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終末期の患者4000人の生に寄り添う 最愛のわが子も看取った緩和ケア医、関本雅子さん 一聞百見

産経ニュース / 2024年11月29日 14時0分

令和4年に亡くなった長男の剛さん(左)と。親子で緩和ケア医として邁進してきた(関本雅子さん提供)

「ホスピスって何?」。社会的認知度がまだ高いとはいえなかった30年前、末期がん患者らの残された時間と対峙(たいじ)し、その人らしい生き方をサポートする緩和ケア医としての道を歩み始めた。「明日はもうこの世にいないかもしれない患者さんやご家族とお話ししていると、一人一人の人生がどんなにかけがえのない、素晴らしいものなのかを教えていただけるのです」。これまで看取(みと)りに関わった患者数は4千人。同じく緩和ケア医だった長男をがんで亡くした当事者家族としての体験もある。

「父の死」に向き合って

神戸市灘区の閑静な住宅街の一角にあるクリニック。そこは生まれ育った実家があった場所でもある。両親と母方の祖父母に囲まれ、愛情たっぷりに育ったが、小児ぜんそくがひどく、虚弱体質だった。

幼稚園にはほとんど行けず、小学校では運動会にも出られなかった。「元気な子がヒーロー・ヒロインになる時代、劣等感も少しありましたね。おとなしく、内気な性格でした」。ぜんそくが苦しくて寝られないことも、呼吸が止まるようなこともあった。今思えば、この体験が医師という道を選ぶ動機のベースにあったのかもしれない。

一人娘だったが、「自立して生きていくには何か国家資格を取った方がいい」と親に勧められ、医学部を志した。ネパールをはじめアジア諸国で医療活動に従事した医師、岩村昇さんの講演を聴き、「素晴らしいな。こんな仕事をしてみたいな」と感銘を受けた。「でもね、成績はそんなに良くなかったんです。合格するなんて高校の担任の先生も思っていなかったみたい」と笑う。

自身の持病に加え、流産や死産を繰り返した母親の体験などもあって小児麻酔に興味を持ち、専門科は麻酔科を選んだ。身体の痛みに対応するペインクリニックの医師として神戸労災病院に勤務。腰痛症など慢性疾患の痛みを抱えた患者のほか、がん患者の相談にも乗るようになった。

「その頃は、ただ身体の痛みを取るということに専念していました。心のケアや呼吸苦など生活の質の維持には、正直どう対応していいか分からなかった」。末期がんなど完治する見込みが少ない病気にかかった患者に対して、無理な延命治療ではなく心身のケアをし、最期までその人らしい人生を送ることを目指すホスピス。1967(昭和42)年、イギリスで誕生したとされるが、当時、日本にはまだ浸透していなかった。

そのホスピスに人生をささげることになる原点には、「3人の死」に向き合ったという実体験がある。そのうちの一人が実父だ。

胃がんの手術を経て膵臓(すいぞう)にもがんが見つかり、手術をするかしないかという選択を迫られたタイミングで脳梗塞を起こした父。数カ月前に祖母を亡くしたばかり。母から「あなたは医者。できるだけお父さんを長生きさせてあげて」と懇願された。

「母にとっては自分の母と夫を立て続けに失うことになる。そう願うのも無理はありませんよね」。 家族にとって「一分一秒でも長く生きてほしい」というのは自然な願いだ。点滴で栄養を入れ、人工呼吸器をつなぎ、「全身管だらけ」で亡くなった。

心停止した父に馬乗りになって心臓マッサージをしながら考えていた。「父は本当にこういう治療を望んでいたんだろうか。嫌がってるやろうな…」。もし自分に意識がなくなったときはどうしてほしいか。生前に父の希望は聞けていない。39歳の時の体験だった。

日々の営み そのままで尊い

末期がんなど完治の見込みが望めない患者らに寄り添い、無理な延命治療ではなく、身体の痛みはもちろん心のケアにも向き合い、その人らしい生活の質を維持することに全力を注ぐ。

人生の最期に直面した患者本人の不安、遺(のこ)される家族の悲嘆…。「身体の痛みというのは、患者さんにとってほんの一部なんです。たくさんの苦しみを抱えながらも、残された日々をどう生きていきたいか。患者さんたちの思いに寄り添えたら」。本格的にホスピスの勉強を始めたのは、実父を亡くした後だった。

その4年前、上司の医師をがんで亡くした経験も忘れられない。医療現場で働く者同士。CTの画像や血液検査の結果などを見ればすぐに「自分はがんだ」ということに気付いてしまう。そのため、健康な人のデータに全て差し替え、本人に見せ続けた。「本人も医者ですよ。それでも病名告知すらされない時代だったんです。少しずつ弱ってくるし、黄疸(おうだん)も出るし、本当につらかった」と振り返る。

「私だったら嫌だ。自分の身体のことは自分で知り、どうするかを自分で決めたい」

最期に直面したとき、人は何を思うか。どうしたいのか。30歳ごろの経験が脳裏に焼き付いている。

近所のキリスト教会の牧師がスキルス胃がんになり、いよいよというとき、「最後の説教」が行われた。日頃はガランとしている礼拝堂がその日は超満員。大勢の人たちが集まったことに感謝しつつも、牧師は「毎回心をこめて説教をしてきました。今日も特別ではなく、普段と何ら変わりません」。はっとした。人の日々の営みは、そのままで尊いのだ。

