The 1975、リナ・サワヤマ擁する「Dirty Hit」レーベルオーナーが明かす革命の裏側
Rolling Stone Japan / 2022年10月27日 17時30分
The 1975、リナ・サワヤマ、ビーバドゥービーなどを擁するDirty Hitが、世界有数のドリームチームになった背景とは? The 1975のマネージャーも務めるレーベルオーナー、ジェイミー・オボーン(Jamie Oborne)が成功までの道のりと「アーティスト・ファースト」の信条を語る。
「こういう取材を受けるといつも、自分が理想論ばかり語っているんじゃないかと不安になるけど、これは自分の経験に基づいた話なんだ」。ジェイミー・オボーンは取材の途中、穏やかな口調でそう語った。彼が世界でも指折りのインディレーベルを築き上げ、世界でもっとも誠実かつ大胆不敵なバンドのマネージャーを務めてこれた理由が、その一言からも伝わってきた。
失敗を恐れず、ステレオタイプにとらわれず、気高い志を掲げながら音楽シーンのルールを塗り替えてきたDirty Hitの物語は、ジェイミーが既存の産業構造に失望し、キャリアにおける失敗の反省を踏まえながら、あらゆるレーベルから見放されていたThe 1975の居場所をつくるところから始まった。アーティストの勇気と個性を尊び、理想主義的ともいえる運営方針を貫いてきた47歳のキーパーソンに、8月中旬のサマーソニック出演に向けた日本滞在中、東京のホテルで話を訊いた。
レーベルの歩みとレーベルカラーをおさらい
Dirty Hitは2009年12月、ジェイミー・オボーンとブライアン・スミス、元サッカー選手のウーゴ・エヒオグによって設立。英国No.1バンドとなったThe 1975、マーキュリー・プライズ受賞と全英チャート1位の両方を成し遂げたウルフ・アリスが成功の礎を築き、2010年代後半にはペイル・ウェーヴスなどの野心的ロック・アクトや、近年のベッドルーム・ポップ隆盛を先駆けたジャパニーズ・ハウスと契約。さらにここ数年は、共にアジア系のルーツを持つリナ・サワヤマやビーバドゥービーなど、人種・国籍からサウンドに至るまで多様性に富んだ新世代が台頭している。流通面では大手レコード会社の力も借りつつ、クリエイティブ面の主導権を掌握し、アーティストの個性を何よりも尊重。レーベルメイト間で積極的にコラボし合い、家族のような絆で結ばれていることも大きな特徴だろう。
Dirty Hit所属アーティストの楽曲をまとめたプレイリスト
Dirty Hitの設立前夜
―息子さんとこのホテル(パークハイアット東京)で『ロスト・イン・トランスレーション』ごっごしている光景をInstagramに投稿していましたが、彼はあなたの仕事をどんなふうに思っているみたいですか。
ジェイミー:普通ではない仕事をしているのはわかっているんじゃないかな(笑)。不思議なことに、息子は生まれながらにして音楽の才能がありながら、音楽に興味がなくて、サッカーをやっているほうが好きみたいだ。逆に、娘は私に似て、心の中ではミュージシャンで、音楽にかなり興味がある。
息子は日本のカルチャーが大好きで、僕が学校の夏休み中に日本へ行くことを知り、一緒に来たいと言ってきた。特にイギリスでは誰もが少年の頃、一度は日本に夢中になる時期がある。それこそ僕も12歳の頃、日本の文化に夢中だった。漫画やアニメもそうだし、侍や武士、空手といったものまで。どれも別世界のようでワクワクさせられるし、欧米人からすると遠く離れた、魔法のような場所に感じる。欧米とアジアはお互いの文化から影響し合っているところが面白いよね。
―Dirty Hitと日本の繋がりも深いですよね。The 1975のマシューは日本のカルチャーにも精通していますし、所属アーティストでいえばリナ・サワヤマ、最近はサヤ・グレイ(Saya Gray)も活躍しています。
ジェイミー:そうだね。でも意図してこうなったわけじゃない。僕らは自分たちが気に入ったアーティストと契約しているだけ。サヤ・グレイにしても、まずは彼女の音楽に惚れ込んだ。彼女が日本人とのミックスだということは後からついてきたものだ。リナもそう。初めて会った時、計り知れない才能を感じた。彼女が日本人であることはさほど重要ではなかった。レーベルとして誰と仕事をするかは、地理的条件より僕のテイストに合っているかどうかが何より重要だ。とはいえ、日本はいつだって僕たちに対して寛容だし、僕の音楽的テイストが日本人のテイストと似てるのかもしれないね。
カナダ人と日本人の両親を持つサヤ・グレイは、今年6月に1stアルバム『19 MATTERS』をリリース
―あなた自身は10代の頃、どんな音楽に夢中だったのでしょう?
ジェイミー:最初はおそらくパブリック・エネミーかな。他にも当時のヒップホップ・グループ、ステッツァソニックやRUN DMC、NWAなんかも好きだったよ。そこからDef Jamを知り、ビースティー・ボーイズにも結構ハマった。その後は方向転換して、スミスを長い間夢中で聴いていた。他にもキュアーとかもね。そして1989年頃になると、今度はストーン・ローゼズを発見して、ブリティッシュ・カルチャーがまた重要に思えてきた。彼らをきっかけにレイヴ・シーンが盛り上がり、僕もまだ若かったけどそこに関わるようになった。自分が一番影響を受けた作品はストーン・ローゼズの1stアルバムだ。
―もともと18歳〜22歳までミュージシャンとして活動したあと、アーティスト活動を断念して勉強し直し、2006年に「All On Red」というマネージメント会社を立ち上げたそうですね。当時の話を聞かせてください。
ジェイミー:実家を出たのが16歳くらいの時で、しばらくフラフラしていた。そこからバンドでプレイするようになり、レコード契約も果たした。特にパッとしなかったけどね。それから君が言ったように、勉強し直すことにした(哲学と現代イギリス文学を専攻)。大学を卒業してからは音楽に携わる仕事がしたかったけど、またアーティストとして活動するのは違う気がしたんだ。自分は控えめな性格だから、人から注目されるのはあまり好きじゃない。要するに向いてなかった。
それである日、友達と話をしていたとき、僕がいたバンドがどうしてうまくいかなかったのかと聞かれて、当時のマネージメントの話をした。彼らのやり方は、まず大勢のアーティストと契約したあと、何もせず様子を見て、何か芽が出るものがあったらそれをプッシュするというものだ。でも、あのときの僕らがほしかったのは、自分たちを育てつつサポートしてくれるようなマネージメントだった。
友達にもそう説明して、結果的にその夜、二人でマネージメント会社を立ち上げることにした。少数精鋭で、何よりアーティストを育てることを優先する会社にしようと決めた。アーティストの成長を助けるための投資をしようって。その数週間後にはアーティストを見つけて、メジャーレーベルと契約を取り付けた。正直、全てが手探りだったけどね(笑)。
―その時期にもヒットを出したそうですね。あなたが携わったUKバンド、ワン・ナイト・オンリーによる2008年の曲「Just For Tonight」が全英9位に。
ジェイミー:そうだったね。レコードの売り出し方のノウハウはわかっていなかったかもしれないけど、PRの重要性はわかっていた。誰も話題にしていなければ、誰の目にも止まらないというのは直感でわかっていたんだ。だから話題作りに力を入れたし、幸いなことに優れた曲を持つアーティストにも恵まれた。でも、これはメジャーレーベルでの話だ。このとき学んだのは、メジャーと契約する前と後では交わされる会話が全く違うということ。(契約後は)アーティストの展望やビジョンを自分たちで掌握できなくなってしまうと知った。なぜなら、金融畑でずっとキャリアを積んできた人たちが、アートについて判断を下す仕組みになっているから。金融とアートの世界では考え方がまるで違う。そんな経験から、UKのメジャーレーベルの仕組みに失望したんだ。
The 1975との邂逅
―2009年にDirty Hitを立ち上げたのも、そういう思いがあったからですか?
