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【追悼】「生粋の無頼派」福田和也は何者だったか 「文壇の寵児」「保守論壇の若きエース」になり…

東洋経済オンライン / 2024年9月25日 18時5分

2024年9月20日に急逝した福田和也氏とは何者だったのか? 文芸評論家の高澤秀次氏による追悼文です(福田氏写真:提供元 共同)

華々しくも、太く短い人生だった

福田和也が、63歳の若さで逝った。

【写真で見る】文壇に激震が走り、物議を醸した『作家の値うち』を上梓した2000年頃の福田和也氏と、話題を呼んだ著作の数々

年を取りにくく、しかも容赦なく老いとの戦いを強いられるのが現代人の宿命だ。それは近代日本にとって未曾有の、戦争のない約80年という歳月の報いなのかもしれない。

彼は才能溢れる文学者として、この宿命を自らの業(ごう)として孤独に引き受け、誰に追い抜かれることもなく、迅速に彼岸まで駈け抜けていった。

8歳年下の福田に、死の跫音(あしおと)が近づいていることを、私はかなり以前から察知していた。この間、激やせ廃人説から、復活待望論まで、様々な風評も耳に入ってきていた。

これはいけないと思ったのは3年前、『福田和也コレクション1 本を読む、乱世を生きる』(KKベストセラーズ)の書評(『週刊読書人』)を担当した時だった。

その本の帯文の最後に、「われ痛む 故にわれ在り」という不吉な一行があり、それが「あとがき」さえ書けなくなった彼の、ラスト・メッセージかと疑ったからである。

全3巻の予告のあった同コレクションは結局、この一冊が出たきりで続刊は途絶えている。

思えば華々しくも、太く短い人生だった。

最初に出会ったのは、新宿の文壇バー「風花」で、彼は『日本の家郷』(新潮社)で三島由紀夫賞を受賞した直後だった。

挨拶は交わしたが未読だったので、早速一読して感服したことを店主の滝澤紀久子さんに伝えると、向こうから「会いたい」という伝言があって付き合いが始まった。

この本は全168ページと小ぶりながら、古典論から現代小説、果ては批評の原理にまで及ぶ本格派に相応しい一冊で、私は柄谷行人以来の大物の出現を疑わなかった。

ただそれ以前に、福田は『奇妙な廃墟』(国書刊行会)という恐るべき処女作を世に問うている。ナチズムにコミットした、フランスのコラボトゥール(対独協力作家)についての研究書である。

「文壇の寵児」「保守論壇の若きエース」に急成長

彼はこの本を方々に送り、首尾よく柄谷行人や江藤淳の眼に止まった。後に彼は、「ちくま学芸文庫」版の「あとがき」でこう述べている。

「本書は、私の最初の文芸評論である、と同時に最後の研究論文でもある」と。そして、「アカデミズムのキャリアを執筆の途中で断念というより放棄してしまった」ことも、書き添えている。

さらに自らの退路を断つかのように、22歳から29歳までの7年間を、本書の執筆のために院生として、また家業を手伝いながら費やしたと記してもいる。

その後の福田和也は、知られるように瞬く間に文壇の寵児にして、保守論壇の若きエースに急成長する。

江藤淳の引きで慶應義塾大学に赴任したのは、アカデミズムでのキャリアではなく、あくまで評論家としての実績を踏まえてのことだ。

何年か先、私も福田に呼ばれてSFC(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス)で、「現代思想」の講座を非常勤講師として担当することになった。

個人的に、最も親しく顔を合わせていたのは、中沢新一の招聘に失敗して東京大学教授を辞任した西部邁が、1994年に創刊した雑誌『発言者』(その後継誌が『表現者』)の編集委員にともに加わっていた時期である。

しかし彼は、忙しすぎて一向に身を入れて原稿を書こうとせず、その手抜きぶりを諫めつつ、私は彼の悪びれぬプロ意識に感じ入った。

私たちはその頃、西部邁に引き連れられ、修善寺の温泉宿や台湾旅行まで一緒にした。

しかし蜜月は、そう長くは続かなかった。

物議を醸した『作家の値うち』

私より先に福田と西部邁の関係が怪しくなった。

事の起こりは、2000年に彼が出した『作家の値うち』(飛鳥新社)という本で、ここで生き馬の目を抜く勢いの福田は、ロバート・パーカーのワインの評価法をヒントに、日本の純文学、エンターテインメントの現代作家を50人ずつ選び、その代表作を100点満点で採点したのだ。

私は密かに、無知な読者を前に、正札を付けた文学作品を売りつけるあざとさに眼を背けただけであった。

しかし西部邁は黙っておられず、その暴挙を陰に陽に批判し始めた。

元の鞘に収まったかに見えたその時に持ち上がった企画が、『文學界』誌上での『論語』をめぐる両者の連続対談である。

詳しい経緯は失念したが、ここでまた一悶着あって、二人は訣別、そのまま単行本化も沙汰止みになった。木村岳雄監修による『論語清談』(草思社)が漸く日の目を見たのは、西部死後の一昨年、2022年のことである。

