封印された戦時中の大地震! なぜ、政府は調査しないのか?

tocana / 2013年12月25日 19時40分

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 現在、南海トラフ地震がいつ起きるかということに注目が集まっている。地震調査委員会が2013年1月に出した評価によると、30年以内の発生確率が60~70%となっている。この地震による被害がどのくらい出るのかを知るためには、過去の南海トラフ地震の被害状況について知ることが大切だろう。

 しかし、この記事で問題とするのは、第二次世界大戦中の1944年12月7日に三重県南東沖で発生した「昭和東南海地震」だ。これは、M7.9の地震で、8~10mの津波も発生し、1223名の死者・行方不明者が出た。

 この地震の何が問題かというと、戦時中に発生したために軍部が徹底した報道統制を行い、地震そのものがほとんど報道されず、国民に知らされなかったことだ。翌日の各紙では、地震の発生を伝えるだけで、被害の詳細には一切触れていなかった。

 そして実は、東南海地震だけではなく、戦時中に発生して隠蔽された地震は他にもあったのだ。鳥取地震(1943年)と三河地震(1945年)の2つの地震も、それに該当する。


■鳥取地震 1943年9月10日午後5時36分発生

 現在の鳥取市を震源として発生した直下型地震だった。M7.2で、最大震度6を記録し、1083名の死者が出た。鳥取市の中心部は壊滅し、木造家屋のほとんどは倒壊した。夕食時だったため、いたる場所で火災が起きたという。この時はまだ情報統制はそれほど厳しくなかったのか、その被害状況は海外にも知られ、多数の援助があったという。だが、終戦時に多数の資料が破棄されたり失われたために、地震の規模や被害状況に関しては不明な点が多い。


■昭和東南海地震 1944年12月7日午後1時36分

 紀伊半島東部の熊野灘沖を震源として発生した地震だった。M7.9で、死者・行方不明者は1223人に上った。東海地方に集中していた軍用機の工場はすべて潰され、特に大きな被害が出たという。熟練工たちが次々と戦地へ送られていく中で、軍需工場では、全国の中学校や女学校から動員された10代の学徒たちが働いていた。

 しかし、震災翌日の新聞は「真珠湾攻撃から3年目の記念日」を大きく報じ、地震の発生は最下部に数行だけ短く書かれただけで、具体的な被害の詳細は書かれていなかった。

 それは、軍部が厳しい情報統制を行った結果だった。内務省新聞検閲係が、新聞・通信社に緊急通達し、「誇大刺激的に報道しない」とか「軍需工場の被害に触れないように」と指令を発したのだった。被災地でも厳しい緘口令が敷かれ、被害住民は地震発生の事実や被害について他言しないよう命じられ、話せばスパイ行為にあたると厳しく口止めされた。当時は、米軍による東京都内の空襲も始まるなど、敗戦色が濃厚になっていた時期で、混乱を広げないようにとの配慮だったようだ。そのため、被災地の地方自治体は適切な救護を受けられずに、それが被害をさらに大きくする結果となった。

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