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「男らしくしなさい」パリコレ“トランスジェンダーモデル”にして実業家の矢神サラが幼少期に感じた生きづらさ。「骨切り」の整形と性転換で総額2000万、夜の世界に憧れて…

集英社オンライン / 2024年9月22日 17時0分

六本木のミックスバー「GENIE」とおばんざいスナック「とき」の経営者であるだけでなく、YouTuber、モデルなど幅広く活動している矢神サラ(やがみ・さら)さん(32)。また、人気YouTubeチャンネル「令和の虎」にレギュラー出演していることでも知られている。インタビュー前編では、矢神サラさんの生い立ちや整形について詳しく聞いてみた。

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カミングアウトで涙が出るほど生きやすくなった

–––––矢神サラさんは、どのような幼少期を過ごされたんですか?

矢神サラ(以下、同)  小さいころは、よく女の子とシルバニアファミリーで遊んだり、ビーズを集めたりして遊んでいました。男の子とも仮面ライダーごっこなどで遊んでいましたが、物心ついたときから、男性が好きでしたね。仮面ライダーは「イケメンが見たい!」という理由で観ていました。



小学校に入ってからは男性アイドルにハマって、雑誌をたくさん買ったり、出演番組を観たりしていましたね。関ジャニ∞(現SUPER EIGHT)とKAT-TUNとNEWSの合同ファンクラブ「Y&J」にも入会して“ジャニオタ”したり、仲良しの女の子と推しの話をしたりしていました(笑)。

–––––そういった状況に対し、周りからの反応はいかがでしたか?

小学2〜3年生くらいから、学校で「オカマなの?」って言われるようになりました。私は当時から「オカマ」という言葉を差別用語だと感じていたので、否定しなきゃいけないと思って「違うよー」と返していました。一応は否定するものの、本当はそのとおりだったのですが(笑)。

当時は、今よりも多様性が尊重される世の中ではなく、性に関しても「男の子」「女の子」と2つの枠しかない感じでした。なので、学校の先生や祖父母世代からは「男らしくしなさい」とか「女の子とばっかり遊んでいたらダメだよ」って言われていました。

 –––––それで悩んだことはありましたか?

義務教育の9年間は、そういった言葉に縛られている感じでしたね。ことあるごとに男女で分けられたり、男の子は短髪にしなくちゃいけないといった校則があったり、いろいろな面で「敷かれたレールの上を走らされているな」と感じていました。

–––––高校に入ってからはどうでしたか?

環境が変わったこともあり、高校は中学校までよりも自由な校風だったので、「男の子大好き」とカミングアウトしていました。当時はカミングアウトできたことがうれしくて、みんなの前で堂々と恋バナができるようになったこと、たったそれだけでも人生がバラ色に見えて、涙が出るほど生きやすくなりました。

–––––どういった経緯でカミングアウトしたんですか?

人生で最初にカミングアウトした相手は、親友の女の子だったんですよ。その子とは“ニコイチ”な関係で、よく悩みなどを相談し合う間柄だったんです。

その子にカミングアウトしたときは、2人で泣いちゃいましたね。「大丈夫だよ」って言ってくれて、それがきっかけで、周りの人にもカミングアウトできるようになりました。

–––––カミングアウトしたときの周りの反応は?

想像していたよりも普通でしたね。それで、「そこまで思い悩むほどのことではないのかも」と思えるようになりました。

それでも、親にカミングアウトするときはすごく勇気がいりました。でも、うちのお母さんはちょっと“天然”なところがあるので、「今の子って、結構そういう感じだよね」といった反応でした(笑)。当時から寛大で、すごく理解がある親です。

–––––高校卒業後は、何をしていましたか?

