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22年間の番組が明日終了。『とくダネ!』小倉智昭の隣にいた男

日刊SPA! / 2021年3月25日 8時52分

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◆小倉さんは22年間、まったく変わっていない

 日本の朝の光景が変わろうとしている――。明日、2021(令和3)年3月26日をもって、22年間続いた『情報プレゼンター とくダネ!』が大団円を迎える。1999(平成11)年4月の番組開始当初から総合司会を務めてきた小倉智昭が、明日を限りに「朝の顔」から勇退する。そして、この日を特別な思いとともに迎える男がいる。

大村正樹――。

 名前を聞いて、すぐに顔が浮かぶ人はかなりのテレビ通だろう。しかし、本人の顔を見ればすぐに「あっ、あの人か!」と思うはずだ。かつて、12年にわたって情報リポーターとして小倉を支えてきた大村は言う。

「22年も経ったけど、僕の中では小倉さんはまったく変わってないんです。常に男としての色気を持っているし、努力家だし、新しいものを見たいという貪欲な気持ちは何も変わっていない。それに貧乏性だけど、決してケチじゃない。いつまで経っても、いい兄貴分のような存在なんです」

 大村は小倉を食事に誘ったという。

「ご馳走になる気満々で、しかし良い話も聞いたし会計が安かったので俺が払います!と言って、小倉さんは大村にご馳走になる日が来るとはな~としぶしぶ受け入れてくれました。小倉さんにはいつまでもギラついていてほしいという思いで、2人で楽しくお酒を呑みました。帰るときには『春からタクシーばかりじゃダメだからな。電車も乗るんだよ」とSuicaを見せられ中央線に乗りました。

 楽しそうに、大村は笑う。さて、この大村正樹という男。実は波乱万丈なリポーター人生を送ってきたことを知る者は少ない。ヤフー検索で「大村正樹」と入力すると、「無神経」「失言」「嫌い」と続く。どうして、こんなに否定的な言葉が続くのか?

 1995年の阪神淡路大震災では不眠不休で現場リポートを続けたこともある。同年のオウム事件では上九一色村の最前線で命の危険にさらされたこともあった。その一方で、2011年のニュージーランド地震によって右足切断を余儀なくされた少年に対し、「これまでのようにスポーツできなくなってどんな気持ちですか?」と質問して大バッシングを受けた。2016年、女優・高畑淳子に対して、性的暴行を加えた息子について「息子さんの性癖を知っていたのか?」と尋ねて、炎上騒動を起こしたこともある。

 大村正樹とは、どんな人物なのか? そのリポーター人生をひも解いてみたい――。

◆32社目にして、ようやくアナウンサーに合格

 1967(昭和42)年4月26日生まれ。来月で54歳になる。フジテレビの局アナだと勘違いしている人もいるかもしれないが、彼はフリーランスアナウンサーである。富山で生まれたものの、銀行員だった父親の転勤に伴って引っ越しを繰り返す幼少期を過ごした。法政第一高校(現・法政高校)から法政大学に進学し、社会心理学、メディア文化論専門でマスコミでも活躍する稲増龍夫ゼミの出身だ。

「稲増ゼミの出身でもあるんですけど、ちょうど僕の在学中に先生と若い大学スタッフが自主的に立ち上げた法政大学自主マスコミ講座の一期生でもあるんです。僕自身は旅行代理店に行きたかったんですけど、先生から「稲増ゼミのゼミ長なんだからマスコミ受けなきゃ!君はアナウンサーになれる!!」とおだてられて、マスコミばかり受けたんです」

 自主マスコミ講座のアナウンサーコースに所属していた大村は、師の勧めに従ってテレビ局を受け続けた。決してアナウンサー職に憧れがあったわけではない。それでも、ひたすらエントリーシートを提出した。連戦連敗の果て、32社目にして内定を手にしたのが縁もゆかりもない鹿児島放送だった。

「当時、稲増ゼミからマスコミに進んだ人っていなかったのでは?あの頃は先生に言われたことは絶対だったし、先生からの期待も大きかったんで、ずっとアナウンサー職を受け続けました。でも、アナウンサーに対する憧れも理想も、何もなかったんです」

