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ディズニーシー、開業までの苦闘と20年の歩み 当初は海ではなくスタジオパークの計画だった

東洋経済オンライン / 2021年10月2日 11時0分

20周年のグリーティングイベントでファンに手を振るミッキーたち。コロナ禍のため大規模なショーを控えるなど、例年よりもイベント自体を縮小して開催している(ⒸDisney)

東京ディズニーシーの中央に位置するメディテレーニアンハーバー。ミッキーやミニー、ドナルドたちを乗せた船が登場すると、ゲストのテンションが一気に上昇する。ミッキーたちは目いっぱい手を振り、ゲストも返す。振り付けをマスターし、笑顔で踊り続けるゲストもいる。

シーは9月4日に開業20周年を迎え、周年イベント「タイム・トウ・シャイン!」を開催中だ。キャラクターと触れ合う「グリーティング」イベントに加え、パーク内のさまざまな場所に20周年のデコレーションが施されている。ショップでは限定グッズ、レストランもスペシャルメニューを提供する。

「7つの海」をコンセプトとし、今でこそディズニーランドに並び、確たる人気を誇るシー。だが、オリエンタルランドにとっては想像を絶する難産で、紆余曲折の歴史を持つことは、一部のファン以外には知られていない。

■当初は「ディズニースタジオ」だった

後のシーとなる「第二パーク構想」が持ち上がったのは、ランド開業から4年後の1987年。ランドを開発してもなお、千葉県から払い下げられた広大な土地が残されていた。構想を正式発表した1988年には京葉線が開通し、5周年を迎えたランドの入園者数はすでに年間1300万人を突破。予想を上回る増加ペースとなり、パーク拡張は急務だった。

当初ディズニー社が示したのは、映画スタジオをベースにした「ディズニー・ハリウッド・マジック」構想。これは、アメリカ・フロリダにある「ディズニー・ハリウッド・スタジオ」(1989年開業)をモデルとしたものだ。

しかし、巨大な映画産業を抱えるアメリカと日本では、映画に対する熱量が異なる。パークの立地も、アメリカでは旅行先となるフロリダと日帰りの多い東京近郊では違うのではないか。オリエンタルランド社内でも見方が分かれ、明確な否定ができないまま、本格的なビジネス交渉に突入していく。

ディズニー社との交渉の厳しさは、加賀見俊夫会長兼CEOが著書『海を超える想像力』で明かしている。専門部署を新設して検討を進めたものの、巨額な予算の圧縮に力を入れるあまり、コンセプトの策定がおろそかになっていたという。

そんな姿に業を煮やしたディズニー社は1991年7月、何と最後通牒の書簡を突きつける。

「オリエンタルランドには失望した。目標を達成する見込みがないのであれば、このプロジェクトはやるべきではない」

白紙撤回の危機を目前に、経営陣は根本から計画を見直すことになる。結果的にはスタジオを断念し、方向転換をディズニー側に伝えるのだった。そうした中でも「ランドと異なる魅力を持つパークを作り、ファンに何度も足を運んでもらえるようにする」との姿勢は明確で、強気のディズニー社に対しても譲ることはなかった。

■コンセプトは固まったが・・・

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