ジェイミー:うん。僕はその時点で2組のアーティストを抱えていて、その一つがThe 1975、もう一つがベンジャミン・フランシス・レフトウィッチだったんだけど、どちらも契約してくれるレーベルがいなくてね。
ベンジャミン・フランシス・レフトウィッチは、The 1975最新作『Being Funny in a Foreign Language』収録の「Oh Caroline」を共同作曲
―The 1975が契約獲得に苦労していたというのも、今では信じられない話です。
ジェイミー:いろんなレーベルが「ウチと契約しよう」と口頭で言っておきながら、最終的に手を引くことが続いて、マシューは精神的に参っていた。The 1975に関してはみんな戸惑っていたんだ。マシューは同じようなサウンドの曲を絶対に作りたがらなかったから。でも、僕はそれこそがバンドの個性だと思っていた。しかも彼らは当時、7インチのシングルを話題作りで自主制作していた。レコード契約に漕ぎ着けるためにね。そんなふうに、何もかもセルフプロデュースできるところも気に入っていた。彼らは初めから他人に口出しされることなく、自分たちの表現やビジョンをコントロールすることができていたわけだ。
―あなたは彼らと知り合った当初、「もっと大きなレーベルと契約すべきだ」と考えていたそうですね。
ジェイミー:僕のほうから(契約を)強要したことは一度もなかった。自分たちの手に負えるとは思ってなかったから。マシューの野心も知っていたし、彼のポテンシャルを発揮させてあげられるだけの予算も、まだ自分たちのレーベルにはなかった。でもある日、彼のほうから「Dirty Hitと契約できないか」と言ってきたので、そんなことは気にせず、自分たちでやるべきだと腹を括った。絶対に人の言いなりにはならないという二人の意地が優ったということだ(笑)。
The 1975、2010年のライブ映像(当時はDrive Like I Do名義)
―そんなふうにデビュー前からThe 1975のマネージャーを務め、彼らはDirty Hitの看板バンドであるわけですが、マネージャーとして、レーベルオーナーとして、自分がどんな貢献をしてきたと思いますか?
ジェイミー:それは彼らに聞いてもらったほうがいいかもしれない。僕はただ、マシューのビジョンに共感し、彼が大切なアーティストだと確信していた。そしてこれまでの経験から、それを守ってあげなければいけないという気持ちが強かった。だから僕は、彼のやりたいことを支えながら共に歩んできたんだ。
結果的に、彼らはDirty Hitの共同経営者となった。(2019年に)The 1975がDirty Hitと契約更新する段階になって、「彼らにレーベルの株を分ける以外の選択肢はないと思う」と自分の弁護士に話をしたのを覚えている。なぜなら、彼らはこれまで多大な貢献をしてくれたから。このレーベルは彼らを中心に大きくなったわけで、自分としても唯一納得できる、とるべき行動だった。もちろん、今でも過半数を所有しているのは僕だけど、バンドにも株主になってもらうことにしたんだ。
ビーバドゥービーとマシュー・ヒーリー。The 1975のマシューとジョージ・ダニエル(Dr)は、Dirty Hitの実質的なクリエイティブ・ディレクターを務め、スカウト活動や共作/プロデュースなどを通じて後進をフックアップしてきた。(Photo by Mike Marsland/BFC/Mike Marsland/Getty Images)
アーティストの冒険を尊ぶ姿勢
―The 1975がそうであるように、Dirty Hitの所属アーティストは自分たちが信じるクリエイティブを貫いている印象です。その勇気に対して、どんなサポートを心掛けていますか?
