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宿命のライバル“馬場と猪木”の直接対決。全16戦の意外な対戦結果

集英社オンライン / 2022年7月20日 16時1分

プロレスの歴史を代表するライバルといえば、ジャイアント馬場とアントニオ猪木。リング上で一度も対戦したことがないと思われているが、実は若手時代には日本プロレスで何度もシングルで戦っている。では、その気になる対戦成績はどうだったのか。プロレスライターの斎藤文彦氏が彼らの戦いの軌跡をたどった著書『猪木と馬場』(集英社新書)から一部抜粋、再構成して紹介する。

昭和キッズが夢中になったライバルたち

ぼくたちは“宿命のライバル”というフレーズが大好きだ。ここでいうぼくたちとは、戦後から高度経済成長期育ちの昭和のキッズだった“ぼくたち世代”のことだ。

昭和育ちのキッズがスポーツの世界でとくに夢中になった“宿命のライバル”の物語は、プロ野球では長嶋茂雄と王貞治、江川卓と西本聖、大相撲では大鵬と柏戸、先代・貴ノ花と輪島、そして、プロレスではもちろんジャイアント馬場とアントニオ猪木だった。



昭和30年代から昭和40年代を代表するバッターの長嶋と王、昭和50年代を代表するピッチャーの江川と西本はいずれも読売ジャイアンツのスーパースターで、同じチームに所属していたためじっさいに対決することはなかったが、あるひとつの時代を象徴する野球選手としてのステータスそのものがライバル関係とカテゴライズされた。

昭和30年代から昭和40年代を代表する大横綱の大鵬と柏戸、昭和40年代から昭和50年代に活躍した大関・貴ノ花と横綱・輪島もまた同じ時代を生きたライバル同士で、大相撲では幕内三役以上の番付の力士は毎場所のように顔を合わせるため、そのつど勝ったり負けたりするから対戦成績はそれほど重要なファクターではなかった。

大鵬と柏戸、貴ノ花と輪島も、長嶋と王、江川と西本の関係と同じようにその人気と実力、時代性のなかで宿命のライバルと位置づけられていた。

馬場と猪木のライバル・ストーリーは、同日入門発表と同日デビューから、最強のタッグチーム“BI砲”として活動した昭和40年代の約5年間、全日本プロレスと新日本プロレスの設立から現役選手として円熟期を迎え“社長レスラー”“プロモーター”“プロデューサー”としておたがいのプロレス観をぶつけ合った昭和50年代、昭和60年代、平成まで続いた約40年間のロングランだった。

だから、昭和育ちのプロレスファンの“ぼくたち世代”は少年期から青年期、成人となって中年のオヤジと呼ばれるまで、大げさにいってしまえば人生のほとんどを馬場と猪木の闘いを同時体験することに費やしてきたことになる。

1998年(平成10年)4月の猪木の現役引退、1999年(平成11年)1月の馬場の死去とその後の新日本プロレスと全日本プロレス、あるいは新日本プロレスと全日本プロレスから派生した数かずの後発団体の存亡や馬場の弟子たち、猪木の弟子たちのストーリーまでを追っていくと、その物語は半世紀を超えて続いた大河ドラマととらえることもできる。

つまり、馬場と猪木の物語は――力道山以後の――日本のプロレス史そのものであり“ぼくたち”の生きてきた昭和史、平成史なのである。

馬場と猪木が“宿命のライバル””永遠のライバル”として語り継がれるもうひとつの理由は、このふたりの“世紀の一戦”“夢の対決”がいちども実現することがなかったからだろう。
あまり役に立たないトリビアということになるかもしれないが、実現しなかったものとして一般的に認識されているシングルマッチは、じつは1961年(昭和36年)に6回、1963年(昭和38年)に10回、合計16回おこなわれていた。

同日入門でも年齢は5歳差の微妙な関係

シングルマッチ初対決が実現したのは、日本プロレスの“春の本場所”『第3回ワールド大リーグ戦』開催中の1961年(昭和36年)5月25日、場所は富山市体育館。このとき馬場は23歳で猪木は18歳。同日入門発表から1年1カ月後、同日デビューから8カ月後のことだった。

