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鉄道の群雄割拠で発展、工業都市「四日市」の軌跡 産業を支えた国鉄・JR、旅客輸送は近鉄が圧倒

東洋経済オンライン / 2021年8月25日 8時30分

昭和20年代までは街の中心だったJRの四日市駅。現在はやや寂しい雰囲気が漂う(筆者撮影)

名古屋市の河村たかし市長が東京五輪ソフトボール日本代表・後藤希友選手の金メダルを噛んだことで世間から批判を浴びた。

奇抜な行動で注目されがちな河村市長だが、2009年の就任直後から、SLを名古屋で走らせたいと宣言し、その意気込みは変わっていない。2013年には、名古屋駅と金城ふ頭駅とを結ぶ西名古屋港線(あおなみ線)でSLの運行を実現。これは単発イベントのため、SLはJR西日本から借りる形で調達した。

定期的なSL運行を目指す河村市長は、名古屋市科学館に屋外展示されていたSLを修理することを検討。今年8月には、圧縮空気で動輪を動かせる形にして展示すると表明した。このSLは、ドイツ製の「B6」という機関車。B6はイギリスやアメリカなどでも製造されたものの、ドイツ製は国内で同科学館にしか保存されていない。

このB6は過去に石原産業が所有しており、三重県四日市の工場へ物資を輸送するために使われていた。四日市には石原産業だけではなく、多くの化学メーカーが工場を置いているが、工業都市として発展を遂げる原動力になっているのが良港・四日市港と鉄道の存在だった。

■鉄道ルートから外れる危機感

現在は東海道本線が名古屋から岐阜・大垣・草津を通り抜けていくので誤解されやすいが、明治以前まで四日市は東海道筋の宿場町としてにぎわっていた。

明治維新後も東海道の宿場町として発展を続けるが、それを大きく揺るがす事態が鉄道の開通だった。大阪・京都から延びてきた線路は名古屋を経由して東へと延びる。東海道本線のルートから外れた四日市が衰退することは誰の目にも明らかだった。

その危機感は、地元も早い段階で察知していた。廻船問屋として財を築いた四日市の豪商・稲葉三右衛門は、日本初の鉄道となる新橋(後の汐留)―横浜(現・桜木町)間が開通した直後の1873年から、私財を投じて四日市港の修築に着手した。

稲葉が四日市港の修築に着手した時点では、東京―大阪間を結ぶ東海道本線の構想は固まっていたものの、詳細なルートまでは決まっていなかった。つまり、東海道本線が四日市を通る可能性も残っていた。

それでも稲葉は先手を打って四日市港の修築に動いた。稲葉の先見性と即断が現在にもつながる工業都市・四日市の基礎を築くことになるが、四日市港修築事業は稲葉の私財で進められていたこともあり、小規模な修築にとどまった。

四日市港の近隣には桑名港というライバルがいた。物流拠点として桑名港を上回るためには、港湾整備だけではなく先へとつながる鉄道の整備も欠かせない。稲葉ら四日市の有志たちは、四日市港から北陸の拠点港でありロシア・中国への玄関でもある敦賀港までを結ぶ勢江鉄道を計画。これは、四日市から東海道本線の関ケ原駅を経由し木ノ本駅で北陸本線と合流する路線だった。

当時、東海道本線は東西の両都をつなげるべく、線路の建設が急がれていた。しかし、関ケ原付近は難所のため工事は足踏みしていた。稲葉はそこに着目していた。関ケ原から東へと進むのではなく南へ、つまり四日市方面へ線路を建設する勢江鉄道のほうが早く工事を完了できると政府に提案。政府は稲葉の提案を却下したが、稲葉をはじめとする四日市の政財界人は鉄道を諦めなかった。

■将来性を見抜いた渋沢栄一

今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一は、四日市の将来性を予見し、1884年には第一国立銀行の四日市支店を開設。渋沢は、稲葉たち四日市財界の協力要請に応じ、三重県のみならず東京・大阪の実業家にも鉄道計画への出資を呼びかけた。稲葉たちが計画していた勢江鉄道とは規模もルートも変更されたが、こうして四日市と岐阜県の垂井を結ぶ濃勢鉄道の計画が進められていく。

渋沢は銀行・鉄道・倉庫を中心に四日市を工業化し、それが中京圏全体の経済活性化につながると考えた。つまり、銀行により事業資金を確保し、鉄道により販路を広げ、倉庫によって生産した商品を確保するというビジネスサイクルを整えることを想定していた。