ジェイミー:レーベルやA&Rの人たちというのは、自分のやり方が90%正しく、アーティストが正しいのは10%だと考えがちだ。でも僕としては、9割方アーティストが正しくて、自分の貢献は残りの1割、彼らがやり易い方法を示してあげたり、環境を整えてあげたりすることだと思っている。これは当然、いいアーティストと仕事しているのが大前提の話だけどね。
僕がよく話すのは、レーベルとしてできることはたくさんあるし、優秀なスタッフも世界中にいるけど、レーベルがアーティストになることはできないということ。本物のアーティストさえいれば、僕たちも繁栄できるし、アーティストも成功できる。僕は自分をファシリテーターだと思っている。A&Rとマーケティングに本当に求められているのは、アーティストが掲げるビジョンを達成できるよう手助けしてあげることに尽きる。でもそこにはまず、アーティスト自身のビジョンが必要なんだ。
―Dirty Hitが求めているのはどんなアーティストでしょうか?
ジェイミー:まずは、僕がその人の音楽を気に入ること。あとは実際に会った時、その人のことを信じようと思えること。僕たちも時には判断を誤ることもある。「これはいけるぞ」と思ったのに、蓋を開けてみるとそうではなかった、というふうにね。だから方程式というのは存在しなくて、「運命的な出会い」としか言いようがない。
―いつもどうやってアーティストを探しているんですか?
ジェイミー:彼らのほうから僕たちを見つけてくれるんだよ(笑)。真面目な話、僕は世界で一番ダメなスカウトマンだ。毎晩ライブに足を運ばなければといけないとか、ネット上でバンドを探さないといけないとなったら、たぶんこの仕事を辞めるだろう。さっきも言ったように、「運命的な出会い」なんだよね。やるべきことをやっていれば、必ずチャンスは訪れる。それを見逃さないことだよ。それに僕らの場合は幸いにも、何組もの素晴らしいアーティストがすでに在籍していて、彼らの存在が他の素晴らしいアーティストを惹きつけてくれることもあるし、みんなレーベルのカルチャーを気に入ってくれているようにも思う。
この投稿をInstagramで見る Jamie Oborne(@jamieoborne)がシェアした投稿
―あなたのインスタのプロフィール欄に”Im a designer, unite pariahs.” (僕はデザイナー、はみ出し者は団結しよう)と書いてありました。The 1975の曲「I Like America & America Likes Me」からの一節ですよね。
ジェイミー:そうだね。これまで聴いてきた中で最高の歌詞だと思うし、心から共感している。自分たちはいつだってアウトサイダーだと思っているから。
―Dirty Hitにもぴったりの表現だと思いますが、アウトサイダーを集めたり支え合ったりするのは意識してきたことでしょうか?
ジェイミー:どうだろう、考えたことがなかったな……(考え込む)。でも、そうかもしれない。自分たちの美徳として、僕が好きなアーティストはみんな何かしらのアウトサイダーだ。それに、そういう才能はいつだって、社会の主流から取り残された人たちの代弁者として世に出てくるものだから。
―2010年代前半にThe 1975やウルフ・アリスがブレイクした頃、Dirty Hitは当時のUKロックシーンに新たな価値観を提示しているように映りました。それから2020年代に差し掛かるあたりで、リナ・サワヤマやビーバドゥービーなど、より多様なルーツやバックグラウンドをもつアーティストの活躍が目立つようになったと思います。この変遷については、どんなふうに捉えていますか。
ジェイミー:ビーバドゥービーに初めて会った時、彼女は16歳か17歳で、あまりの純粋さに「この子を守ってあげなければ」と思った。「Susie May」という曲を聴いて、非凡な才能に驚かされたし、プロダクションは初歩的だけど歌そのものは手が込んでいて美しく、絶対にこの子と仕事がしたいと確信した。彼女も他のレーベルに会うつもりはなく、僕と会う前からウチに決めていたみたいだ。不思議なもので、マシューと出会った時に感じたのと同じような縁を感じたのを覚えている。
