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話題の映画『教育と愛国』に収まりきらなかった、歴史教科書検定の知られざる裏側

集英社オンライン / 2022年6月1日 18時1分

政治と教育の関係を問うドキュメンタリー映画『教育と愛国』が、この5月から全国公開され、異例のヒットとなっている。監督の斉加尚代氏は、大阪・毎日放送(MBS)の名物ディレクターとして知られ、20年以上にわたり教育現場を取材してきた。そんな斉加氏の著書『何が記者を殺すのか 大阪発ドキュメンタリーの現場から』(集英社新書)より、映画に収まりきらなかった教科書検定にまつわるエピソードを一部抜粋、再構成して紹介する。

編集や校閲として検定を利用するケースも

取材を断られ続けて待ち受けていたのは、とにかく厚い壁だった……。

『教育と愛国』が2022年5月に劇場公開されることが決まりました。映画化を実現するまでの道のりは、ひとつひとつ壁を突破する苦しい闘いでした。



取材を申し入れても受けてもらえない、取材拒否がずっと続きます。たとえば、教科書検定制度の内実を詳しく伝える上で、検定意見の原案を作成する教科書調査官をインタビューしたいと考えました。

書籍や論文を発表している大学研究者の元調査官に次々手紙を送って交渉を試みるも、誰も応じてくれません。インタビューに協力することがこんなにハードルが高いのかとため息が出ますが、教科書調査官を槍玉にあげ、個人攻撃する月刊誌などを目にしても感じるように、慎重にならざるを得ない政治圧力が充満している証左なのでしょう。

他にも検定合格後の教科書が印刷されている場面を撮影したいと考え、大手印刷会社に企画書を送り続けます。日本の教科書は、軽くて薄い用紙に表裏の文字や写真が透けないよう優れた印刷技術で作られています。しかし、「発行元である教科書会社の了解が得られない」「コロナ禍で応じられない」と断られ続け、諦めるしかありませんでした。

教科書の中身には一切触れない撮影なのに、取材を受けるその行為自体が「中立性を疑われる」「宣伝だと思われたら目をつけられる」と教科書会社関係者は難色を示します。同調圧力によって身動きが取れなくなっているとしたら、心配でなりません。企画書を送って交渉してはしばらくして断られる、その繰り返しが続く中で、さすがの私も気が滅入りました。

しかし、そうした中でも少しずつ得た情報に、へえーと驚くものがいくつかありました。

出版労連や教科書編集者側への取材でイメージする教科書調査官は、「検定意見」つまり行政処分を突きつけて過剰な忖度に追い込んでゆく威圧的な人物像に感じられます。

ですが、実際はそうとばかりも言えず、調査官自身が専門性に依拠し、編集者と粘り強く意見交換したり助言したりするケースもあるようです。学術的に質の高い教科書を作り上げる上で当然のプロセスですが、こうした大切なことが伝えられず、私たちには見えてきません。

また、文科省は教科用図書検定調査審議会の報告書で次のように指摘します。

「近年、教科書として求められる水準に遠く及ばない図書が申請され、教科書の編集や校閲といった、本来発行者が注意深く行うべき部分について、実際上、検定が本来の趣旨から離れて利用されているような事態が生じている」

教科については特定していませんが、たぶん歴史がそのひとつでしょう。歴史は、史料に基づいて書かれるものですが、日本史担当の元調査官への取材によれば、発行元の編集者に記述の根拠を求めたところ、歴史小説や絵本を示してきたケースがあったというのです。これには驚きました。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』もそのひとつだとか。

絵本は『きゅーはくの絵本 海のむこうのずっとむこう』で、図書館で探して読みましたが、江戸時代の絵巻物にフィクションの会話を貼り付けている子ども向けの本です。さすがにこれには調査官も困惑するだろうと想像できます。

学術的知見に基づく教科書が、うっかりすると学術から逸れてしまう恐れがある、その典型例のひとつと言えます。インタビューが撮れないために、こうした貴重なエピソードが盛り込めなかったことが残念でなりません。

文科省がインタビューを許可した理由

番組制作はいつも、山あり、谷あり。映画ではさらに険しい谷と山の連続でした。すでにテレビ版が存在し、キャンバスに半分ほどの絵が描かれてしまっている。

ふだんなら取材を進めるにしたがって新たな発見や驚きを軸として全体をまとめあげてゆくという手法をとる私には、前作の作品性を踏襲するという課題も、ひとつの大きな足かせに感じられ、重荷でした。

真っ白で残っているパズルのピースを埋めようとしても取材拒否の壁にぶつかり、思うように前へ進めない。閉塞する心理状態を切り抜けてゆくことにエネルギーを費やし、スリリングな状況でもあったと思います。

けれども気づけば、歴史教科書への新たな政治介入が作品の骨格を作ることになります。生きもののようなドキュメンタリーの現場にふさわしい展開です。

当初の構想にはなかった「従軍慰安婦」「強制連行」という教科書にある用語を書き換えさせる政治的動きが起きて、新聞も一部が報じました。詳しい内容は、映画で見ていただくとして、この記述変更の中身が明らかになった2021年9月初旬、文科省教科書課に正式にインタビューを申し入れました。

このインタビューが撮れるかどうかは終盤で直面したクライマックス、緊張が続く局面でした。 窓口である教科書検定第一係長を介して交渉を試みますが、「多忙を極めて受けられない」「文書で回答する」の一点張り。何度もメールや電話でやりとりしました。

確かに通常の検定作業に加え、政治的動きに対応して業務負担が増え、国会召集もあり、極めて忙しかったのでしょう。活字メディアであれば文書回答であっても影響は小さいかもしれませんが、映像メディアの場合は致命的で、諦めるわけにはいきません。

