけて、それからいろいろなところに高石さんに連れられて歌いに行くようになりました。

田家:北浜の愛日小学校講堂。

中川:ベトナム反戦集会で、僕は集会に参加して講演を聴きに行ったんですけども、その最初に高石ともやさんが歌いに来ていた。高石さんが来るなんて知らなかったんですけれども、でも高石さんが既にピート・シーガーなどの歌を日本語で歌っているのはラジオから流れているのを聴いていました。そこで「僕もアメリカのフォーク・ソングが大好きで、ピート・シーガーのレコードを聴いたりしているんです」って言ったらすごく興味持ってくださって、「それだったら次に歌う場にギター持って歌いに来たらいいよ」って言ってくださって。高石さんにあちこち連れて行ってもらって、鍛えられた感じですね。

田家:高石ともやさんが歌って大ヒットした「受験生ブルース」はもともと中川五郎さんが「受験生のブルース」というタイトルで書かれたんですよね。

中川:1967年の高校3年生の夏休みに京都でフォーク・キャンプが開かれました。そこに東京からボロ・ディランと呼ばれていた真崎義博さんが来ていて、廃れていく炭鉱町のことを歌ったボブ・ディランの「ノース・カントリー・ブルース」という歌を〈おいでみなさん聞いとくれ〉って日本語で歌ったんです。その曲がそのフォークキャンプでのヒット曲みたいになって、僕はその替え歌をすぐ作ったんです。「炭鉱町のブルース」の替え歌で「受験生のブルース」を作って、メロディはめちゃくちゃマイナーな暗いブルースなんですよね。それで歌っていて、でも1967年の終わりに「帰って来たヨッパライ」がヒットして、関西のフォークはコミカルでおもしろい歌がいっぱいあるぞみたいな感じで、それに続く歌はないかと探し始める人たちもでてきた。そこで「受験生のブルース」をもう少しコミカルにしようということで、高石ともやさんがこの曲を軽快な曲に付け替えて、すごく話題になって。そのおかげで僕も1968年になってからは「受験生ブルース」の詞を書いた者だってことで、あちこち歌いに行けるようになりました。

田家:中川五郎さんのURCからの最初のフルアルバム『終り・はじまる』の中からもう1曲お聴きいただきます、「俺はヤマトンチュ」。





田家:高石ともやさんと一緒にあちこち歌われるようになって、沖縄にも行かれたという。

中川:1968年に沖縄をテーマにしたコンサートをやることになって、沖縄の歌を作れってことで高石ともやさんと沖縄に行って10日間ぐらい滞在したんですよ。1960年代の終わりに、僕は戦争反対を訴えるプロテスト・ソングを中心に歌っていて、まだ本土復帰する前の沖縄が抱えている問題、本土の人たちの差別意識や沖縄でひどい目に遭っている人たちのことも歌にできたらと考えていました。でも沖縄の歌を歌うにしても、自分の視点で作って歌うしかなくて、それで生まれたのが「俺はヤマトンチュ」という歌です。その後プロテスト・ソングから遠ざかったことも一時ありましたが、50年経って、また自分は同じことをしているなというか、改めてそうした歌のあり方を真剣に考えています。昔より、もうちょっとしっかりした気持ちでやっていられたらいいんですが(笑)。時代が巡り巡っている感じもして、しかもどんどん悪くなっているようで、何とかしなければならない。

田家:1969年にアルバムが出たときに『終り・はじまる』というタイトルがすごくしっくりきたんですよね。

中川:僕の中で1969年後半は1つの時代の終わりだったと思うんですよね。それはもちろん僕らがやっていたフォーク・ソングもそうだし、反戦運動もそうだったし、学生運動も過激な方向に行ったりして。でも、それで世の中が変わるか、自分たちが状況を変えられるかと言うとそうではなくてひとつの終わりの兆しが見えていた。

田家:もう1つの「終末」みたいなニュアンスもありましたしね。これは本の中にお書きになってましたけど、1970年のところで「歌が作れない、もう歌えない」という見出しがありました。そういう状態になったんですね。