リナが初めて僕のオフィスに来た時も同様だね。彼女の音楽を聴いて、計り知れない才能とパワーを感じたんだ。リナがいつも言ってるんだけど、彼女の曲「STFU!」を聴いて大笑いしたのは僕が初めてだったらしい(笑)。他のレコード会社の人間はみんな戸惑った反応をしたみたいだけど、僕はおもしろい曲だと思った。ポップスターがニューメタル風の曲を歌うんだからぶっ飛んでるよね。リナもきっと、僕には自分がやりたいことが通じると思ったんだろう。
こんなふうに、僕らは自分たちが気に入ったアーティスト、僕の魂に何かしら訴え掛けてくるものを持つ人たちと契約しているだけなんだ。だからこそ、これだけ幅広いラインナップになったんだと思う。ちなみに今は、新しいバンドと契約できたらと思っている。難しいのは承知しているよ。僕らはThe 1975とウルフ・アリスという、いまや世界最高のバンドになった2組を輩出してきたわけだから。もっとも、ウルフ・アリスはレーベルを離れてしまったけどね(メジャーのRCAに移籍)。この仕事をしてきて一番の後悔だ。
理想とビジネスは両立できる
―他のインタビューで、「僕らは音楽を売るのではなく、アイデンティティを売るというビジネスに携わっている」と話していたのが興味深かったです。
ジェイミー:ポピュラーカルチャーにおいて、僕が惹かれるのはアイデンティティの譲渡だ。自分もあんなふうになりたいとか、自分がもっと輝けるための刺激をもらえるというふうに、偉大な音楽作品というのは強い憧れを抱かせる。それはビジュアルについても同様で、日本にもかっこいいパンクスがいるけど、彼らはそのアイデンティティに惹かれているわけだよね。K-POPのグループもそうだし、音楽文化には欠かせない要素だと思う。
先日マシューとも話したんだけど、最高のアート作品というのは情熱を生みだすものだ。ポジティブな情熱にせよ、ネガティブな情熱にせよ。アーティストにとって最悪なのは関心すら持たれないこと。確固たる信念がなければアーティストではない、ただのミュージシャンだ。
―その話で言うと、The 1975には熱心なファンが大勢いますし、ピクセル(リナのファンダム名)もそうですよね。彼らは単なる消費者ではなく、アーティストとともに新たな価値観を創造し、社会を動かすコミュニティとしての役割も果たしているようにも思いますが、ポップカルチャーにおけるファンダムの力についてはどのようにお考えですか。
ジェイミー:物事のど真ん中にいると、客観的にそれを見るのが難しい。ファンが一丸となることで、カルチャーに影響を与え、変化や前進をもたらすことがあるのはわかっているつもりだ。ただ、自分にとって仕事はかなり身近なものだから、それが世の中にどれだけの影響を与えているのか考えると混乱してしまう。The 1975やリナのファンは発信力があり、積極的に行動し、忠誠心もある。そんな素晴らしいファンがいてくれて、アーティストは幸せだと思う……これで質問の答えになっているかな。
―例えば最近だと、The 1975がニューアルバムの情報解禁をするとき、ファンにポストカードを送っていましたが、そういったファンとのコミュニケーションについてはどのようにお考えでしょうか。
ジェイミー:ファンとの繋がりは凄く大切だ。また、僕たちはリアルに立ち返ることも大事だと思っている。今の時代は会話が全てデジタル上で行われている。だからポストカードは、僕たちは現実世界に住んでいることを思い出してもらうためのものでもある。最初にやった時は、アルバムを聴くのに最適なEQの設定を示したポストカードを送った。面白い試みだったよ。そういうファンとのコミュニケーションはとても大事だ。怖い面もあるけどね。
Who else got a @the1975 postcard today?!? Fancy using something as old-fashioned as POST for promo gear, I am already obsessed with this blue analogue era #The1975 @DirtyHit @jamieoborne pic.twitter.com/3a0AI7qBXd — Pea Kay Eff (@PeaKayEff) June 29, 2022
―Dirty Hit設立から今日までの間に、音楽ビジネスやプラットフォームのあり方も大きく変わってきましたが、そういう変化とはどのように向き合ってきましたか?
