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信頼される男・武田信玄の居城が小さかった理由 「人は石垣、人は城」を実践した賢将

東洋経済オンライン / 2021年9月24日 16時0分

私たちは組織に属して生きている。「人事」が重要なのは戦国時代も同じで……(写真:takashi/PIXTA)

現代を生きる私たちの多くは、なんらかの組織に属し、組織人として生きている。そして、組織のなかで生きる以上、「人事」は無視できないだろう。もちろん、「人事」が重要なのは現代に限らない。

歴史学の第一人者たちである遠山美都男、関幸彦、山本博文の3氏が「抜擢」「派閥」「左遷」「昇進」などから歴史を読み解いたユニークな日本通史『人事の日本史』。本書から武田信玄の「『人材』を見抜くための眼力」について抜粋して紹介する。

■戦国の雄、武田信玄

戦国の雄として知られた武田信玄の居城、躑躅ケ崎は、まことに小さかったという。江戸時代、荻生徂徠が甲斐を訪れたときの感想だ。

信玄の偉業との隔たりが大きかったせいもあり、徂徠はそう感じたにちがいない。たしかに信長の安土城などと比べればそうであったろう。だが、ライバルだった越後の上杉謙信の春日山城に比べても見劣りがしたようだ。

信玄らしいという点は、この居館の姿に、実用に徹したその生き方が語られている。

信玄の有名な言葉がある。

「人は石垣、人は城。情は味方、仇は敵」

軍学書として知られる『甲陽軍鑑』に収められる、徂徠の「峡中紀行」も引用する一節だ。ご存じの読者も多いだろう。

たしかに信玄は領国の要を「人」においたことがうかがえる。領国の経営と安定のために、領内の武士と農民をしっかりつかまえておけばよい。城の構えは二の次だ、との思考が見える。

居城や館はシンボリックなものとして、当時の戦国大名たちが巨大さを競ったことも事実だが、一方ではこの信玄のように虚飾を棄てた人物もいた。

堅固な城は領内での反乱に対する防御のためももちろんあった。だが、信玄は配下の武士、農民ともどもが自己の陣営のために命を張ることを疑わなかった。

とすれば、堅固な城もなんら必要はないし、まして石垣や堀で城を補強することもない。これが「人は石垣、人は城」の本質ということになる。ここには人間第一主義ともいうべき領国経営の方針が見事に表現されている。

これは経営者にもあてはまる。公私を混同し、社員の福利厚生と称して御殿のような屋敷を建てる輩もいる。だが、それでは社員に愛社精神は芽生えない。社員を城という会社に同化させ、アイデンティティを醸し出す算段こそが問われる。

では信玄は、この人間第一主義をどう展開したのか。

■目先の利にとらわれない生き方

その前に簡単に、その生涯を振り返っておこう。

信玄は大永元(1521)年に甲斐守護武田信虎の長男として誕生した。北条早雲がこの2年前に死去している。また毛利元就が家督を継いだ時期に近い。信長の誕生はこの十数年後だった。

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