中川:今言ったように60年代後半はメッセージソング、プロテスト・ソング、戦争反対、平和を願う歌を中心に歌っていたんです。それは自分のやりたいことだったし、そういう姿勢で社会派みたいに言われることもありました。でも個人的なこと、自分はどうなのか、自分は何をしているのかを歌うことは前には出さなかった。とにかく世の中の不正を告発したり、差別への問題提起を歌っていましたが、そこに自分がないというか、自分を歌っていないことに気づいて。偉そうなことを言っているお前はなんなんだ? という気持ちにどんどんなってきた。それで1970年に歌えなくなって、ちょうど1969年の終わりに「10月21日の夜に」という長い歌を作りました。

田家:国際反戦デーのことですよね。

中川:1969年の国際反戦デーで自分がデモにも参加できなくて、恋人と抱き合っていたという歌詞の歌なんですけども。そのあたりが僕の中で1つの終わりを見つけ、次の始まりの手がかりを掴もうとしていた時期でしたね。そして1970年に入るとちょっと歌えないなという状態になったんですよね。

田家:世の中は万博で一変しちゃいましたしね。その後、1976年に7年振りのアルバムが発売されるわけですが、そのアルバムのタイトル曲をお聴きいただきます、「25年目のおっぱい」。



25年目のおっぱい / 中川五郎

中川:周りを見ると1970年代に入ってフォーク・ソングが変わっていって、もちろん高石ともやさん、岡林信康さんとかの時代から乱暴な言い方をすれば吉田拓郎さんとかが出現して、井上陽水さん、かぐや姫とかフォーク・ソングがかなり違うものになって、呼び方もニューミュージックみたいになったりした。そうすると60年代のようなプロテスト・ソング、メッセージソングは時代遅れというか、「まだそんなの歌っているの?」って言われるようになって。みんながどういうことを歌うのかと言うと、ラブソングとかファミリーの歌なんです。僕もそれにはすごく共感したんですよね。自分たちの正直な暮らしを歌うことは素晴らしいし、背伸びをしたり頭でっかちにならなくても歌にできることじゃないかと思いました。でもまわりのニューミュージックを聴くと、妙に幸せだったり、あるいは妙に貧しさを美化してセンチメンタルな感じが多かったりして。そうではなくて実際の自分たちの暮らしをもっとリアルに歌いたいなと思いました。もちろんおっぱいを歌うことがリアルという短絡的なことではないんですが(笑)。

田家:そう、なんでおっぱいだったのかというのがとても重要ですよね。

中川:僕なりにプライベート、私生活、家庭、彼女との関係を歌うときの1つのキーワードとして「おっぱい」というのが1つのシンボルというか、自分の答えとして見つけたのかなという感じなんですよね。

田家:7年振りに発売されたアルバムが『25年目のおっぱい』で、その2年後に『また恋をしてしまったぼく』というアルバムが出ます。歌が作れないときと創作モードが変わったということでしょうか?

中川:そうですね。僕の中で私生活、夫婦関係、男女関係、子どもが産まれることとかが歌のテーマになったんですよ。なおかつ、1970年代に自分が20歳から30歳になり、パートナーを得て、子どもができてというプライベートの中で自分はひどい人間で、ひどいことをしていた(笑)。そういうことを正直に歌にしていた感じなんですけどね。

田家:そのときのことを本にお書きになっていまして、一緒に暮らしている女性との間にお子さんが産まれて、自分はフラフラと出歩いては飲んだくれてばかりで子育てにはほとんど協力しない、本当にひどい父親だったと思うというふうに(笑)。

中川:まさに本当にそうで、反省しなきゃいけないんですけどね。それを歌にすることで反省にはならないんですけども、でも正直に自分のひどいこととか、何をやっていたかは歌にしようと思った。それで割と歌ができてアルバムを作れたようなところがあって、反省ではないんですけどね(笑)。



三十歳の子供 / 中川五郎

田家:中川五郎さん29歳のときの曲ですね。この時期はあらためて今どう思われていますか?

中川:当時『DONT TRUST OVER THIRTY』という30歳になったら老人だぐらいの極端な考え方をしている人も多くて、僕も今のうちにやりたいことをもっとやりたいなと思いながらも全然できなくて、自分への叱咤激励というかね、お前どうするんだよって気持ちで歌っていたんです。

田家:1978年に『また恋をしてしまったぼく』というアルバムを出して、その後音楽からちょっと離れますね。

中川:1970年代の結構早い頃からアメリカの音楽の原稿とか、レコードの解説とか書く仕事を歌うことと同時進行でやっていて。1980年代に入って『BRUTUS』という当時すごく人気のあった雑誌にフリーで編集の手伝いができるということで、編集部に関わってみたら仕事がすごくおもしろいし、忙しくて歌への気持ちも離れていってしまった。今振り返ってみると、もともとがそういうチャラチャラした人間なので(笑)。