取材申し込みから1か月余りが経過しようとした時、文書回答で対応するという姿勢を貫く教科書課に対し、質問項目を列挙した文書とともに変化球を投げる気持ちで別紙を送ります。その別紙で文部審議官か初等中等教育局長にあらためてインタビューを申し込みたいと強く要請した上、次のように付記しました。

「なお、外務省の元事務次官 杉山晋輔様に教科書と外交についてインタビューをご快諾いただき、すでにインタビューを終えております。ドキュメンタリー作品の全体のバランス上、貴省にもインタビューをお受けいただきたく再度お願い申し上げます」

教科書がテーマなのに、外務官僚が出演して文部官僚が何も語らないというのは、あまりにおかしいと訴えたのです。

するとしばらくして、神山弘教科書課長がインタビューを受けると返事がありました。この時は、目の前の壁をひとつ突破したように思え、ずっと悩まされてきたひどい肩凝りが少しマシになったように感じたのでした(その後も肩凝りは続きますが……)。

教育の独立性は保たれるのか

重要に思えたけれど、映画に入らなかったインタビューをここに紹介します。教育行政に関する理念の本質に関することです。

1947年に制定された教育基本法は、第一次安倍政権下の2006年に見直された時、教育行政の不偏不党性を謳った条文の一部が改変されます。それでも条文には旧法の「不当な支配に服することなく」という文言が残っています。

そこで次のように私は質問を投げかけたのです。

「『不当な支配に服することなく』と教育基本法に明示されている「教育の独立性」について、なぜ、この条文が存在しているかについて、歴史的経緯を踏まえ、お考えをお聞かせください」

神山教科書課長は、手元に用意していた紙に目をやりながら、すらすらと答えました。

「『教育は、不当な支配に服することなく』 の趣旨は、その教育が国民全体の意思とは言えない一部の勢力に不当に介入されることを排除して、そして教育の中立性ですとか、不偏不党性を求めると、そういった趣旨の規定だというふうに認識しております。

いっぽうで、平成8年に教育基本法が改正されて、その中で、条文が少し追加をされて、その教育において『法律の定めるところにより行われるべき』ということが新たに規定をされた内容だと承知しております。

結果その条文で国会において制定される法律の定めるところにより行われる教育が、不当な支配に服するものではないということは明確になったというふうに思っておりまして、教科書の検定基準といった法令に基づいて、教科書の検定をさせていただくということが、教育の基本法の理念に基づいた教科書が子どもたちの手に届くようにすることの一翼を担っているんじゃなかろうかと思ってございます」

つまり、法律に則ってさえいれば、不当な支配にはならない、と微妙に論点をずらしながら、そう明確に回答したのでした。

戦前の反省を踏まえ、本来教育のあるべき姿は、政治からの独立という民主的社会の普遍的価値観に従って、戦後に教育委員会制度が設けられました。ところが、そこから権力側が都合よく教育基本法や教育行政の関連法などを変えていったわけです。

これら歴史的経緯をすべてスルーして、安倍政権が主張してきた通りに回答する官僚の姿に、私はショックを受けます。学会では解釈が割れているのではないでしょうか。教育において侵してはいけない普遍的な価値が、時の政府によって歪められ、多数決によって決まる法律で教育行政や教育の中身が歪められる恐れはないのでしょうか?

その答えは、過去も現在もそして未来も、「ある」でしょう。全体主義国家であっても法律の定めるところにより教育を行ってきたはずです。子どもたちを戦地へ送り出し、自己犠牲を強いた戦前の日本の学校教育だって法律に従ってのことです。

「政府の代理人」となった国民学校は「鬼畜米英」という言葉を、現在の「みんな仲良く」と同じようにスローガンとして教室に掲げました。先生たちの多くは国家つまりお上を見ていたのです。でもその姿は、当時の決まりごとや法律に従って働く真面目な先生だったでしょう。

最高裁判所の判例は、不当な支配を行う主体として、党派勢力・宗教勢力・労働組合・その他の団体や個人だけでなく、公的機関もそれになり得ると示しています。教育本来の目的を歪めるような行為は、いずれも不当な支配になり得ると言えるのです。

教育基本法の改正から15年が経過し、政治家が述べた通りに官僚も明確に追随する事態に違和感と危機感を覚えます。以前、東大阪市で講演した文科省元事務次官の前川喜平さんの言葉を思い起こしました。

「戦後の教育基本法という家は、火事ですっかり燃えてしまったが、『不当な支配に服することなく』という文言は、かろうじて燃え残っている柱です」

その柱も、もはや崩れ落ちゆく寸前なのだと痛感させられました。

写真/shutterstock

何が記者を殺すのか
大阪発ドキュメンタリーの現場から

斉加 尚代

2022年4月15日発売

1,034円(税込)

新書判/304ページ

ISBN:

978-4-08-721210-5


久米宏氏、推薦!
いま地方発のドキュメンタリー番組が熱い。
中でも、沖縄の基地問題、教科書問題、ネット上でのバッシングなどのテーマに正面から取り組み、維新旋風吹き荒れる大阪の地で孤軍奮闘しているテレビドキュメンタリストの存在が注目を集めている。
本書は、毎日放送の制作番組『なぜペンをとるのか』『沖縄 さまよう木霊』『教育と愛国』『バッシング』などの問題作の取材舞台裏を明かし、ヘイトやデマが飛び交う日本社会に警鐘を鳴らしつつ、深刻な危機に陥っている報道の在り方を問う。
企画編集協力はノンフィクションライターの木村元彦。

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