私が通っていた高校は大学進学率が99%で、大学へ行くのが当たり前という環境でした。でも、大学に行ったからといって女にはなれるわけではないし、「学費を払うくらいなら、そのお金で性転換手術したい」って思い、進学はしませんでした。

高校卒業後は、当時日本でも大ブームになっていたK-POPアイドル・少女時代に入りたくて、そのために地元・名古屋から上京しました。それで、韓国の芸能事務所のオーディションをいろいろ受けたんですけど、すべて落ちてしまいましたね。当時は男でも女でもない状態でオーディションを受けていたので、審査員も「どういうこと?」って感じだったと思います(笑)。

痛みがすごくて呼吸ができなかった整形手術 

–––––はじめて整形したのは、何歳のときですか?

19歳のときに、瞼を二重に埋没しました。それからは「とにかく可愛くなりたい」という一心で、お金を貯めては整形し続けています。やっぱり、美女が得する世の中だと私は思っているので。

–––––整形には、今までどれくらいお金をかけましたか?

途中から数えるのをやめちゃったんですけど、細かいものを含めると、2000万円は超えていると思います。「骨切り」だけで500万以上はかかっていますし、目は修整などを含めて200万くらい、鼻は100万くらい、前頭部の植毛で100万くらい、豊胸で200万くらい。あと、助軟骨を抜いて小鼻の付け根部分に入れて、ほうれい線が目立たなくなるようにする手術もしましたね。ほかにもいろいろやっているので、この顔はかなり作り込まれたものなんですよ。

それに、足回りとお尻の脂肪を吸引して、それをシリコンを入れた胸の上に足してふわふわにしています。それは(PR)案件だったので、700万くらいする手術が無料でした。

–––––ダウンタイムが一番辛かった整形は何ですか?

「骨切り」です。顎とエラと頬骨を削って、中顔面の骨を全部抜きました。ダウンタイム中は痛みがすごくて、呼吸ができないんです。

血がずっと出てしまうんですが、横を向くと血が詰まってしまうので、横向きで寝られないんですよ。3日間くらい入院したんですけど、本当に死ぬかと思いましたね。口が全然開かなくて、食事は2週間流動食でした。それに術後2年間くらい、ずっと顔が腫れている状態でした。

「+α」を提供するのがプロ

–––––はじめて夜の仕事をしたのは、何歳のときですか?

23歳のときに歌舞伎町にある老舗ゲイバー「ひげガール」で働き始めました。それまでは、普通に飲食店などでバイトをしたり、アパレルで正社員として働いたりしていました。

夜の世界に対してずっと憧れはあったんですけど、厳しいイメージがあって、私には向いてないと思っていたんですよね。でも「このままじゃ人生変わらない」という気持ちがあり、お金も稼ぎたかったので、「自分の人生、一発逆転したい!」と思って飛び込んでみました。

–––––「ひげガール」で働いてみて、どうでしたか?

上下関係が厳しく、「先輩は絶対」って感じでしたし、弱肉強食の世界でもありましたね。

お客さんからすると、女の子としゃべりたいだけだったら、普通のキャバクラに行くじゃないですか。 でも「ひげガール」のお客さんは、話が面白いとか、行動が面白いとか、見た目が面白いとか、何かしらの「+α」を求めているんですよ。それを提供するのがプロなんだなと、先輩たちの姿を見て学びましたね。ここでの経験が、私の水商売における礎(いしずえ)になっています。

–––––夜の仕事を始めた当初、どんなことが大変でしたか?

最初のころは、本当に毎日潰れて吐いていましたね。当時のお店は毎日焼酎をロックで飲むお店だったんですけど、私は焼酎が体に合わなすぎて……。先輩の席についているから断ることもできなくて、大変でした。今では良い思い出です(笑)。

****************

後編では、性転換手術にいたるまでの葛藤や、どのようにして「トランスジェンダー界の女帝」と呼ばれるまでに成長したのかについて聞いてみた。

取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班

「大腸を切って女性器にした」日本人初の世界的コレクション出演“トランスジェンダーモデル”八神サラ。決死の性転換手術と彼女をささえたオトコたち…〉へ続く

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