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やたら敵作る「徳川慶喜」期待を何度も裏切る真意 開国派なのに暴言吐いて攘夷望む朝廷側で奮闘

東洋経済オンライン / 2021年5月16日 9時0分

徳川慶喜の素顔に迫る短期連載の第4回をお届けします(写真:近現代PL/アフロ)

「名君」か「暗君」か、評価が大きく分かれるのが、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜である。慶喜の行動は真意を推しはかることが難しく、性格も一筋縄ではいかない。それが、評価を難しくする要因の1つであり、人間「徳川慶喜」の魅力といってもよいだろう。その素顔に迫る短期連載の第4回は、幕府を離れて朝廷に近づく慶喜による、大胆な言動についてお届けする。

<第3回までのあらすじ>
江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜は、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、その聡明さから、みなの期待を一身に背負って育った。何しろ幕政は混乱の中にある。この局面を打開できる優秀なリーダーが今こそ必要であり、それが慶喜だと周囲は盛り上がった。そんな中、何とか貧乏くじを引かずにすむように立ち回る慶喜(第1回)。だが、若き将軍、家茂の後見職の座に就くことになり、「文久の改革」と呼ばれる幕政改革に着手。徐々に政権の中枢に据えられていく(第2回)。優れた開国論を心に秘めていた慶喜は、攘夷など非現実的だと思いながらも、朝廷と幕府の板挟みに苦しむ。京に上った慶喜を待ち受けていたのは、激しい攘夷の催促だった(第3回)。

■本音は「どうせ攘夷なんかできない」

その場しのぎで、幕府が朝廷と交わした攘夷の約束について説明するため、慶喜は文久3(1863)年1月5日、将軍の徳川家茂に先立って、京に入る。そこで、慶喜は朝廷や尊王志士たちのプレッシャーに耐え切れず、攘夷の期限を約束してしまった。

だが、慶喜を責めるのは酷だろう。なにしろ、公卿たちが旅館にまで乗り込んできて、脅されたのだから穏やかではない。慶喜は、将軍の家茂がまだ京に来ていない段階で、「将軍が江戸に帰ってから20日後」と攘夷の期日を決めさせられている。

家茂が京に来るのは、3月10日。10日間ほど京に滞在するとすれば、江戸には3月20日以降に戻ることになり、そこから20日後だから、攘夷は「4月中旬くらい」と答えたに等しい。結局、家茂が京に長く留め置かれたため、攘夷の期限は「5月10日」に定められた。

もちろん、4月だろうが、5月だろうが、攘夷など簡単にできるわけがない。うるさい尊王攘夷派の公卿どもや長州藩を黙らせるために、とりあえずの期限を決めたにすぎない。

慶喜はこんな身も蓋もないことを言っている。

「到底行うべからざる攘夷なれば、また行われざる程の期日に定むべし」

どうせ攘夷なんてできないんだから、できもしない期日に決めてしまえ――。要は適当に決めたのである。このあたりの慶喜の「話のわからない人間は相手にしない」という割り切りは、幼少期から複雑な人間関係の渦中にあったがゆえだろう。

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