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「お前のリポートには心がこもっていない」大村正樹の仕事観を変えた大震災

日刊SPA! / 2021年4月2日 8時35分

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―[職業・芸能リポーター]―

3月26日、22年間お茶の間の朝を彩ってきた『とくダネ!』(フジテレビ系)が終了した。芸能リポーターとして、ときに事件、事故の現場に向かい、人々の喜怒哀楽を伝え、時代の節目に立ち会ってきた者たちが新たなステージを迎えようとしている。芸能リポーターという仕事とは何だったのか? 令和のいま、当事者たちの証言をもとに紐解いていく――。

◆<大村正樹・第2回>

 転機となった1995年1月17日――。

 旅行業界への憧れを抱いたまま、師の勧めに従い放送業界へ足を踏み入れた。32社目の就職活動の末に、ようやく手にした鹿児島放送のアナウンサー職も、わずか3年で自ら放棄した。気がつけば、フジテレビ『おはよう!ナイスデイ』のリポーターとなっていた。しかし、その仕事は、自分の人生をかけるに値するものなのか、確信を持てぬ日々が続いていた――。

 1990年代初頭、当時20代半ばを迎えていた大村正樹の人生は、いまだ定まっていなかった。しかし、リポーターとなって少しずつ仕事を覚え始めていた頃、「一生忘れられない大仕事」となる出来事が起こった。

 1995(平成7)年1月17日、午前5時46分52秒――。兵庫県・淡路島北部沖の明石海峡を震源とする大地震が発生した。後に「阪神・淡路大震災」と称される未曽有の大災害だった。このときの一連の災害リポートが、大村の人生を決定づけることとなった。

◆「埼玉愛犬家連続殺人事件」の関根元を取材していた

「あの日、僕はスタジオ出演の予定がなかったので、早朝から『埼玉愛犬家連続殺人事件』で、すでに逮捕されていた関根元のそれまでの生活ぶりを取材するために秩父へ向かっていました。ところが、移動途中に“どうやら、関西でかなり大きな地震があったらしいぞ”という知らせが入ります。その瞬間から、僕ら取材クルーを乗せた車はすぐに東京駅に向かいました」

 東京駅に向かう途中にも、時々刻々と関西の惨状が飛び込んでくる。これは、今までに経験したことのない大惨事なのではないか? 今、こうしている間にも被害はとてつもなく大きくなっているのではないか? 自分たちは何を報じるべきなのか? 何ができるのか? さまざまな思いが交錯する中、大村たち取材クルーは東京駅に到着した。

「東京駅に着いたら、すでに新幹線は止まっていました。フジテレビとしては何としてでも現地に行かなければならない。いろいろ調べたら、徳島と岡山に向かう飛行機が出ていることがわかった。そこで、岡山経由で向かうクルーと、徳島ルートのクルーとワイドショーチームを分けて向かうことになりました。僕は徳島で飛行機を乗り換えて伊丹空港まで行きました。結果的には僕たちのクルーが最初に現地入りしたんです……」

 フジテレビの全リポーターが総動員された。ベテランも若手も関係なく、それぞれのルートで現地入りをして、それぞれの立場から、「今、何が起こっているのか?」を伝えていくことになった。この瞬間から、大村にとって、一生忘れることのできない不眠不休の取材活動が始まった。

◆息を呑むような惨状を目の当たりにして……

 羽田から徳島に飛んで、伊丹空港に着いたのは14時過ぎのことだった。しかし、交通網はすでに麻痺しており、伊丹から神戸に向かう「足」がなかった。電車は止まっていた、タクシーもなかなか見つからない。やがて、ベテランリポーターたちも、続々と関西に到着する。ようやく見つけたタクシーにはベテランたちが乗り込み、先輩リポーターたちが次々と、変わり果てた街の惨状をリポートしていく。

「最初は何台かのタクシーに、みんなで分乗して行ったんですけど、徐々に惨状がわかってくるにつれて、それぞれの地点でリポートするためにベテランたちが降りていきました。僕たちは、“行けるだけ遠くに行って、リポートするように”と言われたものの、もうそれ以上は先に進むことができず、僕たちがタクシーを降りたのは甲子園口の辺りでした。そこからはヒッチハイクで神戸まで向かいました」

