昭和の東京を縦横無尽に走った「都電」の記憶 かつて日本橋も新宿駅前も電車が走っていた

東洋経済オンライン / 2018年8月19日 7時0分

永代橋を渡る都電。38系統日本橋行き(左)と28系統錦糸町駅行き(筆者撮影)

古い話で恐縮だが、終戦直後の東京の焼け野原に東京都電(以下都電)がたくましく走る姿が映し出されている映画がある。1946(昭和21)年の正月映画として公開された『東京五人男』(東宝・斎藤寅次郎監督)で、名作として黒澤明監督や山田洋次監督も高く評価している作品である。

5人の復員兵が焼け跡の東京でたくましく生きる喜劇で、その中の2人(花菱アチャコ・横山エンタツ)が運転士と車掌という役どころだった。都電5014号が超満員の乗客を乗せ四谷見附付近の勾配をかけ上がってくるシーンが、焼け野原の中でいち早く復興した都電の姿を印象づけていた。

■最盛期には213kmの路線網

都電は終戦後すぐに戦災から立ち上がり、都民の足として戦後復興と高度成長期の東京の発展を支えた。現在は荒川線の12.2kmのみだが、最盛期には営業キロ約213km、最大で41系統を擁し、都内23区を縦横無尽に走った日本最大、世界的にも稀な路面電車網であった。

筆者は1965(昭和40)年初頭に上京した。初めて乗ったのは渋谷―浜町中ノ橋に至る9系統だった。思い出に残る路線は、日本橋を経由して永代橋を渡る38系統・日本橋―門前仲町間である。当時の永代通りはまだマンションもほとんど見られない時代だったが、日本橋付近ではクルマが無秩序に線路内に進入して電車の行方を遮った。

高度経済成長期、道路は慢性的に渋滞が続き電車は定時運行が困難な時代でもあったが、その中を都電は都民の足として走り続けた。

上京して都電を利用し、まず不思議に思ったのは都電の1372mmというゲージ(レールの幅)だった。当時、筆者の知識の中では国鉄在来線をはじめ主な私鉄は1067mmの「狭軌」、新幹線や一部の私鉄は1435mmの「標準軌」、そして当時まだ地方にいくつも存在した軽便鉄道は762mmだったから、都電のゲージは初めて見る規格だった。

このゲージの由来を知るには、東京の市内電車の草創期までさかのぼることになる。都電の前身は1882年に開業した東京馬車鉄道で、1900年代初頭には電化され、のちに東京市(当時)の運営する東京市電となった。馬車鉄道は1372mmゲージを多用していたため、市電もこのゲージを踏襲した。郊外から都心へ向かう民鉄も市電への乗り入れを考えて同じ1372mmゲージを採用した例があり、現在も使用しているのが京王電鉄だ。

■東京「市電」から都電へ

地下鉄が1路線だった戦前、東京市電は主要交通機関として都心の移動を一手に担っていた。「騒音地獄一巡り」と題した1935(昭和10)年の朝日新聞の記事には「騒音の王者」は新宿とあり、特に市電は「“わめく鬼”」と酷評。市電に比べるとバスなど大した問題にならぬ……とあるが、輸送力強化のため大型車両を投入したことが騒音の主因になっていたのであろうし、反面それだけ市電が活性化しつつある時代でもあったようだ。

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