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道長の躍進支えた「源倫子」がキレた"夫の失言" お祝いの場でいきなり退席し、道長は困惑する

東洋経済オンライン / 2024年9月22日 14時0分

京都御所(写真: shiii / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第37回は藤原道長の妻、倫子のエネルギッシュな生涯を解説する。

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「一家立三后」を成し遂げたのは誰?

いよいよ、娘の彰子を天皇に入内させるときが来た――。藤原道長も「ここから勝負だ」と気を引き締めたことだろう。長保元(999)年11月1日、彰子が12歳(年齢は数え年、以下同)で一条天皇のもとに入内を果たすと、その6日後の7日には女御宣旨が下された。

【写真】道長の妻、倫子の曾祖父は宇多天皇。写真は宇多天皇ゆかりの京都・仁和寺

もちろん、入内にあたっては、彰子の母で道長の妻である倫子も付き添った。

周囲は倫子の足元にさぞ気を配ったに違いない。というのも、36歳の倫子は妊娠しており、臨月を迎えていたのだ。娘が入内した翌月の12月、倫子は威子(たけこ)を無事に出産している。 威子は道長・倫子夫妻にとって3人目の娘である。

それから7年以上の月日が流れて、寛弘4(1007)年8月、道長は金峯山(きんぷせん)への参詣を行うなど、娘の懐妊を願ってやまなかった。この時点で、すでに入内して約8年の月日が経ち、彰子が20歳を迎えたことも、道長の焦りにつながったのだろう。

一方、44歳になる倫子はその年の1月に、さらに嬉子を生んでいるのだから、ずいぶんと元気だ。倫子はこの嬉子を末子として、道長との間に、2男4女と6人の子を成した。

そして、道長・倫子夫妻の間に生まれた4人の娘(彰子・妍子・威子・嬉子)はみな、天皇や皇太子に嫁ぐことになる。

長女の彰子は一条天皇(第66代)、次女の妍子は三条天皇(第67代) 、続いて威子は後一条天皇(第68代)に入内し、さらに嬉子は皇太子・敦良親王(のちの後朱雀天皇〔第69代〕)のもとに入内している。

嬉子については夫がまだ皇太子の頃に亡くなってしまったので立后はしていないが、彰子・妍子・威子の3人については天皇の后となった。その特異な状況について藤原実資が「一家立三后、未曽有なり」と表現し、後世でも語り草になっている。

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