バナナや紅茶の台湾産業が日本で発展したワケ 日本初のブランド紅茶「日東紅茶」との深い縁

東洋経済オンライン / 2019年10月3日 17時0分

台湾工場甘蕉鐡道運送、戦前の製糖工場のシュガートレイン(写真:『写真帖 大日本製糖株式会社』より)

台湾へ渡った新渡戸稲造は、半年かけて全島を巡り、殖産興業の要は製糖業にあると確信したという。台湾バナナやパイナップル、サトウキビ栽培と砂糖製造、そして今日の化粧品原料生産へとつながった樟脳(しょうのう)など。統治時代から台湾とゆかりが深かった産業の歴史と今を紹介する。

■台湾におけるサトウキビ栽培と砂糖製造の起源

たとえば、1日の朝をこんなふうに始めることはないだろうか。砂糖を入れた甘い紅茶を飲み、朝食代わりにバナナを食べ、手早くメイクをして仕事に出かける――。ありふれた光景だが、私たちの身近にあるこれらのモノをたどってみると、台湾と日本を結ぶ長い関係が見えてくる。

数年前、台湾中部の雲林県虎尾鎮(フーフェイ)を訪れたことがある。かつて虎尾が「糖都」と呼ばれたのは、明治42年に「大日本製糖」(明治28年、渋沢栄一が設立した「日本精製糖」が前身)工場が操業を開始したことにさかのぼる。当時の豪壮な施設が現存し、現在は「台糖公司虎尾糖廠」として操業中だ。サトウキビの収穫期にはシュガートレインが走り、観光客も多くやって来るという。虎尾の街全体に甘い香りが漂っているようだった。

台湾におけるサトウキビ栽培と砂糖製造の起源ははっきりしないが、15世紀から本格化した漢民族の移住によるとされる。オランダ統治時代、鄭(テイ)氏政権時代、清朝統治時代を通じて、砂糖は日本を含むアジア市場を中心とした有力な貿易品であった。東インド会社や中国商人などが貿易を担ったが、規模は小さく、飛躍的に発展するのは、日本が台湾を領有した明治28年以降のことになる。

第4代台湾総督児玉源太郎は、それまでの治世方針を転換(「討伐」から「統治」へ)し、彼が抜擢したのが、明治31年に民政長官(当初は民政局長)に就任した後藤新平である。在任中に台湾の近代化を推進し、産業の育成と発展を奨励した。

後藤は着任間もなく、三井財閥系など財界有力者を説得し、「台湾製糖」の設立(明治33年設立。35年、台南にて操業開始)を導いた。また、明治34年、同郷の新渡戸稲造(農学研究者、思想家)を招聘する。殖産局長に就任した新渡戸はジャワ糖業の視察に赴き、さらに台湾島内を踏査した結果を「糖業改良意見書」にまとめ、サトウキビの品種改良・製造・市場についての具体的方策を説いた。

これを受け入れた台湾総督府は、「台湾糖業奨励規則」(明治35年)を発布。苗や肥料の費用、開墾や灌漑にかかわる諸費用、精糖機械などの費用に対し、「奨励金」が下付され、製糖会社設立の機運が高まった。

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