緩和ケアの勉強会や研究会に通っていると、六甲病院(神戸市灘区)に新しく開設予定の緩和ケア病棟(ホスピス)に医長として来ないかと声がかかった。「まだまだ学ばなくてはならないことが山積みでした」。自費で海外のホスピスを見学したり、日本のホスピスの草分けである淀川キリスト教病院(大阪市東淀川区)で研修を受けたり。平成6年、全国で16番目となる緩和ケア病棟の医長に就任した。

当時はまだ、「緩和ケア」や「ホスピス」という言葉には「もう最期なんだな」などとネガティブなイメージが強くあった。人生の完成期の患者に寄り添う医療の重要性が広く浸透するのは、もう少し後のことだ。

長男の遺志を胸に

六甲病院の緩和ケア病棟(ホスピス)の医長として患者とふれ合う中、在宅ケアの重要性を考えるようになっていく。

体調がかなり悪い状態でも「自宅に帰りたい」と希望する入院患者は多い。「自宅へ伺うと、病室では見えなかった生活が見えるんです」。病気そのものを治療する医療機関と、緩和ケア病棟、在宅ケア。この中から患者が受けたい医療を自分で選択できるのが理想だ。

在宅ケアのクリニックは当時、周辺にほとんどなかった。「その人らしさ」を支えたい。在宅希望者の受け皿を自分で作ればいいのではないか。そう考え、平成13年、自宅を建て替えて在宅ホスピスの「関本クリニック」を開院。その後、同じく緩和ケア医の長男、剛さんに院長を引き継いだ。

この30年で約4千人の患者の看取(みと)りに関わってきた。

末期の膵臓(すいぞう)がんで入院してきた60代の男性は、「これからどう過ごしたいですか?」との問いに「大好きなネパールに家族と行きたい」と答えた。妻と娘との旅行をかなえた1カ月半後、ネパールの写真に囲まれた病室で最期を迎えた。ベージュのスーツと帽子を身にまとって送られる男性を囲み、悲しみの中で撮った最後の写真に写る家族は、全員笑顔だった。

29歳の子宮がんの女性は、子宮摘出と同時に夫と話し合って離婚。再発後は耐えがたい身体の苦痛に襲われた。そんな彼女が、悲しみに暮れるであろう家族に宛て、一通の手紙を残していた。「幸福に満ちあふれた毎日でした。みなさんありがとう」

残された日々をどう生きるか。大事な人たちに何を残すか。患者一人一人の生きようをしっかりと覚えている。「たくさんの人生に寄り添える素晴らしい体験です」。だが、わが子をがんで看取ることになるとは想像もしていなかった。

母の背中を見ていた剛さんは、追うように緩和ケア医になった。消化器がんの抗がん剤治療を学び、「治療」も「緩和」もできる医師として日々邁進(まいしん)していた令和元年、肺がんが見つかった。転移は脳に10カ所。分子標的薬を使っても余命は2年との宣告を受けた。

「たくさんの患者さんを診てきただけに、息子の最期もイメージできる。予期悲嘆が強かった」。だが剛さんは、ギリギリまで仕事をしたい、患者さんと関わっていきたい、と希望した。「楽しいことをたくさん考えたい」「後ろは振り向かない」。残された時間をいかに楽しく過ごし、やりたいことを成し遂げるかに集中し、末期がん患者としての自身の経験をも踏まえながら、患者たちに向き合い続けた。

2年半が過ぎた頃、脳転移が広がり、放射線治療を受けた後に「植物状態」になった。もうお別れか、と覚悟したが、最後のチャンスで脳圧を下げる手術を受けた。意識は戻り、「話もちゃんとできるし、車いすに乗ってお花見もできたし、おいしいものも食べられた」。亡くなるまでの20日間は「宝物のような時間」だった。無理な延命治療はしないホスピスだが、日常生活を期待できるのなら末期でも手術などの選択があってもいい、と今は考えることができる。

剛さんは45歳で他界。生前に撮影したビデオメッセージには「また会いましょうね」とほほえみながら手を振る姿が残されている。最後まで診察のほか、講演やシンポジウムを引き受けた剛さんの遺志を継ぎ、緩和ケアの普及啓発活動も続けている。

「剛に『やれよ』って言われている気がするんです。与えられた大切な一日、やりたいことを心を込めてやっていくのみ」

死を見つめることは、今ある命を見つめること。がんであろうとなかろうと、病気であってもなくても、すべての人が限りある時間を生きている。(田野陽子)

せきもと・まさこ 昭和24年、神戸市生まれ。神戸女学院高等部を経て、昭和49年、神戸大学医学部を卒業。麻酔科医として、神戸大学付属病院、神戸労災病院などで約20年間勤務した後、平成6年、六甲病院に全国で16番目となる緩和ケア病棟(ホスピス)を立ち上げた。医長を務め、平成13年には実家を建て替え、在宅緩和ケアを主とする「関本クリニック」を開院。現在は、「かえでホームケアクリニック」顧問を務めている。

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