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89歳の広岡達朗が明かす、長嶋茂雄との“不仲説”の要因

日刊SPA! / 2021年7月5日 8時52分

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’63年、大スターとなったONに挟まれ取材を受ける広岡(当時31歳)。広岡にとって長嶋は4年、王は8年後輩にあたる

大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは?あの行動の真意とは?68年にわたりプロ野球に携わってきた重鎮、広岡達朗の確執と信念をひもとく。

◆誰よりも“人”を残した名将が今明かす“打撃の神様”との衝突

 広岡達朗、89歳。今のプロ野球界を大上段に斬ることができる唯一無二の男だ。長嶋茂雄だろうと王貞治だろうと、広岡にかかればひとたまりもない。“老害”と見る向きもあるが、広岡ほど誰にも忖度なく持論を投げつけられる野球人は他に類を見ない。’54年に巨人に入団して以来、実に68年もの間プロ野球に携わり続けてきたがゆえの矜持でもある。

 広岡の現役時代を克明に覚えている読者はほとんどいないだろう。現役としての最終出場は’66年。今から55年も前のことである。

 監督としてはヤクルト、西武で7シーズン指揮を執り、リーグ優勝4回、日本一3回という輝かしい実績を持つ。

 名将と呼ぶにふさわしい記録だが、監督時代の広岡は「徹底した管理野球」、「非情采配」といったネガティブな要素が取り沙汰され、“冷酷な指導者”というイメージが今もつきまとい続けている。禁酒、禁煙、禁麻雀、果ては選手に「玄米を食べろ」と強要したという逸話が管理の徹底ぶりを示すエピソードとして語り継がれているが……。

「あれは管理ではなく教育です。日本食から洋食まで取り入れたバイキングの中に玄米も含まれていた、というだけです。マスコミが大げさに書いたおかげで、“玄米を無理やり食わせる管理野球”というイメージが先行しているだけ。今でいう“食育”のはしりですよ」

 広岡は背筋をピンと伸ばし、矍鑠とした姿でそう話す。かつてベンチ内で毅然と立っていた姿を彷彿とさせる威厳を、今も保っている。他を寄せ付けない“怖さ”は目の奥に潜むものの、すべての質問に淀みなく答えてくれた。

◆広岡達朗が育てた“14人の監督”

 広岡が日本プロ野球史に残した偉大な功績が3つある。

 まず、両リーグで監督を務め、チームを日本一に導いたのは三原修、水原茂、広岡達朗の3人しかいない。なかでも2チームの弱小球団を3年以内に日本一に導いたのは、広岡ただひとりである。

 そして、巨人入団1年目に残した打率3割1分4厘は、現在でも大卒ルーキーの最高記録でもある。

 特筆すべきは3つ目、広岡は監督時代に指導した幾多の選手から、のちの監督経験者を14人も輩出している(田淵幸一、東尾修、森繁和、石毛宏典、渡辺久信、工藤公康、辻発彦、秋山幸二、伊東勤、大久保博元、若松勉、大矢明彦、尾花髙夫、マニエル)。これは、史上空前のV9を成し遂げた川上哲治、知将・野村克也、闘将・星野仙一でもなし得なかった数字だ。

 監督にとって最も重要な責務は、チームを勝利に導くために選手を育てていくこと。これはチームを、ひいては野球界を次世代に繫いでいくのと同義でもある。その観点から言うと、広岡はその責務を誰よりも果たし、プロ野球界に誰よりも“人”を残したということになる。

 だが、その生きざまは必ずしも聖人君子と呼べるものではなかった。むしろ自身の信念を貫くためには監督や偉大な先輩との衝突を辞さない、プロ野球界での“尖った男”の先駆けだった。

◆長嶋茂雄と組んだ三遊間コンビ

 これまで多くは語られてこなかった広岡の現役時代から話を始めたい。早稲田大学で4度の優勝を果たし、東京六大学野球のスター選手として巨人に入団したのが昭和29年。1年目から遊撃手のレギュラーになり、巨人の看板選手となった。