ジェイミー:僕がマネージメント会社を始めた当時、音楽ビジネスはどん底にあった。そこからの一大復活しか僕は経験していない。だから年々物事が前進し、変化し続けることは、僕にとって普通のことなんだ。
これは僕が成功する前の話だけど、コーダ・マーシャルというイギリス音楽業界のレジェンドがいて、僕の携わっていたバンドが彼のレーベルと契約していたから、アルバムのミキシング作業をする時、いつも彼が車で迎えに来てくれた。それでスタジオまでの道中によく話を聞かせてもらったんだけど、「もし私が君くらいの年齢だったら、デジタル著作権のことばかり考えていただろう。今は過小評価されているが、これからとんでもないことが起きる」と言われたとき、なぜかピンと来るものがあった。それが2007年のこと。コーダとの会話は、僕がレーベルを始める大きなきっかけになった。そんな出会いにも恵まれたりして、自分はつくづくラッキーだったと思う。
―以前、本誌US版のインタビューで、「従来のレコード契約の内容にずっと疑問を持っていた」と語っていましたが、具体的にどのようなことを感じていたのでしょう?
ジェイミー:初めて契約書を読んだ時、自分が読み間違えているんじゃないかとすら思った。アーティストはレコード会社が儲けたずっと後にしかお金が入ってこない仕組みになっている。それに、数字のつじつまがまるで合ってなかった。数学好きな僕にとって、数字は現実社会であやふやにされがちな真実を見極めるためのもの。ときどき数字のほうが、言葉よりもわかり易いとさえ思える。古代ギリシャ人は数学を「演繹的真実」と呼んだ。2+2は4にしかなり得ない。そういう数学的観点から見て、とにかく酷い契約だと思った。
だからDirty Hitを立ち上げた時、自分がマネージャーの立場から始めたというのもあり、アーティストがまず音楽を作って、レーベルがそこから先を請け負うわけだから、50:50であるべきだと思った。それも「印税」という考え方ではなく、「利益」を50:50で分配することにした。パートナーシップと思えるような契約にしたくて、それを実践したんだ。その試みは、15年前はかなり革命的だった(笑)。今では取り入れられるようにもなったけど、まだ当たり前になったわけじゃない。よくアーティストが配信で全然お金が入ってこないと愚痴っている記事を見かけたりするけど、それは不利な契約を交わしているだけ。彼らのマネージャーに「そもそも、なぜそんな不利な契約を交わしたんだ」と言いたいね。
―ただ一方で、アーティストにとっての成功は、セールスやフォロワーなどの数字だけで測れるものでもないですよね。あなた自身は彼らにとっての「成功」をどのように定義していますか。
ジェイミー:持続可能なキャリアを築くことが究極の成功だと思う。でもチャート1位になったり、アワードを受賞したりするのも嫌いじゃない。僕自身が負けず嫌いだから。成功というのは物質的なものだけでなく、個人がどう感じるかということでもある。そういう意味で「成功」というのは、アーティストが自分の作品を誇りに思えることなんじゃないかな。あとはカルチャーに何らかの影響を与えることができたら、おのずと成功に近づくはずだ。だから、僕からアーティストに言えることがあるとすれば、確固たる意思を持ち、自分が誇りに思える作品を作り、リアルな存在であり続けること。そうすれば結果はおのずとついてくる。それに尽きるね。
―レーベルオーナーとして、今後の目標を聞かせてください。
ジェイミー:今後もアーティストに投資し続けることかな。そうやって自分たちのカタログを充実させていき、より影響力のあるレーベルになること。そして、チームを世界中に拡充することで、第三者に頼らなくても自分たちでプロモーションができる体制を築くこと。Dirty Hitに関する僕の夢は、素晴らしい感性を持ったクリエイターたちのいる最高のインディレーベルでありながら、どのメジャーレーベルにも負けないマーケティング力を持つこと、そしてメジャーレーベルに取って代わる存在になることだ。その目標に向かって一歩ずつ前進していると思う。他のインディレーベルに対してもどかしく思うのは、野心の足りなさだ。僕は自分たちのアーティストを、可能な限り多くの人に知ってもらいたいと思っている。