【2021年9月01日09時20分追記:初出時、渋沢栄一と企業設立に関する経緯の記述に誤りがあったため修正いたしました】

実は渋沢が四日市へと進出する以前から、四日市には明治新政府による殖産興業の種が撒かれていた。新政府は富国強兵・殖産興業を2大スローガンに掲げたが、殖産興業では製糸業・紡績業がもっとも有望な事業と目されていた。そのため、新政府は1878年に2000錘の紡績機を購入。それを各地の事業者へ貸し付けて産業育成を図った。これら政府によって生まれた紡績工場は十基紡と呼ばれる。

1882年、伊藤伝七(9代目)が三重紡績所を開設。しかし、すぐに伊藤が死去してしまうなど、事業は難航した。ピンチを脱するため、後を継いだ息子の伊藤伝七(10代目)は四日市へと進出したばかりの渋沢に相談を持ちかける。

渋沢は大阪財界人たちと大阪紡績(現・東洋紡)を立ち上げていたこともあり、多額の資本金を出資して伊藤を救済。三重紡績と社名を改めて再出発する。三重紡績が息を吹き返すと、四日市には四日市製紙・四日市製油といった、渋沢が経営をバックアップした企業が次々と誕生した。

明治10年代末になると、各地から鉄道を求める声が強くなる。政府は鉄道建設に割ける人員も予算もなく、政府に代わって各地で私鉄が開業することになる。

京都・滋賀・三重県の財界人たちは、東海道本線のルートから外れたことで地域の衰退を心配していた。そのため、桑名の資産家である諸戸清六を筆頭に元彦根藩主だった井伊直憲などが出資した関西鉄道(現在の関西本線の前身)を1888年に設立。発足当初は四日市に本社を構えたが、線路は滋賀県の草津から敷設していった。

そして1890年に線路が四日市まで到達し、「四日市駅」が開業する。駅の開設と同時に、隣接地には鉄道の整備工場が併設された。整備工場は1924年に名古屋へ移転するが、同工場で働いていた技術者たちの多くは移転後も残った。彼らは独立し、それらが四日市の機械工業を牽引していく存在になる。

■都市化で私鉄が相次ぎ開業

工業で発展を遂げた四日市は、1897年には市制を施行。1906年には市の4大事業として港湾と埋立造成地の拡張・整備に着手し、1910年には三重県が四日市港第一期修築事業を開始。1920年には四日市駅から四日市港へと延びる貨物支線が開業し、工業都市化は加速していく。

これに呼応するように、四日市は工業のみならず都市化も進む。官営鉄道の四日市駅は、その役割から港に近く繁華街とは離れていた。そのため、四日市駅から繁華街に近い諏訪駅(現在の近鉄四日市駅付近)へとアクセスする三重軌道(現・四日市あすなろう鉄道)や四日市鉄道(現・近鉄湯の山線)などが1912〜1913年にかけて次々と開業した。

後述するが、三重県の私鉄は1960年代に近鉄に統合されるまで、中小私鉄が乱立していた。そのため、歴史的にも鉄道網の変遷は激しい土地柄といえる。その背景には、名古屋と大阪という2大都市に挟まれていることや、四日市が工業都市として発展をとげていたために多くの資本家が進出することを狙っていたことなどが挙げられる。

工業都市として発展していく四日市は、大正期までは軽工業が中心だった。四日市の代表的な風景として語られる石油コンビナートが増えるのは、時代が昭和に移ってからだ。

四日市の重工業化はさまざまな要因によるものだが、その端緒となったのが川崎臨海部の埋立造成事業を手がけていた浅野総一郎が率いる東京湾埋立株式会社の進出だった。川崎臨海部の事業が終了に近づきつつあったため、次の目標として四日市に着目した。

四日市へ進出を考えた理由は、これまでのノウハウを生かせることも大きな要因だったが、浅野がセメント事業によって財を築いていたことが大きく起因している。四日市の近くには、セメントの原料となる石灰石を多く産出する藤原岳がある。浅野は同時期にセメントを運搬するために三岐鉄道にも出資していた。

民間資本により港湾整備や工業振興ができるということもあり、四日市政財界は浅野を歓迎した。浅野本人は直後に没するが、浅野財閥によって港湾・鉄道整備は進み、四日市の工業はさらに活発化していく。

■私鉄の路線網が発達

前述したように三重県は多くの中小私鉄が群雄割拠する状態だったが、明治末から大阪電気軌道(大軌、現在の近鉄の前身)が伊勢神宮への参拝輸送の需要に着目し、三重県へ進出する機会を狙って中小私鉄を次々と合併していた。1927年には子会社の参宮急行電鉄(参急)を設立して、伊勢神宮の玄関となる宇治山田駅を開設している。

