文章でひも解く明智光秀が信長討った真の狙い 命運を分けた「コミュニケーション」能力

東洋経済オンライン / 2020年1月19日 7時20分

織田家一の出世頭、明智光秀はなぜ「本能寺の変」を起こしたのでしょうか?(写真:MORIKAZU/PIXTA)

日本史の大いなる謎と称されるものの中に、明智光秀が織田信長を弑逆(しいぎゃく=家臣が主君を殺害)した「本能寺の変」が挙げられます。

次に挙げたのは、その光秀が謀叛(むほん)に及ぶ1年前に、自らの家臣団に宛てて述べた「家中軍法」の一節を現代語訳したものです。内容自体は、明智の兵としての心構えや、軍編成についての記述なので、詳細は省略しますが、最後の締めの部分は興味深い文章です。

■「家中軍法」のポイントは?

「右のとおり軍法を定め置くうえは、実戦経験者はなお精進を怠らず、未熟の者はよく理解せよ。私は瓦礫沈淪(がれきちんりん=かわらや小石のごとく沈んでいた境遇)のような低い身分から、信長さまに取り立てられて、このような莫大な軍勢を任されるまでになった。

軍律もよくわきまえず、武勇も功績もあげない者は、国家(織田家)の穀つぶしで、公のものを掠〈かす〉め取るにも等しい。日々精進している者からは軽蔑・嘲笑の対象にもされるであろう。奮起して抜群の功績をあげたならば、必ず信長さまに報告し、重く取り立てるであろうから、この家中軍法をよく守ってほしい。 天正九年六月二日 日向守光秀」

このとき、光秀は主君である信長に、わが身の出世を感謝しています。

これは「本能寺の変」の1年前。光秀本人が「瓦礫」(=価値のないもの)と表現しているように、彼の前半生は、21世紀の令和の時代にいたってもなお、ことごとくが謎に包まれたままです。

「本能寺の変」の動機も、光秀その人も、すべて不詳――。

よく美濃源氏の土岐氏の系譜に連なっていたとか、明智城の城主の息子であったとの話を耳にしますが、これらはことごとく、江戸時代中期に編纂された『明智軍記』の記すところであり、この書籍は「史料的価値には乏しいが類書も少ないので便宜使用されている」(『国史大辞典』)にすぎない、「軍記物」であり、全体が「物語」で、内容に史実ではない記述も多い、根拠の確認できないものでしかありません。

ただ、明らかなことは、この人物が歴史の表舞台に登場してから「本能寺の変」まで、たった14年しかなかったことです。

永禄12年(1569年)正月、光秀は確かな記録『信長公記』(太田牛一著)の中で、信長が京を留守にした機会を捉えて、三好三人衆が、信長の後押しをする15代将軍・足利義昭を京の六条・本圀寺(ほんこくじ)に攻めた折、立てこもって奮戦した多くの人数の一人に数えられていました。

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