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「本能寺の変」前日、信長が決行した茶会の真相 「本能寺の変」の真犯人を巡るひとつの視点

東洋経済オンライン / 2021年1月5日 22時0分

ではなぜ38点もの「大名物茶器」を大雨の中、わざわざ安土城から運んできたのか。その理由は実に明白である。博多の豪商茶人・島井宗室とその義弟の神谷宗湛に披露する茶会を催すためである。つまり、本能寺の変の前日の茶会の相手は、公家たちではなく、鳥井宗室・神谷宗湛だったのである。

2人は博多の豪商茶人であり、しかも島井宗室は、大名物茶入「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」の所有者として、つとに著名な茶人だった。

信長はすでに「初花(はつはな)肩衝」と「新田(にった)肩衝」という大名物茶入を所持していたのだが、この「楢柴肩衝」を入手すると天下の三大・大名物茶入がそろうことになり、まさに信長の垂涎(すいぜん)の的の茶入だった。

そもそも茶入が茶道具の中でも最高位の物とされ、大方は「肩衝」、「茄子(なす)」、「文琳(ぶんりん)」、「その他」に大別できるが、なかんずく「肩衝」がその第一である。「初花肩衝」、「新田肩衝」、そしてこの「楢柴肩衝」という銘のある三器をこの時点でそろって所持した者はおらず、この「楢柴肩衝」さえ入手すれば、信長こそ天下に隠れなき最初の大茶人に成りえたのだ。

島井宗室が5月中旬から京都に滞在しており、6月初旬には博多に向けて京を立つ旨の情報を信長に伝えたのは、千宗易(利休)だと思われる。

信長にしてみれば、玩具屋の前で物をせがむ小児さながら、宗室在京のこの機を逸したら当分の間「楢柴肩衝」入手の機会が遠のく、という焦りがあり、何としてでも宗室に会いたい。

だが初対面の博多の豪商に「予の上洛まで待て」とは、いくら信長にしてもまだ言えない。とにかくこちらから会いに行くしかないのだ。

■「楢柴肩衝」は信長を京都に誘き出すわなだった

援軍を要請する羽柴秀吉の早馬により、「天下布武」達成の最後の決戦たるべく、西国制覇のため自らも軍勢を率いて出陣を決意したところであり、ぜひとも「楢柴肩衝」譲渡の話だけはつけておきたい。

そのため、千宗易から島井宗室に連絡を入れさせ、「6月1日なれば、上様の御館に参上仕つる」との確約を得たのであろう。

かくして信長は、安土城から38点もの「大名物茶器」を運んで「楢柴肩衝」の茶入欲しさに5月29日の大雨の中、最も無防備な形で本能寺に入ってしまったのだ。

この事実は単なる推論ではない。38点の「大名物茶器」に関して、「本能寺の変」より11年後の文禄2年(1593年)、堺の茶人・宗魯(そうろ)によって筆録された『仙茶集』の中に、【島井宗叱(宗室)宛て長庵の道具目録】が収録されており、その冒頭に「京ニテウセ(失せ)候道具」とあって、以下、件(くだん)の38点が記載されているのである。

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