「写っている写真」はただ撮れている写真と違う 「カメラを持ったソーシャルワーカー」の葛藤

東洋経済オンライン / 2019年3月10日 17時0分

今を強く生きている人々を、写真で伝えたい。渋谷敦志さんは世界中のさまざまな紛争や飢餓、災害現場を渡り歩く(写真:hsyncoban/iStock)

何の権利があって、自分はこの悲しみに沈む人たちにカメラを向けているのか──。人道支援に生かせないかと考えて写真を始めた「カメラを持ったソーシャルワーカー」は紛争、飢餓、災害などの現場を踏むたびに、同じ問いを自らに発し続ける。『まなざしが出会う場所へ―越境する写真家として生きる』を書いたフォトグラファーの渋谷敦志氏に聞いた。

■葛藤や逡巡が写真に写り込む

──現場にはどう入るのですか。

国連の機関やNGOなどからの撮影依頼というのもありますが、自分の意思で行くことが多いです。というのも、危険な場所ほど依頼がないから。例えばソマリアは政府が渡航するなと言っていますから、単独で行かざるをえない。帰国して写真や記事を売り込むのですが、大赤字でした。

──そこまでして撮らないこともある……。答えは出ましたか。

はっきりした答えはなく、葛藤、逡巡、後ろめたさばかりで前向きなことは何ひとつないですね。現場では自分の存在なんて無意味に近いと思いながら、でも撮りたい。そうしたエゴイスティックな部分と、いやそれだけじゃない、何かあるという部分のせめぎ合いでシャッターを切っている感じです。

──写真ならではですね。

以前は医者、看護師といった、悲惨な状況の人に直接手を差し伸べられる仕事のほうがまっとうではと思いましたが、次第にそう思わなくなりました。最近は写真でできることは何かを考えています。

──経験を重ねて変わってきた?

本書ではまなざしと表現していますが、置いてきぼりにできない、人の思いを引き受ける、でも、十全には理解できない。自分と相手とに片足ずつ乗っけた形で、引き裂かれるような感覚になるんですが、写真にはそういう感覚が写り込むと思うんですね。そうなれば、僕の葛藤とか、逡巡とかも見る人に届くのではないかと。

──以前はどう折り合いをつけていたのですか。

若い頃は肉体的に追い込んでいました。24歳のときに「国境なき医師団」のエチオピアでの活動を撮ったときは、体力も準備も不足。肉体が疲弊するにつれて「撮るんだ」という自意識が小さくなって、自分が対象に開かれていきました。撮るのではなく写るということがわかった。他者とのつながり方と関係していて、自分を開かないと相手に向き合えないし、写らない。

──表現者に自意識は重要では?

「写っているけど撮れていない」と言われたことがあります。カメラマンの主観で世界を切り取るのが撮るってこと。ちょっと違うなと思いました。世の中、撮れているけど写っていない写真のほうが多いのではないでしょうか。

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