前座の15分1本勝負としてラインナップされたシングルマッチは、馬場が10分0秒、フルネルソン(当時の表記は羽交い絞め)で猪木からギブアップを奪った。

長身の馬場が猪木の背後に回り、長い腕を猪木の両脇から差し込み、大きな両手でクラッチを握りながら猪木の後頭部を上からぐいぐいと押さえつけ、猪木がもがき苦しんでいるシーンを想像してみるとおもしろい。この試合は映像にも写真にも残されていない。

二度めの対戦はそれから2日後の5月27日(岐阜市民センター)で、馬場がボストンクラブ (逆エビ固め)で猪木からギブアップ勝ち。この試合ではファイトタイムが10分から5分30秒へ半分に“短縮”されている点がひじょうに興味ぶかい。

3回めから6回めの4試合は同シリーズの四国、九州巡業中の6月10日(徳島市民会館)、6月16日(福岡・八幡市黒崎安川体育館)、6月20日(大分・別府市営温泉プール)、シリーズ終盤戦の6月28日(大阪府立体育会館)におこなわれ、それぞれ9分から11分のファイトタイムで馬場がフォール勝ちを収めた。

記録によると決まり手はいずれも“エビ固め”となっているが、馬場が猪木の両脚を抱えてフォールを奪う直前、いったいどんな大技を猪木にかけたのかははっきりしない。馬場はこの時点ではのちにトレードマークとなる十六文キックはまだ開発していない。

いっぽう“ギブアップ”による完敗モードから“エビ固め”というフォール負けへの変化は、猪木のほうから見ればやや善戦ということになるのかもしれない。

馬場は『第3回ワールド大リーグ戦』シリーズ中の同年7月1日、初のアメリカ武者修行の旅に出発。1年8カ月間にわたりロサンゼルス、シカゴ、ニューヨーク、カナダ東部といった人気マーケットを長期ツアーし、1963年(昭和38年)3月、『第5回ワールド大リーグ戦』出場のため一時帰国。このシリーズからリングネームを正式にジャイアント馬場と改名した。

馬場が渡米中だった前年1962年(昭和38年)の『第4回ワールド大リーグ戦』に続き、 猪木と大木金太郎も2年連続で同リーグ戦にエントリーした。海外遠征から凱旋帰国してメインイベンタークラスの仲間入りを果たした馬場とまだ若手グループのひとりだった猪木とは、この時点で番付のうえで大きな開きができていた。

このとき馬場は25歳で、猪木は20歳。この5歳の年齢差は、アスリートとしてもプロレスラーとしても両者の全盛期にわずかながらの時差を生じさせていくことになる。昭和40年代から昭和50年代、あるいは1960年代から1970年代にかけてつねに猪木が馬場を追いかける立場にあったのも、プロとしての経験値そのものよりもこの年齢差が微妙に関係していたととらえることができる。

知名度を上げる馬場と無名の猪木

馬場と猪木の通算七度め(1年10カ月ぶり)のシングルマッチは、『第5回ワールド大リーグ戦』の関西エリア巡業中の4月25日、兵庫・豊岡市総合グラウンドでおこなわれ、馬場が12分3秒、体固めで勝った。

3カウントのピンフォールには“体固め”“片エビ固め”“エビ固め”“回転エビ固め”“逆さ押さえ込み”“首固め(スモール・パッケージ・ホールド)”といったバリエーションがあるが、相手の脚や首をフックせずに単純に上から覆いかぶさるだけでフォールを奪う“体固め”は、負けたほうにしてみれば大の字=完全KOのイメージなのだろう。この“体固め”というフォールの取り方にも当時の両者のポジションの違いがはっきりと表れていた。

猪木は同シリーズ後半戦の5月5日(札幌中島スポーツセンター)、遠藤幸吉との試合中に左大腿筋を部分断裂、全治2カ月の負傷でリーグ戦を途中棄権した。ケガによる欠場はこれが初めてだった。