 街は大渋滞だった。都市機能は完全に麻痺し、パニック状態にあった。14時過ぎに伊丹空港を出発して、タクシーで甲子園口に着いたときには17時を過ぎていた。そこから、明石海峡大橋建設に関わっていた建設会社の車をヒッチハイクして、神戸市東灘区に到着したのが20時頃だった。

◆ようやく辿り着くと……

 ようやくたどり着いた東灘区では「大物キャスター」と遭遇した。この頃、フジテレビの「報道の顔」であり、『ニュースJapan』のメインコメンテーターだった木村太郎だ。

「東灘区では、別ルートですでに現地入りしていた木村太郎さんと出会いました。木村さんとしては、さらに被害の大きい長田区の鷹取商店街方面に向かいたいと考えていたようで、僕たちが乗ってきた車を木村さんたちに譲って、僕らは東灘区で降りました。そこで、僕とディレクターと、カメラマンと音声さんの4人は、ひと晩かけて長田区の西市民病院に向かったんです」

 街ではいたるところで火の粉が舞っていた。暗闇の向こうからは、ガスボンベが爆発しているのだろうか、ボンボン、ボンボン、爆発音が聞こえてくる。息を呑むような光景が次々と現れてきた。

「僕たちの目の前で木造家屋が倒れていきました。家を失って、呆然としている人もいました。幸いにして家屋は無事だったけど、余震の可能性があるから家の中に入ることができずに不安なままでいる人たちもいました。あるいは、いわゆる火事場泥棒の現場も目撃しました。あのとき、あの場所では、本当にさまざまな人間模様が繰り広げられていました……」

◆「お前のリポートには心がこもっていない」

 震災当日、真っ先に現地入りして、生々しい映像を記録し続けた。しかし、一晩中カメラを回し続けたものの、せっかくの映像素材を東京のフジテレビまで電送する手段がなかった。

「結果的に、震災当日に僕らのリポートが使われることはなかったんですが、その後、震災から一週間後くらいに放送されたドキュメント番組や、《あれから何年……》みたいな振り返り番組では、僕らの撮影したものが何度も使われていました」

 このとき、大村たちのクルーは不眠不休で現地の惨状を克明に記録し続けた。大学を卒業してアナウンサーになったときも、東京に戻ってフジテレビ専属のリポーターになったときも、「自分の使命」を考えることなどなかった。しかし、未曽有の大震災の現場を目の当たりにしたことで、大村の中で何かが変わった。

「93年にフリーになったばかりの7月、北海道の奥尻島で大地震が起きました。僕はすぐに現場に行って、必死にリポートしました。でも、このときのリポートはすべてボツになりました。ディレクターには、“能天気にもほどがある”と言われました。でも、自分では、リアルにリポートしていたつもりでした。“オレの一体、何がいけないのか?”、そんな思いでした……」

 ディレクターが口にしたのは「お前の場合は、ただ目に見えているものを表現しているだけで、心がこもっていないんだ」という言葉だった。

◆大先輩・東海林のり子からのダメ出し

「ちょうど、同じことをリポーターの大先輩である東海林のり子さんにも言われました。東海林さんからは、“きちんと喜怒哀楽を表現すること。もっと、取材対象者に寄り添うこと”という言葉をもらいました。その言葉を初めて実感できたのが、阪神淡路大震災の現場だったんです」

 煤だらけになって呆然としている人、愛する家族を突然失って悲嘆に暮れる者にマイクを向ける。そこには覚悟が必要だ。それまでの大村には、その覚悟がなかった。何の覚悟か? ジャーナリストとして「人々に寄り添いながら、現地の生の声を、人間の喜怒哀楽を、ありのままに伝える」という覚悟だ。言い換えれば、「ジャーナリストの矜持」だ。ようやく、その覚悟が大村にも芽生えようとしていた。

 そんな矢先に、再び彼の覚悟が問われる事件が起こる。95年3月20日、地下鉄サリン事件に端を発するオウム事件である――。

(第3回に続く)

取材・文/長谷川晶一(ノンフィクションライター)撮影/渡辺秀之

―[職業・芸能リポーター]―

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