【静岡古城をゆく・北条五代の史跡】早雲の出自(岡山県井原市) “戦国幕開け”の高越山城

産経ニュース / 2018年1月14日 10時52分

北条早雲(伊勢宗瑞)画像(岡山県井原市・法泉寺蔵)

 戦国時代の関東覇者で、小田原に本拠を置いた北条氏五代100年の祖である北条早雲の出自は、伊勢の一介の素浪人から戦国大名となった下剋上の始まりで、戦国時代の幕開けとなった人物とされている。

 近年の追究で、室町幕府の政所執事伊勢家の庶流で、父・盛定は備中国荏原荘(岡山県井原市)の備中高越山城主である。早雲も室町幕府(足利義視)の申次衆(将軍への取り次ぎ)に抜擢されている。政所執事とは、幕府の徴税責任者である。

 ところで早雲は生涯、北条早雲とは名乗ってはいない。実名は「伊勢新九郎盛時」といい、嫡子の氏綱は相模国の支配者であった管領・上杉氏に対抗するため、名高い鎌倉幕府執権、北条氏の後裔であることを主張し、2代目から「北条」と改名することになる。よって新九郎は「北条早雲」の俗称があてられ、先学では法名の「伊勢宗瑞(そうずい)」と表記することが多い。それでも以後、一般的な呼称のため「北条早雲」を用いる。

 早雲と今川義忠との関係は、京都において応仁の乱(1467〜77年)が勃発する時期、優柔不断な8代将軍、義政の弟・義視が将軍候補に迎えられたが、京が動乱の中、将軍の花の御所(室町亭)を警護したのが今川勢を率いる駿河守護の義忠であった。

 このとき、危険が迫った義視と近習の早雲は伊勢に逃れている。2年後、義視は京へ戻っているが、早雲の足取りが不明だったこともあり、伊勢の素浪人説の契機になったといわれる。

 この乱期に、幕府内での地位が高かった早雲の父の影響もあり、妹(姉の説もあり)が文明元(1469)年に義忠の正室として嫁ぎ北川殿といわれた。今川氏と姻戚を深めた早雲と四代北条氏にわたり、今年はその史跡を訪ねる。(静岡古城研究会会長 水野茂)

産経ニュース

トピックスRSS

ランキング