―ペール・ウェーヴスに先日取材したとき、「私たちはインディではなく、オルタナティブなバンドでありたい」と話していたのを思い出しました。
ジェイミー:ヘザーは野心家だからね(笑)。
ペール・ウェーヴスは最新作『Unwanted』を携え、10月31日(月)大阪BIGCAT、11月1日(火)名古屋クラブクアトロ、11月2日(水)東京・恵比寿ガーデンホール、11月3日(木・祝)横浜ベイホールで来日公演を開催。
The 1975最新作のエピソード:『Get Back』とジャック・アントノフとの出会い
―今度はマネージャーとして、The 1975の最新作『Being Funny In A Foreign Language』の感想も話してもらえますか。
ジェイミー:これまでのアルバムと違って、よりライブ感がある作品になっていると思う。マシューは「聞き手が何かを目撃しているような作品にしたい」と常々話していた。僕ら二人とも、昨年末のクリスマス休暇中に観たドキュメンタリー『ザ・ビートルズ:Get Back』に大きな刺激を受けていて、彼はそこから「ライブ作品を作りたい」と言うようになったし、僕はあの作品で描かれている混沌としたバンドの様子が、The 1975によく似てると思った。その後、マシューと話す機会があり、「(ゲット・バック・セッションと同様に)みんなで一つの部屋に入ってレコーディングをしよう」という結論に至った(笑)。
それより少し前の昨年8月、ブリーチャーズの「Stop Making This Hurt」という曲をたまたま耳にした。正直に言うと、実はそれまでブリーチャーズの曲を聴いたことがなかった。ジャック・アントノフのことはもちろん知っていたし、ビーバドゥービーのプロデュースをお願いしたこともある。結局、スケジュールが合わなかったんだけどね。それで、ブリーチャーズの「Stop〜」をマシューに送ってみたんだ。「君が話していたサウンドって、こんな感じじゃない?」とね。モダンな音作りだけど、昔ながらのサウンドにも聴こえる。(筆者のTシャツを指差して)トーキング・ヘッズのようにね。マシューも同意してくれた。
この投稿をInstagramで見る Jamie Oborne(@jamieoborne)がシェアした投稿
ジェイミー:それで、ジャックとZoomで話すことになった。そこでジャックは、こちらから話を振るまでもなく、まさに僕たちが二人で話していたようなことを語り出した。彼はThe 1975のシーンにおける立ち位置を本能的に把握していて、とにかくいい話をすることができた。そのZoomを終えて、マシューとジョージ(・ダニエル)と僕は、「彼にプロデュースを頼もう」という結論に至った。ただ、なんせ彼らは外部の人と組んだことがないから、時間が経って冷静になったんだろう。その3日後、結局やりたくないということになった。
ということで、自分たちだけで作ることになったわけだけど、昨年11月にマシューとジョージは、アルバムの曲作りを終わらせるためにLAへ行くことにした。寒い冬を過ごしたくなかったのと、場所を変えて気分転換が必要だった。ここからがまた入り組んでいて、僕も彼らに会うために飛行機でLAに向かった。それで現地に着き、ホテルにチェックインして、彼らが泊まっている借家までUberで行くと、着くなりマシューに「今日、誰に会ってきたと思う?」と聞かれた。「誰?」と聞き返したらジャック・アントノフだった(笑)。彼らがLAに来ているのをジャックが知り、誰かからマシューの番号を突き止めて連絡してきたらしい。「スタジオに遊びに来ないか?」とジャックに誘われ、マシューとジョージはConway Recording Studiosに行くことにした。その日の夕方、僕が二人と会った頃には、ジャックと一緒にレコーディングしようと決めていた。だから僕は、その滞在中にジャックのマネージャーと会い、ビジネス面の折り合いをつけて正式に決定した。
つまり、実質5日間のLA滞在中に白紙のところから座組みができあがり、その後のクリスマス休暇中にマシューが『Get Back』を観て、みんなで同じ部屋に入って録ることになった……というのが、君の質問に対する長い答えだ。実際にアルバムは、4人が同じ部屋にいて音を鳴らしているサウンドに仕上がっているよ。
The 1975
『Being Funny in a Foreign Language』(邦題:外国語での言葉遊び)