 東京六大学のスターからプロ野球のスターとなった選手といえば長嶋茂雄の印象が強いが、長嶋が入団する4年前に広岡がその道を切り開いていたのだ。

「鳴り物入りで入団したからといって、皆から歓迎されたわけではなかった。各々がライバルで弱肉強食の世界。バッティングケージに入って10球ほど打つと、どこからかバットが飛んでくる。誰かが手を滑らせたのかと思ったら、それが『いつまでも打ってないで早く出ろ!』という合図だった。それくらい当時の巨人は厳しかった」

◆ホームラン15本で新人王に

 広岡の登場は、当時のプロ野球界にとって衝撃的なものだった。それまでの遊撃手といえば、職人気質の小兵というイメージだったが、広岡は180cmの長身で都会的センスを纏い、長い手脚を生かした華麗な守備、強肩強打でスタンドを沸かせた。真新しいショート像の出現だった。

 1年目からレギュラーに抜擢され、打率3割1分4厘、ホームラン15本で新人王に輝く。そして前述のように、広岡の入団から4年後には、昭和プロ野球最大のスターである長嶋茂雄が入団。三遊間コンビを組むことになる。

「長嶋は守備が凄かった。どんな球でも回り込まず直角に入る。あの守備は勉強になった。でも、それも入団してから4年間だけだったな。それ以降は普通のサード。ある日なんか『ヒロさん、今日は動けませんから頼みます』って言うと、本当に動かなかったんだから」

◆不仲説が流れた要因は?

 今の球界に、長嶋茂雄を呼び捨てにしながら当時を語れるのは広岡だけである。かつて球界内外では二人の不仲説が流布されていたが、まったくのデタラメだ。

 引退後も長嶋は「ヒロさんヒロさん」と慕い、広岡は広岡で長嶋を「面白い男」として可愛がった。そもそも不仲説が流れた要因を遡ると、’64年8月6日の「長嶋ホームスチール激怒事件」に行き当たる。

「相手は国鉄。0対2とリードされた7回1アウト3塁。ランナーが長嶋。普通に考えたらこの状況でホームスチールなんてあり得ない。監督の川上さんが長嶋だけにわかるサインを出した。

 この2年前にも同じことがあった。延長11回2対1とリードされ、2アウト3塁。この場面でのホームスチールはまだわかる。でも、0対2で負けていて7回1アウト3塁の場面ではまず考えられない。

 長嶋はいいヤツだからサイン通りやっただけだけど、問題はサインを出した川上さんよ。俺への嫌がらせとしか思えない。まったく信用されてないことへの苛立ちで、そのまま家に帰ってやったよ」

 ホームスチールは失敗し、広岡は次の球を空振りして三振となり、そのままロッカー室へ直行し家に帰ってしまった。つまり、れっきとした試合放棄だ。この事件により、巨人内における広岡の立場が危うくなっただけでなく、巨人史上稀に見る大問題へと発展していく。

 広岡が広岡たる信念の源流は、“打撃の神様”川上哲治との確執にあったのだ……。

(第4回へ続く)

【広岡達朗】
’32年、広島県呉市生まれ。早稲田大学を経て’54年に巨人に入団。引退後は’76年からヤクルト、’82年から西武の監督を務め、日本一に3度輝く。その後は野球解説者として活動を続け、89歳となった今もコラム連載を多数抱える

文/松永多佳倫 写真/産経新聞社

【松永多佳倫】
1968年生。岐阜県出身。琉球大学大学院在学中。出版社を経て2009年8月よりフリーランスとなり沖縄移住。ノンフィクション作家として沖縄の社会学を研究中。他にもプロ野球、高校野球の書籍等を上梓。著作として『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『沖縄を変えた男 栽弘義―高校野球に捧げた生涯』(ともに集英社文庫)、『マウンドに散った天才投手』(講談社α文庫)、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA)など。現在、小説執筆中

―[プロ野球界でスジを通した男たち]―

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