もし石橋湛山が首相を長く続けていたならば 日経新聞の名物記者が湛山を振り返る

東洋経済オンライン / 2017年11月15日 8時0分

1956年12月の自民党総裁公選で、7票差で岸信介に勝った石橋湛山。72歳の湛山は年明け1月に病に倒れ、わずか65日でその座を岸に譲った(東洋経済写真部)

石橋湛山(1884−1973)は戦前期に東洋経済の記者、編集長、社長を務めたジャーナリスト。戦後は政治家に転じ、1956年12月には首相にのぼりつめた。ところが病に倒れ、わずか65日で首相を退いた。

湛山が健康を維持していたとしたら何が起きただろうか。その後の岸信介内閣はなく、日米関係は大きく異なったものになったかもしれない。戦後の経済政策の中軸も、岸内閣を引き継いだ池田勇人内閣で基盤が固まった官主導ではなく、民主導のものになっていたかもしれない。

東洋経済の創刊記念日である11月15日、読者の皆さまとそのような「もし」を考えたく、日経の永野健二氏に「もし石橋湛山が首相を長く続けていたならば」とのテーマで寄稿をお願いした。

東洋経済オンライン編集長 山田俊浩

朽ちかけていた安倍晋三政権が、小池百合子「希望の党」の大失態でよみがえった。彼女の罪は、経済政策においても「ユリノミクス」などとつぶやいて、あらゆる意味で終わっていたアベノミクスを復活させてしまったことにある。アベノミクスの大胆な修正を図る最後のチャンスを、「働き方改革」という呼び替えによって、終わっていた経済政策の存続を許してしまった。

今1つの懸念は、北朝鮮危機をあおりつつ、軍事同盟強化一本やりで、米ドナルド・トランプ政権との間で日米連携の強化を図りつつあることだ。国際的な危機意識の高まりを背景に、ステレオタイプな安倍首相の直進路線が、世界史の中でも特筆すべき危険なリーダーであるトランプ政権との野合を深めつつある。

■岸を首相にした"真犯人"は誰か

日本の戦後政治の分岐点ともなったのは1960年安保。警職法をめぐる対応の誤りで、安保条約改定を、国民的な運動にまで高め、自らの政権の寿命を縮めたのが、安倍首相の祖父である岸信介だった。

1960年安保改定を、その質的な意味を問わずに「お祖父ちゃんの不人気は間違いだ」と繰り返し、「憲法改正」にまで、踏み出そうとしているのが、長期安定の安倍政権の、もう1つの顔である。

岸が選択した日米軍事同盟路線は、はたして正しかったのか。岸が選択した1960年の選択を、「不当におとしめられ続けた祖父の再評価」として位置づけているのが、安倍政権である。

岸というA級戦犯にも擬せられた人を、GHQ支配の戦後の復興期に、あっけなく首相の座にまで上り詰めさせた、真犯人は誰なのか。

それは朝鮮戦争後の冷戦の構図や、日本経済の急回復を抜きには考えられないが、1955年の保守合同によって1956年に首相に上り詰めたにもかかわらず、あっけなくその座を退いた石橋湛山の政治行動があったことも忘れてはならない。

東洋経済オンライン

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