2022年10月14日リリース
再生・購入:https://the1975.lnk.to/BFIAFL_JP
The 1975来日公演
神奈川 2023年4月26日(水)ぴあアリーナMM
神奈川 2023年4月27日(木)ぴあアリーナMM
愛知 2023年4月29日(土)Aichi Sky Expo(愛知県国際展示場)
大阪 2023年4月30日(日)大阪城ホール
詳細:https://www.creativeman.co.jp/artist/2023/04the1975/
リナ・サワヤマ
『Hold the Girl』
発売中
配信リンク:https://umj.lnk.to/RinaSawayama_HoldTheGirl
Rina Sawayama Hold The Girl Tour 2023
2023年1月17日(火)名古屋・ダイアモンドホール
2023年1月18日(水)大阪・Zepp Osaka Bayside
2023年1月20日(金)東京・東京ガーデンシアター
詳細:
https://www.livenation.co.jp/artist-rina-sawayama-1159943
https://www.creativeman.co.jp/event/rina-sawayama/
ビーバドゥービー
『Beatopia』
発売中
再生・購入:https://smarturl.it/5hd5rv
ペール・ウェーヴス
『Unwanted』
発売中
再生・購入:https://virginmusic.lnk.to/UnwantedCDMB
Pale Waves JAPAN TOUR 2022
2022年10月31日(月)BIGCAT
2022年11月1日(火)名古屋クラブクアトロ
2022年11月2日(水)恵比寿ガーデンホール
2022年11月3日(木・祝)横浜ベイホール
詳細:https://www.creativeman.co.jp/event/pale-waves22/
外部リンク
この記事に関連するニュース
-
Hippo Campusが語る、インディー・ロックの夢を受け継ぐバンドが歩んできた軌跡
Rolling Stone Japan / 2024年11月27日 17時30分
-
BMSG POSSE、全編3DCGで制作されたユーモアかつ斬新なMV公開
Rolling Stone Japan / 2024年11月22日 18時0分
-
BMSG POSSE、第2弾コラボアーティストはマニラ出身のNo Rome
Rolling Stone Japan / 2024年11月19日 23時48分
-
「影響を受けたものの存在を隠さずに表現する」Cody·Lee(李)が語る音楽ルーツとライフスタイル
Rolling Stone Japan / 2024年11月16日 12時0分
-
アーロン・パークスが明かす、ジャズの境界線を越えていくバンド「Little Big」の全容
Rolling Stone Japan / 2024年10月31日 17時30分
ランキング
-
1「無理に色気出さなくても」Adoが歌う『キャッツ・アイ』、“杏里世代”と大きく割れた評価
週刊女性PRIME / 2024年11月29日 11時30分
-
2脳梗塞から復帰「なすなかにし」那須晃行 後遺症の影響を明かす…「徹子の部屋」リポートでまさかの展開
スポーツ報知 / 2024年11月29日 14時30分
-
3石井竜也 元米米CLUB・ジュリアーノ勝又さんの死去伝える ALSで闘病1年…5月から介護施設に
スポニチアネックス / 2024年11月29日 8時30分
-
4《結婚は今世で12回目》竹内まりや・山下達郎夫妻の"魂レベル"の結びつきをさらに強くする「プラセボ効果」について心理士が解説
NEWSポストセブン / 2024年11月29日 7時15分
-
5中島みゆきが独占告白「本当に星になっちゃった。でも星は消えないですから」言葉の師と尊敬する谷川俊太郎さんとの別れ、多大な影響を受け大学の卒論テーマにも選択
NEWSポストセブン / 2024年11月29日 7時15分
記事ミッション中・・・
記事にリアクションする
記事ミッション中・・・
記事にリアクションする
エラーが発生しました
ページを再読み込みして
ください