「何もない」大崎は鉄道を支えた工業の街だった 来年120周年、悲しそうな「自虐キャラ」で注目

東洋経済オンライン / 2020年10月18日 7時50分

短絡線は日本鉄道品川線と呼ばれることになるが、1885年の品川線開業時には赤羽駅と品川駅のほか、板橋駅・新宿駅・渋谷駅が同時開業した。約半月後には、目白駅と目黒駅も開設されている。

■鉄道に不可欠だったガラス工場

大崎駅は、それから6年遅れて1901年に開業した。翌年、大崎駅は貨物の取り扱いを開始する。これ以降、大崎駅一帯に工場が集まるようになり、鉄道の発展を下支えする原動力にもなっていくわけだが、大崎駅の開業以前、つまり前史にあたる時期にも目黒川の舟運が注目されて、大崎に工場が集まっていた。

大崎駅の開業前から操業を開始し、鉄道業界に影響を与えた企業としては品川硝子製造所と品川白煉瓦(現・品川リフラクトリーズ)の2社が挙げられる。前者は、一見すると鉄道とは無関係のように思うかもしれない。しかし、ガラス製造ができなければ、鉄道を走らせることはできない。なぜなら、高速で走る列車にはガラス窓が欠かせないからだ。

幕末には、渋沢栄一や井上勝、伊藤博文、井上馨といった、のちに鉄道業界の黎明期を支えた人物が海外に渡航した。彼らは、そこで鉄道の必要性を実感する。2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公でもある渋沢栄一は、現在のエジプトで初めて鉄道に乗車した。当時、スエズ運河は開削工事中だったので船で移動することはできず、渋沢はスエズから地中海に面するアレクサンドリアまで汽車で移動。このとき、渋沢はガラス窓を初めて知った。

当時の日本は、江戸切子や薩摩切子といったガラス製の食器などを製造できる技術は持ち合わせていた。しかし、日本に板ガラスを量産化する技術はなかった。板ガラスの国産化と量産化によって窓ガラスは成り立つ。鉄道にとって、窓ガラスは不可欠だった。

品川硝子製造所は、三条実美の家令を務めた丹羽正庸が1873年に設立した興業社を前身とする。鉄道の推進という政府の目的もあって、工部省が1876年に買収。最終的に板ガラスの製造は成功したものの、採算にのらなかったことから工場は再び民間へ売却された。

一方、後者の品川白煉瓦も鉄道を支えるうえで欠かせない企業だった。品川白煉瓦は1875年に西村勝三が芝浦で創業。広大な工場用地を求めて、1887年に大崎へと移転してきた。

レンガと聞けば、赤レンガを思い浮かべるだろう。白レンガという建築資材は、一般的に馴染みが薄い。赤レンガは見た目が美しいゆえに、化粧材として使用されることが多い。それゆえに、目にする機会も多い。他方、白レンガは耐火性に優れているので、主に構造材として用いられる。近代工業を推進するうえでも必要不可欠で、富岡製糸場をはじめ東京瓦斯局や八幡製鉄所などにも使用された。

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