殺人鬼が告白する“芸術としての殺人”とは…退席者続出の猟奇映画が公開

日刊SPA! / 2019年6月8日 8時30分

写真

『ハウス・ジャック・ビルト』は芸術の反倫理性を肯定的に描き出した寓話である

 世界中で流行している大小無数のテロリズムやヘイトクライム(憎悪犯罪)、多種多様なポップカルチャーの題材となっている猟奇殺人の数々――それがいわゆる「芸術」と称されるジャンルの一部であるとしたら?

 6月14日から新宿バルト9ほかで公開される『ハウス・ジャック・ビルト』(監督:ラース・フォン・トリアー)は、そんな挑発的で反倫理的な問いを殺人鬼のパーソナリティを通じて描き出した怪作だ。カンヌ国際映画祭では、凄惨なシーンに耐えられず、途中退席する者が続出したという。

◆最大の見所は、殺人シーンよりも…

 1970年代の米ワシントン州、赤いワゴン車を走らせていたジャック(マット・ディロン)は、パンクした車の前で手を挙げる女性(ユマ・サーマン)と遭遇する。女性は、壊れたジャッキを見せながらジャックに助けを求め、近くの修理工場まで自分を乗せて行ってほしいとせがむ。

 だが、彼女は助手席に座るや否や、ジャックの風貌を腐して「あなた、殺人鬼かも。そんなふうに見えるわ」などと悪態を並べ立てる。修理を終えた後も傲慢な態度は変わらず、ジャックのイライラは遂に限界に達する。決定的だったのは、「撤回するわ。あなたを殺人鬼と呼んだこと」と言って謝罪するかと思いきや、「あなたには(殺人は)とても無理。虫も殺せない腰抜けよ」と侮辱したことであった。

 ジャックは急ブレーキをかけて車を止めると、壊れたジャッキで彼女の顔をメッタ打ちにする。

 この最初の殺人以降、ジャックは自身の行為を芸術になぞらえて、憑かれたように凶行を積み重ねていく……。

 本作の最大の見所は、身の毛のよだつ殺人シーンと言いたいところだが(実際R18+指定になっており、残酷描写もそれなりに多いが)、ほとんど無駄話とも思えるジャックの犯行に関する注釈と、それに合わせて挿入される名画や記録映像によって浮かび上がる「どうしようもない凡庸さ」だ。

◆背景には何もない、空っぽだ

 かつてコリン・ウィルソンは、1960年代を境に「無動機殺人」が増大したことを指摘したが、大衆メディアの発達で犯罪のスペクタクル(見世物)化も進行した。「暇をもてあました男たち」による「退屈の犯罪」――ウィルソンが名付けた言い方だが――は「豊かな社会」の宿痾(しゅくあ)のようなものだ。背景には実は何もない。空っぽである。

 日本では、「人を殺してみたかった」として女性を殺害した17歳の少年による凶悪事件がそれに相当するだろう(2000年の豊川市主婦殺害事件)。そのため、「高邁な殺人哲学」なるものが開陳されるということはなく、どこからか借りてきたような出来合いの言葉しか出てこないのだ。

 ブラックユーモアと言えばそれまでだが、このことがとても重要な意味を持つのである。

◆ジャックの犯罪が意味するもの

 ジャックが芸術と称して殺人を繰り返すのは、強迫性障害(強迫神経症)という設定に従えば、フロイトのいう「禁止に対する侵犯」(それが禁止されているからこそ侵犯したくなる)によって、「禁止の抑圧が軽くなる」からだが、これを分かりやすく一般化すれば、「社会が“仮初め”の秩序」に過ぎないことを「秩序の破壊」によって確認するということになる。

 その昔、人類にとって日常の退屈、ルーティンを打ち破るものは「祭り」だった。ロジェ・カイヨワはこう書いている。

「祭りとは全面的な混乱状態としての幕間の時間であり、事実上、世界の秩序が中断される期間として現象する。だからこそ、祭りではあらゆる放埒が許されるのである。そこでは規則に背いて行動することが重要なのだ」(塚原史ほか訳『人間と聖なるもの』せりか書房)

 ジャックが「俺達が理解できないほど芸術は広大なんだ」と言う時、人間性という枠内に収まらない祭り、または芸術の「秩序の破壊」機能を指し示している。だが、近代以降の芸術はそのような期待に応えられるものではなくなり、今や現実に起こる「大事件」だけがそれに近い役目を果たしている。なぜなら、「世界の秩序が中断される」サイクルが社会から失われることで、「禁止一辺倒」の息苦しい状況がもたらされているからだ。社会はますます微動だにしない不変の秩序に感じられ、「何かが風穴を開けてくれる」ことを待ち受けるようになる。

◆日常の退屈を破壊する、祭り、戦争、犯罪

 「9.11事件」の直後、シュトックハウゼンが「あれはルシファーのアート」と発言したのは、芸術の非日常性という両義的な概念(どちらにでも転び得るもの)を踏まえた表現だったが、少なくない人々が自爆テロリストから粗暴な乱射犯に至るまで「刺激的なパフォーマンス」として消費している現実こそが、祭りが定期的にもたらしていた「秩序の破壊」の機能を犯罪のスペクタクルが小規模ながら代替していることの表れである。カイヨワは、未開社会のような祭りがない現代では、戦争こそが祭りであると述べているが、それがダウンサイジングされ個人化された末の残りかすが、「テロ」のような現象を作り出す起爆剤の一つになっているのかもしれない。

 つまり、ジャックの犯罪は「個人による個人のための秩序の破壊」であり、その逸脱行為は共同性とは何の関係もないものであって、個人化されているがゆえに誰の共感も理解も得られない……。昨今流行りの進化心理学的な視点でみれば、わたしたちは近代に移行した後も「全面的な混乱状態としての幕間の時間」「世界の秩序が中断される期間」を欲していると捉えることもできるだろう――それが上手く処理できず運命のいたずらによって“非合法な形”で現れるか否かは紙一重であるとしたら?

 映画の終盤にお口直しのように付け足されるサービスカットのような地獄のヴィジョンが、「いいか、おれの人生にはもっと重要なことがある。こんなジャッキより」という台詞への回答であるとしたら、それが多かれ少なかれわたしたちを待ち受けている未来の暗黒面だと、本作の作り手であるトリアーは言いたいのかもしれない。

 エンタメ作品とは一線を画す皮肉の効いた味わいをぜひご賞味あれ。

文/真鍋厚(評論家)’79年、奈良県生まれ。出版社に勤めるかたわら評論活動を始める。映画、文芸を通して現代社会を読み解く。猟奇映画、ゾンビ映画にも造詣が深い。著書に『不寛容という不安』(彩流社)、『テロリスト・ワールド』(現代書館)

(c)2018 ZENTROPA ENTERTAINMENTS31,ZENTROPA SWEDEN,SLOT MACHINE,ZENTROPA FRANCE,ZENTROPA KOLN

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング