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名将・広岡達朗が誓った“巨人への復讐”。最弱球団を率いて2年半で達成

日刊SPA! / 2021年7月26日 8時53分

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西武の監督就任1年目の’82年、日本シリーズ第6戦で中日を下して日本一となり、ナインに胴上げされる広岡

大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは? あの行動の真意とは?“打撃の神様”と呼ばれた川上哲治との確執が原因で巨人を退団した広岡達朗。その後の信念と軌跡に迫る。

◆因縁の巨人を倒し、監督オファーさえも蹴った広岡の“信念”

 ’66年、川上哲治との確執が原因で引退を余儀なくされた広岡は、その後も闘志を燃やし続けた。MLBが「メジャーリーグ」ではなくまだ「大リーグ」と呼ばれていた時代に、本場の野球を観て勉強すべく動きだしたのだ。日本人選手がメジャーを舞台に活躍し始める30年近く前のことだ。

「1ドルが360円の時代、2月中旬から6月下旬までの4か月強を自費でアメリカに滞在した。(母校の)早稲田大の知り合いに英語を習い、なんとか日常会話程度をマスターして一人で渡米。途中、お金がなくなったから送ってもらったこともあったな。ベロビーチで巨人がキャンプしていたから視察に行くと、突然練習をやめてしまうんだ。『広岡に見せると他のチームに筒抜けになる』と、まるでスパイ扱い。このときは悔しくてたまらなかった……」

 かつての古巣へ陣中見舞いという形で顔を出しただけなのに、知らぬ間に裏切り者というレッテルを貼られ、忌み嫌われていることを知った広岡はひどく落胆した。

「すべてはあいつの仕業……」

 ホテルのベッドに横たわっても、憎き“打撃の神様”の顔しか浮かんでこない。自分を認めさせるためには巨人を倒すしかない。このとき、広岡は巨人への復讐を胸に邁進することを誓った。

◆ヤクルト、西武の監督として巨人と……

「’70年、根本(陸夫)さんに呼ばれて、広島東洋カープのコーチを2年間務めさせてもらった。この年は黒い霧事件や不正行為やらで大変な年だったな。このときのカープで、選手を育てるということの意味と意義を学んだ。そして’74年にはヤクルトのコーチに呼ばれて、’76年シーズン途中から代理監督に。当時の松園オーナーは偉かったよ。『自前の選手たちを育ててくれ』と言って惜しみなく協力してくれた」

 広岡が指導者としての花を咲かせたのは、監督としてヤクルトを球団史上初の日本一に導いた’78年のことだった。“最弱”と揶揄されていた当時のヤクルトの監督を引き受け、わずか2年半後の出来事だ。しかも、後輩だった長嶋茂雄が監督を務め、リーグ2連覇中だった巨人を倒しての快挙。さらには“史上最強”と謳われた日本シリーズ3連覇中の阪急ブレーブスを破っての日本一だから、余計に価値がある。

◆近鉄から監督のオファー

「ヤクルトを辞めてから2年がたった’81年に、阪神、近鉄から監督のオファーがあった。知り合いを通じて阪神の球団社長・小津さんから連絡があり、会ってみると『3年契約でお願いできませんでしょうか』と監督要請の話をされた。でも、俺は5年契約を要求した。というのは3年契約だと選手たちが『どうせ3年経ったら辞めるんだろ』とバカにして言うことを聞かないんだ。だから、やるなら5年契約でやらないと意味がない。こうして阪神の監督就任が破談になった後に、今度は根本さんから西武の監督へと誘いを受けた。最初に長嶋に断られ、上田(利治)にも断られ、そして俺のところへ話が来たんだ」

 こうして、’82年には西武ライオンズの監督に就任。最初に取り組んだのは技術的なことでも戦術的なことでもなく、“食生活の改善”からだった。

 打って投げて、試合が終わったら肉とビールをかっ食らう。これが当時のプロ野球選手のスタンダードという時代だったが、広岡は疲労回復を促進するアルカリ性の食物を多く摂るよう選手に求めた。「コンディションの維持などアマがやること」という風潮が強かった当時の野球界では、広岡の考えは極めて異端だった。

◆新生ライオンズの礎を築くも……

 しかし、食生活の改善が功を奏したのか、ベテランの田淵幸一や山崎裕之が復活を果たし、’82〜’83年と2年連続で日本一に輝く。’85年もリーグ優勝を果たし、のちに黄金期を迎える新生ライオンズの礎を築くも……広岡はこの年限りで監督を辞任することになる。

「根本さん(当時の管理部長)と坂井(保之、元球団代表)の2人がオーナーの堤さんをがっちりガードして、俺に全然会わせてくれなかった。根本さんは『スポーツ紙にいろいろ書かれてもまったく気にしなくていい』と最初は言っていたのに、’85年に東スポにああだこうだと書かれると『この記事はどういうことだ?』と詮索してくるようになった。あまりにうるさいので売り言葉に買い言葉で『じゃあ、もう辞めますよ』って言うと『そうか、辞めてくれるか』だからね。辞める理由も健康上の理由ってことにしておいてくれとまで言われたんだから」

 またもや任期半ばでの辞任となったが、広岡の在任期間4年のうち、3度のリーグ優勝、2度の日本一を達成している。西武はその後、’86年から’95年にかけてリーグ優勝8回、日本一6回。’84年に広岡が若手主体に切り替えたことが黄金期の基盤となったのは言うまでもない。

◆球界とのミスマッチ

「’88年オフには、巨人から監督要請が来た。だけど、(当時監督の)王をクビにしてその後釜で、という話だったから、そんな席にヌケヌケと座れるかと思って断ったんだ」

 自分を裏切り者扱いした巨人を他球団の監督として破り、最終的には巨人からの監督就任の打診を蹴った広岡。その後’95年にはロッテのゼネラルマネージャー(GM)に就任するも、ここでもわずか2年で解任される。その妥協のない指導とスジの通し方が、妥協と談合で塗り固められていた当時の球界とどうしても合わないのだ。あまりにも正論で、並外れて革新的な広岡の思考は、旧態依然とした組織においては最後まで理解されなかった。だが、広岡が残した功績こそが、その思考が正しかったと何よりも雄弁に物語っている。

◆広岡の“信念”

“打撃の神様”川上哲治との確執、そして、信念を貫き通した自分を裏切り者扱いした巨人へのわだかまり……現役時代はもちろん、監督、ゼネラルマネージャーになっても、己の信念と反発心によって自らを突き動かしてきた姿勢は一貫して変わっていない。

 ただ野球界が政治力や駆け引きに左右されず健全に機能してほしい。選手にはプロフェッショナルとして妥協せず、常に研鑽を重ねて品位を持ってプレーしてほしい――。広岡の“信念”は現役時代から60年以上がたった今もブレずに燃え続けている。だからこそ、広岡は89歳になっても誰にも忖度せず、球界のために“正論”を吐き続けている。

【広岡達朗】
32年、広島県呉市生まれ。早稲田大学を経て’54年に巨人に入団。引退後は’76年からヤクルト、’82年から西武の監督を務め、日本一に3度輝く。その後は野球解説者として活動を続け、89歳となった今もコラム連載を多数抱える

取材・文/松永多佳倫 写真/産経新聞社

【松永多佳倫】
1968年生。岐阜県出身。琉球大学大学院在学中。出版社を経て2009年8月よりフリーランスとなり沖縄移住。ノンフィクション作家として沖縄の社会学を研究中。他にもプロ野球、高校野球の書籍等を上梓。著作として『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『沖縄を変えた男 栽弘義―高校野球に捧げた生涯』(ともに集英社文庫)、『マウンドに散った天才投手』(講談社α文庫)、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA)など。現在、小説執筆中

―[プロ野球界でスジを通した男たち]―

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