私のほうはといえば、これまた他愛ない理由で西部邁と訣別することになった。その経緯は、『評伝 西部邁』(毎日新聞出版)に書いたのでここでは触れない。

文壇、論壇からの福田和也の事実上の退場が、それから何年先のことだったかは、いまや朧気である。

少なくとも私は、疎遠になったとはいえ彼の『昭和天皇』(全7部、文藝春秋)を、一読者として遠望はしていた。

体調を崩した後の彼は、私の仕事など見向きもしなかっただろう。互いの著書の交換も、賀状のやり取りも途絶えて久しい。

実に生真面目で真摯な「無頼派」だった

訃報に接し、俄に甦ってきた若き日の福田の言説に、例えば次のようなものがある。

ピエール・ユージェーヌ・ドリュ・ラ・ロシェルは、生涯を通じて放蕩者だった。かれは第一次世界大戦の兵役とドイツ占領時代の「NRF」誌編集長をのぞいて一度も生業につかず、その一生を、女性のベッドを渡り歩きあるいは女性を自分のベッドに誘うことで過ごした。
(『奇妙な廃墟』第4章より)


 私はドイツの降伏を前に自殺したこの作家を、ルイ・マル監督の映画『鬼火』の原作者(邦訳は『ゆらめく炎』)として知っていた。

ちなみにこの章のサブタイトルは、「放蕩としてのファシズム」である。私は福田の「放蕩」の軌跡を、具体的に何も知らないが、彼が実に生真面目で真摯な「無頼派」であったことは知っている。

無頼といっても、もはや、太宰や安吾の時代のそれを、私たちは再演すべくもない。

だが無頼の真意が、いたずらに高踏的な知性への反逆に根ざしているとするなら、福田和也こそは、西欧的な「文明の思考」の向こうを張る、「野生の思考」(レヴィ=ストロース)にたけた生粋の「無頼派」であったことを、私はつゆ疑わない。

一足先に61歳で逝った、福田の『en-taxi』誌の同人仲間・坪内祐三は、その意味で時代錯誤的に旧態依然たる酔っ払いであった。彼が生き急いだのか、死に急いだのか、私にはわからない。

だがそれにしても、かくも年をとりにくい時代に、老いと戦わねばならないということは、何と矛盾に満ちて辛いことか。

45歳で命を絶った三島由紀夫(来年、生誕100年になる!)も、46歳で癌に斃れた中上健次も、どこかで早すぎた老いに追い抜かれた感を拭えない。

晩年の谷崎潤一郎について、今こそ話してみたかった

では、谷崎潤一郎はどうだったか。

一見、老いを巧みに引き受け、演じたかに見える晩年の谷崎は、福田の眼にどう映っていただろうか。今そのことを彼と話してみたい気がする。

私の答えはこうだ。谷崎はただ彼の中の一人の少年を、無傷なまま「変態老人」に変態(メタモルフォーゼ)させただけではないかと。

確かにこの離れ業によって、谷崎は日本近代文学に特有の病、「思春期の狂人」(中村光夫『谷崎潤一郎論』)という罠を、例外的に免れたかもしれない。

ただそれでは、真に老いとの戦いに勝利したことにはならないのだ。

むしろ、勝利なき戦いに向けて言葉を再組織することこそ、老いへの真っ当な構えではないのか。

福田の旧宅の近くで飲んでいたその昔、酔いに紛れて不意に彼を呼び出すと、バンドをやっていたことのある彼は、福田パンク和也みたいないでたちで現れ、私は「このパンク右翼が」とからかったのを覚えている。30代半ばの彼は、十分に若かった。

もちろんそれ以前に私は、右翼席にVIP待遇で座らせられた彼のことを、他人事ながらハラハラしながら見守っていたのだった。

パンクな無頼派でもあった彼は、カラオケで小林旭の『ダイナマイトが百五十屯』を下手くそに歌い、「風花」では川村湊(文芸評論家)を殴り倒し、四谷三丁目の文壇バー「英」では、飾ってあった山口瞳の色紙を引きずり降ろして出入り禁止になった。

師・江藤淳を語る言葉から浮かび上がるものは?

もっとも、師・江藤淳を語る彼の言葉からは、そうした自己偽装の跡は探り出せず、もっと「切実な何か」がそこから浮かび上がってくる。

江藤氏における「成熟」について、例えば私は「大人」といった事を語りたい訳ではない。江藤氏は、その文業の始めから「大人」であった。氏が二十代の始めに著した『夏目漱石』には、既に今日の古希還暦の年配にも見当たらないような「大人」の相貌が見て取れる。確かにその「大人」さは不思議なものだ。いかにしてこの青年は、このような視線と声音を身につけているのだろう。
(「江藤淳氏の「成熟」」、『福田和也コレクション1』より)


彼はあるいはここで、江藤淳に託して果たせなかった自身の「夢」を語っていたのかもしれない。

なぜなら江藤淳の「大人」が、4歳で母を亡くし、60代半ばで、先立たれた妻を追うように自死した彼の痛々しい「夢」であったことを、福田和也が知らなかったはずはないからである。

つまり彼はここで、小林秀雄いらいの批評という名のフィクション=「夢」に危機的に接近していたと言えよう。もとよりそれは、死を引き寄せる「夢」以外ではなかったのだ。

福田よ、煙となり雲になって消えた福田和也よ、72の年男になった私はいま、文学的な野垂れ死にを覚悟して、昔読んだ本を読み直し、一冊ずつ捨てているところだ。

次の一冊は、お前さんの『甘美な人生』にしてやろうか。

だがそれにしても、この夏はどこまでも惨く、堪えたな。

じゃあ、次はお墓で会おう、あばよ。

高澤 秀次:文芸評論家

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