負傷兵看護、空襲、原爆…死線くぐった96歳女性

産経ニュース / 2019年8月15日 11時22分

「終戦から74年」 元従軍看護師の小北英子さん=8日午後、京都府長岡京市 (安元雄太撮影)

 母を呼びながら息絶える兵士たちの姿が、終戦から74年となった今も忘れられない。先の大戦で、西太平洋のパラオで負傷兵の看護にあたった小北英子さん(96)=京都府長岡京市。内地に引き揚げてからは空襲や長崎の原爆にも遭遇した。「戦争体験は、自分が生きてきた証」。自らの使命をかみしめながら、「あの時代」を次世代に語り継ぐ。

 海とサンゴ礁が美しく、ダイビングスポットとして人気が高いパラオ諸島。小北さんは昭和16年12月、この地で日米開戦を迎えた。

 沖縄で生まれ、女学校を卒業後、東京の専門学校に通った。16年9月に両親が移住していたパラオに渡り、日本の委任統治領だったパラオや北マリアナ諸島などを管轄する南洋庁に勤務。戦争とは無縁の生活で「日本は勝つ、神風が吹く」と信じていた。

 しかし18年4月、連合艦隊を率いた山本五十六の死を知り、「米国は強いんだ、と初めて思った」。戦局が悪化し、パラオにも負傷兵が運び込まれるようになった。19年3月、小北さんらは看護を命じられた。

 そこは、病院とは名ばかりの場所だった。薬もベッドも足りず、地面にヤシの葉を敷き、無数の負傷兵が寝かされていた。腕がない兵士の傷口から竹のピンセットでウジ虫を取り除き、麻酔なしの手術に立ち会った。泣き叫ぶ兵士を「それでも軍人か」と軍医が殴りつける。

 渇きを訴える兵士に、水を与えることも許されなかった。「水を飲ませたら死ぬから」という理由だった。「それでも兵隊さんは『水が飲みたい』と。そして、死ぬときはみんな『お母さん』って呼ぶんです」

 胸が締め付けられるような光景に接する一方で、自らは命じられたら自決する覚悟があった。当時、国のために死ぬことは当たり前とされていた。

 19年5月、最後の引き揚げ船に乗ったが、12隻の船団は敵軍の魚雷攻撃で、1隻、また1隻と沈んでいく。航海が、何日続いたのか記憶にない。横須賀港に着いたのは、わずか4隻。船内で「パラオで見聞きしたことは口にしてはならない。憲兵が見張っている」と脅された。記憶を封印し、東京で働き始めた。

 しかし本土にも戦火が迫る。空襲で焼け出され、母が疎開していた熊本県八代市(やつしろし)に移った8月9日、敵機を確認しに上った火の見やぐらで、内臓が吹き飛んだかと思うほどの強い爆風を受けた。海を隔てて見通せるはずの長崎方面が、厚い雲に覆われていた。

 迎えた終戦。故郷の沖縄は戦禍で荒れ果て、父はパラオに残ったままだった。「この先、生きられるのか」と何度も不安がよぎるなか、激動の戦後を必死で生きた。闇市で米を売り、菓子の仲卸しを軌道に乗せたが、水俣病にかかった。右手は今も不自由だ。関西に移り、2人の子を育てたが、戦争の記憶は一度も口にしなかった。「思い出すことへの恐怖心と、話してはいけないことだとも思っていた」

 約20年前、被爆地・広島で、語り部の話を聴いたことが転機となった。あの戦争で多くの人が命を落としたなか、自分はまだ生きている。「話さなければ…」。知人にも背中を押され、初めて口を開いた。

 90歳を超え、体力の衰えも感じるが、「誰かが話さないと、戦争がどういうものかわからなくなる」と、各地で講演を続ける。「機会をもらえるなら、寝たきりになっても話したい」。あの大戦を、命ある限り、語り続ける。覚悟を胸に、74回目の終戦の日を迎えた。(鈴木俊輔)

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