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没後300年 尼崎の人たちに愛され続けた「東洋のシェークスピア」 近松はん アマ物語

産経ニュース / 2024年8月19日 10時30分

近松門左衛門は江戸時代を代表する浄瑠璃、歌舞伎作家である。元は福井の武士で浪人して京都や大坂に移住し、作家になったことはよく知られている。だが、その近松のお墓が尼崎市久々知の広済寺にあるのはあまり知られていない。いったい近松と「尼崎」はどんな関係にあったのだろう。JR塚口駅近く、近松ゆかりの施設が集積する「近松の里」にある近松記念館を訪ねると、もうすぐ80歳になるという前田喜久雄前館長と佐野吉広館長が笑顔で出迎えてくれた。

近松記念館は四季折々の景観が美しい近松公園の中にある。玄関前では、近松の座像が訪れた人を出迎えてくれる。資料室には過去帳や愛用の文机、手紙など近松ゆかりの資料約100点が展示されており、団体の閲覧には「語り部さん」がつくという。今回は現館長と前館長のお出ましだ。

「ここを管理している私らはみな、地元のモンなんです。私はすぐ近くの下坂部小学校出身。前田さんはお隣の広済寺の檀家さん。みんな子供のころからこの辺で遊んで育ったんです。だからここを守るのは私らの務めですわ」と佐野館長は笑った。

お2人とも仕事を定年退職。もうすぐ80歳という。近松はんは地元の人たちに愛されているんやなぁ。そういえば4月に封切りされた尼崎を舞台にした映画『あまろっく』の主人公家族の苗字も「近松」になっていた。

寺の再興に尽力

さて、近松さんと「尼崎」との関係だが、今度は前田前館長が答えた。「近松さんと広済寺を再興しはった日昌上人とがお知り合いだった。再興するためにはお金がいる。そこで有名作家の近松さんがお金集めにひと肌脱ぎはったんですな」。なんとも分かりやすい説明だ。

宝永3(1706)年、京都から大坂へ移住した近松は頻繁に船問屋「尼崎屋」へ出入りしたという。主人の吉右衛門や船頭、そこに泊まっている商人やお侍から諸国の話を聞いては作品に生かしていた。その「尼崎屋」の次男坊が奈良のお寺で修行を積んだ後の日昌上人。

同じ次男という境遇が2人を引き付けたのかもしれない。正徳4(1714)年、故郷の尼崎で廃寺同然になっていた広済寺の再興を目指した日昌上人に、近松は建立本願人となって尽力。お寺の裏に庵を建て執筆活動もしていた―といわれている。

「そういうご縁です。ほな、お墓をご紹介しましょか」。2人に連れられてお隣の広済寺へ。境内に入ると佐野館長が懐かしそうにこういった。

「私らが子供のころ、この境内にゴザを敷いて、毎年の『大近松祭』を見たもんです」

――へぇ、そんなころから人形浄瑠璃を?

「いやいや、浄瑠璃なんて子供にはむつかしい。私らが楽しみにしていたのは漫才や落語。そうそう、ミヤコ蝶々さんと、南都雄二さんのサインが記念館にありますよ。でも、年を取ると浄瑠璃の良さがわかります。ええもんですな」と佐野館長。昭和11年から始まった「大近松祭」は現在も近松の命日(11月22日)に近い日曜日に行われている。

「去年、没後300年祭をやりましたやろ。あれは〝数え年〟での祭り。今年は〝満〟で300年祭をやろうと計画してるんです」。館長と前館長は子供のように目を輝かせた。

「曽根崎心中」

主人公は徳兵衛、25歳。叔父の営む醤油屋「平野屋」の手代。楽しみは堂島新地のお茶屋通い。「天満屋」の遊女・お初と恋仲になっていた。いつかは身請けして結婚したい…。

だが、叔父さんがひそかに自分の娘との縁談を進め、徳兵衛の母親(継母)に結納金まで渡していた。徳兵衛は当然、断った。叔父は許さない。ついには「勘当だ! これまで養った金も返せ。この店からも出ていけ!」。徳兵衛は実家に戻り、母親から結納金を受け取り大坂へ戻ってきた。そこに親友の油屋九平次が深刻な顔で待っていた。

「3日で必ず返すから、お金を貸してくれ」。徳兵衛は貸した。だが、3日たっても返さない。証文を手に店に行くと「その証文の判子は以前、盗まれたもの。お前は盗人だ。詐欺師だ」と往来でボコボコに殴られる。叔父さんに返す金もなく、恥辱にまみれた徳兵衛は「死んで身の潔白を…」と心に決める。が、その前にひと目、お初に会いたい。天満屋で覚悟を語った徳兵衛。お初も「この世で添い遂げられぬのなら、あの世で」と、2人は夜中に曽根崎の天神の森へ、冥土への道行きとなるのでした。

《この世のなごり 夜もなごり 死ににゆく身をたとふれば 仇しが原の 道の霜

 ひと足づつに きえてゆく 夢の夢こそ あはれなれ》

「曽根崎心中」は元禄16年4月7日、露天神社(つゆのてんじんしゃ、大阪市北区曽根崎)境内で実際に起こった事件をもとに、近松が書き下ろした初めての「世話物」。露天神社は以降「お初天神」と呼ばれ、現在も恋の成就を願う恋人たちの聖地となっている。(田所龍一)

近松さんのお墓は現在3か所

広済寺のほか、大阪市中央区の法妙寺にもあった。どちらも国指定史跡となっている。だが、法妙寺が昭和42年に地下鉄谷町線の工事のため大阪府大東市に移転。お墓だけがお寺跡にひっそりと残っている。移転した法妙寺は複製した墓を設置した。

近松門左衛門 江戸時代に活躍した劇作家。東洋の「シェークスピア」とも呼ばれる。武士の家に生まれたが、20代で芝居の世界に飛び込んだ。大坂で発展した町人社会が舞台の「世話物」など、庶民が主人公という芝居は当時珍しく話題を呼んだ。

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