◆鹿児島放送を入社3年で退職

 鹿児島放送初となる県外出身の男性アナウンサーとして、入社2年目ですでに日曜昼のレギュラー番組『日曜ゆーえんち』の司会に抜擢された。キー局であるTBSの『アッコにおまかせ』を向こうに回して、視聴率10%台も記録する人気番組の司会を務め上げた。しかし、順風満帆に見えたが、大村は入社3年目で退職を決意する。

「ニュースを読むときに、先輩デスクが書いた原稿を勝手に言い回しを変えて怒られたり、短期間で二度もニュースの順番を間違えて始末書を書きました。上司との折り合いも悪く、“もうダメだな”って退職を決意したんです」

 何の当てもなかった。ただ漠然と、一般旅行業務取扱主任者試験を受けて、元々憧れを抱いていた旅行業界に転職する心積もりだった。そもそも、アナウンサーに憧れなどなかったか、何の未練もなかった。そんな折、またしても師・稲増から「フジテレビの『おはよう!ナイスデイ』でリポーターを募集しているから、受けてみたらどうだ」と連絡が入った。

「このときも稲増先生からの情報でした(笑)。ワイドショーのリポーターになるつもりはなかったんですけど、ひとまず応募することにしました。ちょうど、ワイドショーについて、ひと言もの申したいこともあったので……」

◆「埼玉愛犬家連続殺人事件」「つくば母子殺人事件」を経て……

 話は前年にさかのぼる。92年4月25日、ロック歌手の尾崎豊が逝った。大の尾崎ファンだった大村は、その死を伝えるワイドショーを丹念に視聴した。しかし、そのいずれも、大ファンとしてはまったく納得できる内容ではなかった。

「結局、何も尾崎のことを知らない人たちが、尾崎のことを斬ってるんです。昔、覚醒剤で捕まった人、破滅に向かって自ら進んだ人……、そんな描き方ばかりで、どうして尾崎の歌が若者の心に刺さるのか、その本質に触れる報道はまったくなかったんです。“尾崎の魅力は?”と尋ねると、ファンは“すべて”と答えて終わり。いやいや、その“すべて”をもっと掘り下げなくちゃダメでしょ。そんな思いを面接では訴えました」

 こうして、1000人以上の応募者の中から『おはよう!ナイスデイ』の専属リポーターに合格する。大御所の東海林のり子、ベテランの武藤まき子、奥山英志らとともに、事件現場を渡り歩く日々が始まることになった。

 当時の『おはよう!ナイスデイ』には総勢13名のリポーターが在籍していた。10時の生放送が終わると、先輩リポーターたちは次から次へと、きんさんぎんさんの下に駆けつけたり、統一教会の動向を探るべく現場に飛んでいく。新人・大村の出番はなかなかやってこなかった。

「当時、完全歩合制で、一回出演して2万円のギャラでした。でも、月にせいぜい3本程度しか仕事がないから、全然食っていけないんです」

 しかし、大村に転機が訪れる。94年の年明けから、マスコミをにぎわせた「埼玉愛犬家連続殺人事件」が、彼にとっての「出世事件」となったのだ。

「あの頃は愛犬家連続殺人事件にどっぷりハマっていました。後に終身刑となる関根元と、その元妻である風間博子に入り込みました。さらに、つくば母子殺人の取材を必死に続けていたら、次第に“こいつは意外と頑張るな”って、少しずつ評価が上がっていたようです」

 こうして、「ベテランはスタジオ出演、大村は現場中継」という役割分担が定着していく。大村の伝えるリポートには熱気があった。若いディレクターたちもそれに呼応して、寝食を惜しむことなく働き続けた。一緒に番組を作り上げていく充実感があった。リポーターという職業にやりがいが芽生え始めていた。気がつけば、「ニュースを読むのが下手なアナウンサー」だった大村は「情熱あふれるリポーター」へと変貌を遂げる。そして、1995年1月17日、日本中を悲劇に包んだ災害が起こる。

 阪神淡路大震災――。多くの被害者を出した未曽有の大震災は、「リポーター・大村正樹」にとって、一生忘れられない大仕事となるのだった――。

(第2回に続く)

取材・文/長谷川晶一(ノンフィクションライター)撮影/渡辺秀之

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