田家:本の6章の章タイトルというのが、「フォークから遠ざかってしまった15年間」ということで今お話になった平凡出版の『BRUTUS』を中心にして、出版社を中心にした生活のことが書かれていて。本の第8章「新たなるプロテスト・ソングへの険しい道」という章タイトルがあって、十数年振りに人前で歌うようになった以降の話が書かれております。1994年、片桐麻美さんに誘われて旭川で歌われたのがきっかけだったとか。

中川:歌うことを辞めていろいろな原稿を書いているときにたまたま片桐麻美さんという旭川出身のミュージシャンとすごく親しくなって、彼女に声をかけてもらいまたやろうという気持ちになりました。90年代半ばにまた歌い始めたときは自分がかつて歌っていたメッセージソングへの反省というか、60年代に自分が熱心にやりすぎていただけに、そうした歌とはちょっと距離を置いちゃうというか、同じようなかたちでは繰り返したくないという気持ちがあって、社会的な歌よりも個人的な歌を歌おうとする気持ちが強かったです。でも世の中がどんどんおかしくなっていって、少しもよくならない。政治のこととか社会のことを歌にして歌いたい気持ちが膨らんできたときに、以前はこういう問題がありますよということで歌を作ろうとしていたんですけど、あらためてプロテスト・ソング、メッセージソングをやろうとしたときは1人の人間から出発するというか、何か行動している人物が何を考えてどういう動きをしているかとか、そういうところから歌が膨らんでいけばいいなと思うようになって。暮らしの中からその人がこういう思いをしていて、こういう動きをしているみたいなことが歌えるといいなと思った。たぶん、もしかしたら聴く人によっては昔歌っているのと同じような歌を歌っているんじゃないかと言われてしまうかもしれないけど、僕の中では同じような戦争反対、差別反対の歌を歌っているとしてもちょっと違う形でできるようになったかななんていうそういう想いはあるんです。

田家:プロテスト・ソングということで本の中で次の曲について、いろいろお書きになっております。2017年1月に発売になったアルバム『どうぞ裸になって下さい』から「一台のリヤカーが立ち向かう」お聴きいただきます。



一台のリヤカーが立ち向かう / 中川五郎

田家:村松俊秀さんというお名前が出ていましたね。

中川:横須賀の駅前でたった1人で歌ったり、反戦運動をしていたリヤカーを引いていた友だちがいて、彼の行動に僕はすごく感銘を受けた。村松さんだけではなくて、日本中、世界中にたった1人で何かを始めてやっている人がいる。それは現在でも過去でも、これから先であってもそういう人が出てきて、その1人の動きによって世の中が変わっていくんじゃないかなという思いを抱いて作った歌なんですよね。

田家:英語のナレーションはどなたなんですか?

中川:このアルバムは沢知恵さんがプロデュースしてくださったんですけども、ナレーションと言ったら変ですが、1955年にアメリカでバス・ボイコット運動をして公民権運動の母と呼ばれるローザ・パークスの有名な言葉を沢さんが英語で言ってくれているんです。

田家:さっき話に出た私の歌、私歌ということとはちょっと違う歌の作り方になっていますもんね。

中川:そうですね。1950年代、60年代のアメリカのフォーク・ソングに学んで、自分の歌を作ろうとずっと奮闘してきた中で自分なりの独自のフォークが初めて作れたかなと思ったのがこの「一台のリヤカーが立ち向かう」なんです。それで到達と言ったら変だけど、アメリカのフォーク精神を吸収しながら日本の僕が自分なりの歌を作ろうとしているその位置にようやく辿り着けたかなという手応えを感じました。

田家:2017年の2枚組のアルバム『どうぞ裸になって下さい』はそういう到達点のアルバムでもあります。今日お聴きいただく最後の曲は「風に吹かれ続けている」です。



風に吹かれ続けている / 中川五郎

田家:本のタイトルが『ぼくが歌う場所 フォーク・ソングを追い求めて50年』。僕が歌う場所ということでお訊きするんですけど、年間まだ200本くらい歌っているんですか。

中川:数年前まではそれぐらいやっていたんですけども、2年前の新型コロナウイルスの感染が始まって、歌う場所がなくなって。それがちょうど僕自身が70代になる時期と重なっていて。もし新型コロナウイルスの感染拡大がなくても、今までみたいな歌い方、1カ月15回、20回日本中を歌って回るのはできないだろうと気づき始めていて。

田家:でもゴールデンウィークは1週間ぐらい大阪にいて、毎日歌ってらっしゃる?

中川:まあ、やっぱりね(笑)。変えようと思っても結局そうなるんですけども。

田家:ちなみに連休のスケジュールをお訊きしちゃっていいですか?

中川:4月28日から5月3日まで関西に行って、4月28日が大和高田のスカーフェイスというところで、4月29日が大阪新世界のL7(エルセブン)、4月30日が大阪の住道のクッカ、5月1日が大阪桃谷のマルコハウス、5月2日が江坂のぶんぶん堂、5月3日が大阪石橋の朝日楼と連続してやるんですけども。

田家:わーすごいなあ、体に気をつけて。

中川:これだけ連続してライブをやるのは久しぶりなんですけどね。コロナになってみんなが配信とか別の形で歌を伝えようというやり方を試みたりしている中であらためて思ったのは、僕が歌う場所というのは目の前に人がいる場所だなということにすごく気づかされたんですよね。自分はなぜ歌うかと言うと音楽が好きだからとか、いい歌を作ろうとか、上手く歌おうとかそういうことではなくて。目の前にいる人に想いを届けたい、言葉を届けたい、何かメッセージを届けたい、そして目の前にいる人たちからの反応を受け止めたいということで僕の歌が始まっていて、それは今も続いている。前に誰もいないところで歌うことはできないんですよね。だから、まさに僕が歌う場所は1人でもいいから目の前に聴く人がいてくれて、そういうところを毎日のように、今はもう無理だけど毎日のように回っていけるのが僕のやり方かなと思っています。

田家:歌い続けて下さい。ありがとうございました。

中川:ありがとうございます。


左から田家秀樹、中川五郎



田家:「J-POP LEGEND FORUM 最新音楽本特集2022」今週はパート2、2週目です。平凡社から発売になった中川五郎さんの本『ぼくが歌う場所 フォーク・ソングを追い求めて50年』をご紹介しました。ゲストは中川五郎さんでした。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。



中川五郎さんはシンガーソングライターであると同時に評論家でもあるわけで、毎日新聞で洋盤の紹介を五郎さんがお書きになって、邦盤の紹介を僕が書いているという関係なので親近感はとてもあります。日本のポップミュージックの中でシリアスなメッセージは敬遠される傾向がずっとありました。そういう堅い話はやめようよとか、それはポップにそぐわないんじゃないの? ということで避けられてきた。そういう中でフォーク・ソングはメジャーな商業的なところに乗らないような歌をずっと歌ってきた流れでもあったんだと思うんです。

オルタナティヴというものはメインで流行っているものとは違う、別の流れという意味もあるわけで日本のポップミュージックのオルタナティヴの源流はフォーク・ソングからずっと繋がっているのではないかと思います。音楽の素養がなくても誰もがギターを持って作る側に回ることができる。事務所とかレコード会社に頼らなくても自分が発信する側に回ることができる、活動することができる。それは60年代の終わりから70年代にかけてのフォークシンガーの人たちが見せてくれたことだと思います。そういういろいろな場面、時代の中での希望というのは誰もが無理だと思うこともひょっとしたらできるのではないかと思わせてくれる。そういうことを言うのだとしたら、フォークシンガーはやっぱり日本の音楽シーンの中の1つの希望だったんだと思います。そうやって始まった流れの中で中川五郎さんは未だにプロテスト・ソングを歌い続けている人として活動されているわけですね。連休の彼のスケジュールを見て驚きました。

コロナもそうですし、ウクライナの戦争が始まってから音楽にはどんな力があるんだろうとか、音楽は何のためにあるんだろうと考えるような場面が増えたりしているなと思ったりしているんですね。特にグラミー賞の授賞式に戦争当事国の大統領がメッセージを送る時代になっているわけですから、やっぱりどこかで今までとは違う音楽の在り方が模索されたり、60年代フォーク・ソングやプロテスト・ソングを歌ってきた人たちが1つの希望になったりする、またそんな場面が来るのかもしれません。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

OFFICIAL WEBSITE : https://cocolo.jp/
OFFICIAL Twitter :@fmcocolo765
OFFICIAL Facebook : @FMCOCOLO
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