三重県の政財界は大軌グループの伊勢進出に戦々恐々としていた。四日市製紙で取締役、四日市銀行の頭取も務めるなど四日市財界の重鎮だった熊沢一衛は、業績不振だった四日市―津間の私鉄、伊勢鉄道の社長に就任して伊勢電気鉄道(伊勢電)と改称し、大軌に対抗する。

伊勢電は四日市鉄道や養老鉄道を系列に加え、さらに名古屋方面への延伸を計画した。しかし、大軌との争いに焦って政界工作をしかけたことが裏目に出て熊沢は逮捕される。これが引き金になり、熊沢は社長を辞任。主を失った伊勢電は1936年に参急と合併し、大軌系列に加わる。大軌グループはこうして三重県内の私鉄統合を進め、現在の近鉄路線網の基礎を築いた。戦後、近鉄は1965年に三重電気鉄道(現在の四日市あすなろう鉄道、近鉄志摩線などの前身)を合併し、県内の私鉄のほとんどが近鉄に統合された。

伊勢電が参急と合併した1936年、四日市市は港湾施設の完成を祝して「国産振興四日市大博覧会」を開催。工業製品の国産化奨励や貿易の促進といった目的を掲げた同博覧会の開催により、工業都市・四日市の名前は全国に知れ渡った。

同年には、日本板硝子の四日市工場が操業を開始。これを皮切りに重化学メーカーの工場が増えていくが、冒頭で触れたB6を自社の運搬用に導入した石原産業も、この時期に石原産業海運という子会社を設立して四日市へと進出している。

四日市を重化学工業都市として決定づけたのは、1941年に稼働した第二海軍燃料廠だった。約215万平方メートルという広大な燃料廠は、国内最大級の日産2万5000バレルという石油精製能力を有していた。

それだけに海軍からの期待も高く、敷地内および周辺には空襲に備えるための高射砲座が5基も設置されたほか、約4600人を収容できる鉄筋コンクリート製の防空壕が163カ所もつくられている。

戦前期に重化学工業都市・四日市を牽引した工場群は終戦直前に繰り返し空襲を受けた。そのため、市内の被害は甚大だった。戦災復興はこれらの工場を再生するところから始まるが、旧陸軍製絨本廠四日市製造所や旧第二海軍燃料廠といった軍需工場は民需転換を迫られる。

産業の転換が図られることになると、市内の中心軸は工場が立地する沿岸部から内陸部へと移動していく。それに伴い、近鉄は駅の移設を計画。急カーブが連続していたルートを大幅に変更し、1956年、従来は国鉄四日市駅付近にあった旧四日市駅をそれまでの諏訪駅付近に移し、「近畿日本四日市駅」(現・近鉄四日市)を新設した。現在、市の中心駅としては近鉄四日市駅が圧倒的な存在感を示している。

■公害を乗り越えて

一方、国鉄の四日市駅は戦災復興という名目で改築されたが、近鉄四日市駅が移転した1956年頃から駅舎の拡張が議論された。当初は百貨店を併設する駅ビル計画もあったが、国鉄と地元の要望が噛み合わず、最終的にこぢんまりとした駅舎になっている。

また、国鉄は近鉄に対抗するため四日市駅を軸にした鉄道網の再構築に取り組んでいた。紀勢本線が全通するのを控え、政財界が関西本線複線電化促進連盟を1958年に結成。それらの動きと連動して、四日市市と県都・津市を結ぶ短絡線の建設も要望が強まった。この短絡線は1973年に伊勢線(現・伊勢鉄道)として結実した。旅客輸送は近鉄が主力でも、貨物輸送では重要拠点であり続けている。

1952年にサンフランシスコ平和条約が発効されると、政府は経済の自立策として石油化学製品の国産化に旗を振った。戦前期から石油精製企業が多く立地していた四日市は、国の政策と高度経済成長という時代の追い風を受けて劇的に活性化していく。

しかし、1960年には東京築地中央卸売市場で「四日市の魚は油臭いから、厳重な検査が必要」と通告されるほど、工場を原因とする水質汚濁が深刻化していた。市民への健康被害も次々と報告されることになり、市は公害防止対策委員会を設置。三重県も1963年に公害対策室を新設した。1967年から始まった四日市公害裁判は、1972年に原告が勝訴。以降、四日市市は厳格な大気・水質汚染対策を講じて、公害の克服に努めている。

現在の四日市は名古屋圏のベッドタウンとしての趣を強くしている。過去には公害の象徴的な存在だった工場群は夜景をウリにした観光コンテンツへと姿を変えるなど、新たな時代を迎えつつある。

小川 裕夫:フリーランスライター

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