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上杉謙信を越後に縛り付けた「肩書」へのこだわり 「義の武将」は作られたイメージにすぎない

東洋経済オンライン / 2024年11月23日 9時20分

その意味では、本稿で中心として触れている3人の戦国武将、織田信長・武田信玄・上杉謙信を比べるとすると、室町幕府が示した秩序を最も信頼していたのが上杉謙信だったのだろうと思います。

織田信長は全く当てにせずに、自分独自の天下統一ビジョンを打ち出しました。これに対して、謙信ほどは信じていないけれども、その「肩書」が持つ力を認め、利用していたのが武田信玄だったと言えるかもしれません。というのも、信玄は信濃を制圧した段階で、自らを信濃守護に任命してくれるよう、室町幕府に求めています。

信濃守護に任命されたからと言ってもびた一文得になるわけではありません。名誉職のようなもので新たに収入を得られるわけではないけれども、信濃を統治する上で、聞こえはよかったのかもしれません。それは形式だけのことかもしれませんが、やはり信濃守護であることは信濃の武士たちに信玄に仕えなければならないという一定の強制力を持たせることができたのではないかと思います。

少なくとも信玄はそのような効果を当てにして、使えるものなら利用しようということで信濃守護になったのです。つまり、室町幕府の秩序を信頼しているかどうかはさておき、信玄はそれを利用しようという立場を取ったことになります。

謙信の関東出兵は、じつは「略奪」のため!?

謙信の関東進出について、立教大学名誉教授の藤木久志先生は、「越後国が貧しかったので、謙信は略奪を行うべく関東へ進出した」というセンセーショナルな説を提唱しました。

先述したように、今日では米どころとして知られる新潟ですが、戦国時代の当時はそこまで多くの米は取れませんでした。

江戸末期になって100万石の石高にまで成長しましたが、江戸初期には35万石しか取れませんでした。寒冷な越後は、米の栽培には不向きだったのです。雪対策がしっかりとできるようになるまで、生産高は向上しませんでした。そのため、飢えた兵たちが食べるもの欲しさに関東へ略奪に行くというのもわからなくはありません。

他方で、謙信が亡くなったとき、上杉の蔵には莫大な金が貯蔵されていたという話もあります。越後では青苧(あおそ)という植物が特産品でした。木綿が一般化するまで、衣服の原材料として重宝されていた品です。直江津を拠点とした日本海交易を通じて、これを京都まで運び、売りさばくことができました。

その結果として、相当な資金はあったはずですから、わざわざ略奪しなくても交易で買うことができたと思いますが、略奪すればタダだと考えていたのでしょうか。いずれにせよ、藤木先生の説が本当ならば、「義の武将」というイメージはやはり崩れてしまうでしょう。

本郷 和人:東京大学史料編纂所教授

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