馬場はこの『第5回ワールド大リーグ戦』終了後、映画『喜劇駅前茶釜』(東宝・久松静児監督)にゲスト出演。プロレスラー役ではなく、セリフのある脇役を演じた。まだ無名の若手選手という位置づけでしかなかった猪木がケガで試合を休んでいるあいだに、アメリカ帰りの馬場はテレビや映画にひんぱんにゲスト出演してお茶の間のタレントとしての知名度をますます上げていった。

1963年7月に戦列復帰した猪木は、この7月から10月までの3カ月間にさらに9回、馬場と対戦。ここまでの7回の顔合わせとの大きな違いは、この9試合のうちの4試合が45分3本勝負で争われたことだった。

試合の日時・場所と結果は以下のとおりだ。

通算対戦成績はまさかの…

7月19日=リキ・スポーツ・パレス(30分1本勝負)は17分21秒、体固めで馬場の勝ち。
7月28日=静岡・三嶋大社境内(45分3本勝負)は2-1のスコアで馬場の勝ち。
8月3日=大阪・岸和田市港広場(45分3本勝負)は2-1のスコアで馬場の勝ち。
8月9日=東京・足立区立体育館(20分1本勝負)は10分26秒、体固めで馬場の勝ち。
8月6日=リキ・スポーツ・パレス(45分3本勝負)は2-0で馬場のストレート勝ち。
9月4日=愛知・刈谷市営球場(45分3本勝負)は2-1のスコアで馬場の勝ち。
9月23日=秋田・大曲市営競技場(30分1本勝負)は14分5秒、体固めで馬場の勝ち。
9月28日=福島県営体育館(30分1本勝負)は11分55秒、体固めで馬場の勝ち。

最後のシングルマッチとなった10月2日=栃木・足利の月見ヶ丘体育館での20分1本勝負は12分0秒、体固めで馬場の勝ち。

4試合おこなわれた45分3本勝負のうちの3試合では猪木が1フォールをスコアしたという記録が残っているが、どういった技を使って猪木が馬場から3カウントのフォールを奪ったかははっきりしない。結果的に両者の対戦成績は馬場の16勝0敗という圧倒的な数字だけが残った。

全16回の対戦のうちの2試合がおこなわれたリキ・スポーツ・パレスは、力道山が総工費15億円(資料によっては30億円)を投じて東京・渋谷に建設した”プロレスの殿堂”で、1960年(昭和35年)2月に着工して1961年7月に完成。地上9階地下1階のドーム型ビルの3階から5階が収容人員2000人(資料によっては3000人)の吹き抜け式アリーナになっていて、テレビ中継収録用としても使われたが、残念ながら馬場と猪木のシングルマッチの試合映像は残されていない。

馬場は1963年10月、二度めのアメリカ遠征に出発。滞在先のカナダ・オンタリオで力道山の急逝を知ることになる。馬場と猪木が対戦相手ではなくタッグパートナーとしてリング上で再会するのは、それからさらに4年後の1967年(昭和42年)のことだった。

写真/gettyimages

猪木と馬場

斎藤 文彦

2022年5月17日発売

1,012円(税込)

新書判/296ページ

ISBN:

978-4-08-721214-3


“燃える闘魂”と“東洋の巨人”の終わりなき物語。
昭和のあの頃、金曜夜8時に「男の子」はみんなテレビの前にいた--。
アントニオ猪木とジャイアント馬場は力道山門下で同日デビューし、やがて最強タッグ「BI砲」で頂点に上り詰めた。
その後、独立してそれぞれの道を歩み、二人は仁義なき興行戦争へと突入していく。
プロレスラーとしての闘いからプロデューサーとしての闘いへ。
猪木と馬場のライバル物語を追うことは、もちろん日本のプロレス史を辿ることであるが、本書の内容はそれだけではない。
プロレスの本質を理解するための視座を伝える一冊である。

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