千葉県民の「関所」、錦糸町の変化は止まらない? 交通の利便性は抜群、地下鉄延伸計画もある

東洋経済オンライン / 2019年5月29日 7時10分

「オリナス」は時計を製造する「精工舎」(現・セイコークロックおよびセイコープレシジョン)の工場跡に建てられ、低層階は郊外ショッピングモール風の造りをしたショッピングモール「オリナスモール」、高層階はそれぞれオフィス棟とマンション棟からなる。一方で、こうした再開発によって生まれた商業施設やオフィスビル以外の場所は北も南も中層ビルやマンション、町工場や事業所が混在し、ところ狭しと立ち並んでいることも、このエリアの特徴だ。

こうした錦糸町駅周辺のまちの姿は南側を1つの企業が中心となって作り上げ、北側は再開発により作り上げられてきたといえる。

■阪急の創始者、小林一三が造った「楽天地」

錦糸町は1894年に総武鉄道の本所停車場として開設されたのをきっかけに大きくまちを発展させた。まず駅の南西側に車輌製造の工場が1896年に作られた。

1915年には本所から錦糸町に駅名を改名、その後関東大震災でこのエリアは甚大な被害を受け、震災復興計画で駅南側の道路が拡幅された。それに伴って車輌製造(1901年から汽車製造)の工場は1934年に移転し、跡地を東宝が買い取った。そして1937年に「株式会社江東楽天地」が設立、江東劇場と本所映画館を中心にした「江東楽天地」が開業した。

この「江東楽天地」は小林一三が発起人となっている。これまで盛り場のない錦糸町にこうした興業施設を作るということはチャレンジングな事業であったが、小林はこのエリアに工場が多く、娯楽への欲求は高いとにらんだようだ。その予想は大当たりし、江東楽天地は大いににぎわった。

小林一三が手がける大衆娯楽によるまちの開発といえば、兵庫県宝塚市における温泉地開発や宝塚歌劇
団の創設と似たようなものを感じる人もいるのかもしれない。ただ、宝塚の開発はもとからあった温泉地開発であったと同時に阪急沿線に住む住民の社交場創設を目的としていた。これに対し、錦糸町の開発は元からあった工場地帯に足りない「娯楽」という要素を持ち込んだものである。そのため、錦糸町と宝塚ではそもそもの開発における考え方が大きく異なる。それが今日のまちの姿の違いにもつながっている。

そして、第二次世界大戦後に江東楽天地は事業を拡大していく。劇場を増設し、パチンコビル、場外馬券発売所、子供遊園地、ロープウェイといったさまざまな娯楽施設を敷地内に作った。そして1955年に場外馬券売り場を移転し、跡地に楽天地天然温泉会館を開業させ、経営多角化の端緒を開いた。

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