「本能寺の変」前日、信長が決行した茶会の真相 「本能寺の変」の真犯人を巡るひとつの視点

東洋経済オンライン / 2021年1月5日 22時0分

本能寺の変の前日の織田信長の行動にこそ、真相が隠されているという(写真:skipinof/PIXTA)

大河ドラマ「麒麟がくる」の影響で、「本能寺の変」が話題である。茶道研究家の視点から明智光秀の行動を分析してきた井上慶雪氏によれば、本能寺の変の前日の織田信長の行動にこそ、真相が隠されている。氏の新刊『本能寺の変 信長の誤算』から、本能寺の変の真実に迫ってみたい。

■茶会の相手は「公卿衆」ではない

本来は茶道研究家である私にとって、本能寺の変の前日に信長が主催した茶会は非常に興味深いものである。「本能寺の変の犯人は羽柴秀吉であって明智光秀は冤罪である」という、私の長年の主張を裏付ける重要な証拠と考えている。

その説明の前に、当時の織田信長の状況を振り返ってみたい。

天正10年3月、念願の宿敵・武田家を滅亡させた織田信長にとって、残る敵は東に北条家・上杉家、そして西の大名・毛利家である。いよいよ、念願の「天下布武」の達成が目前になっていた。

5月17日の羽柴秀吉からの早馬で毛利攻めを決意した信長は、その遠征に先立って5月29日、38点の大名物茶器とわずかな供廻りだけで急遽上洛して本能寺入りした。

ところが6月1日の雨の中、信長入京祝賀の名目で、公卿衆約40名が大挙して表敬訪問してきたのである。そしてこの公卿衆を相手に「本能寺茶会」を催したというのが通説になっているのだが、これはまったくの間違いである。

間違っている根拠を申し上げると、

・この公卿衆・大陳情団の中に山科言経(ときつね)という公卿がおり、その日の彼の日記『言経卿記』に、はっきりと「進物被返了」(進物はすべて返された)とある。つまり信長は、公卿衆からの進物を断った。招かざる客への「面会謝絶」の宣言そのものである。面会謝絶の公卿衆を相手に茶会を催すことなどありえない。

・茶会に関白・近衛先久や、博多の商人も同席していたとあるが、殿上人と地下人(博多の商人)が同席することもありえないことである。

・陰暦6月1日はすでに盛夏であり、京の夏は蒸し暑く昼日中の茶会はありえないことで、「朝茶会」でなければならない。

上記の『言経卿記』には、「数刻御雑談、茶子・茶有之、大慶々々」とある。いくら不意の客衆とはいえ相手はれっきとした公卿衆であり、数刻も雑談して粘られたのだから、軽いお凌(しの)ぎとして松花堂弁当のような粗餐と酒が軽く振る舞われ、後にお茶が出されたのであろう。だが決して「茶会」ではなかったはずである。

■信長が招きたかった本当の客人

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