実像を知る男が語る「見沢知廉、革命後の生き様」

TOCANA / 2015年8月29日 11時30分

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 見沢知廉(みさわ・ちれん)が死してから、10年になろうとしている。

 有名な作家ではないが、今年も8月28日から30日まで、見沢を題材にした演劇『天皇ごっこ ~母と息子の囚人狂時代~』がAPOCシアターで上演されるなど、今でもマニアックなファンに愛され続けている。

 千葉刑務所に服役中の1994年10月、『天皇ごっこ』(第三書館)で、第25回新日本文学賞を受賞したのが、見沢の作家デビューだ。同年12月に満期出所すると、獄中で文学賞を獲った作家として、一躍注目を浴びた。出獄後は、『囚人狂時代』『母と息子の囚人狂時代』(ともに新潮社)などを発表。結果は落選だったが、『調律の帝国』(同)で三島由紀夫賞候補にまでなっている。


■筆者と見沢知廉の出会い~成田闘争~

 見沢と私が初めて会ったのは、1978年の5月。見沢が18歳、私は19歳。成田国際空港に反対する闘争の現場だった。その頃、日本に30ほどもあった共産主義を信奉する組織のひとつ「共産主義者同盟(戦旗派)」というセクトに、私たちは属していた。火焔瓶などを使った武力闘争で、世の中が変えられると大まじめに考えていたのだ。

 政府はその年の3月30日に成田空港を開港する予定だった。3月26日、ヘルメットを被り、火焔瓶、鉄パイプ、角材などを持った、第4インター、プロ青同、戦旗派などの、数千のセクト戦士たちが空港に突入。その混乱の中で空港地下にいた10数人のセクト戦士が管制塔にまで登り、ハンマーで管制機器を破壊し、開港は延期された。

 出直し開港が5月20日とされ、再度、阻止闘争が組まれる。その中で、見沢と私は、闘争での怪我人の救護を行う野戦病院に赴いた。結局、3月ほどの闘争にはならず、空港への突入も果たせなかった。野戦病院が闘争現場から遠かったこともあり、怪我人はただひとりもやってこなかった。


■活動家として目覚めた時期

 見沢は、早稲田中学から早稲田高校へ進む、一般的にはエリートコースと見られる道を歩んでいた。だが、中学生の頃には右翼団体に入り、高校では暴走族に入りヤンキーとなっている。

 高校2年の時の学期末試験。教壇に上がって、見沢は答案用紙を破り捨てる。

「点数がすべてを決めるこんな制度に従っていられるか!」

 そう叫ぶと、屋上に上がって「昭和維新の歌」をひとりで歌っていた。彼を追って上がってきたのが、すでに戦旗派で活動していた同級生だった。

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