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60年前の「アジアっぽい東京」が今の姿になるまで 当時の写真から読み解く「街が変化した」必然

東洋経済オンライン / 2024年12月1日 12時0分

松屋の屋上には土星のような形をした遊具が見えるが、これは、戦後の都内デパート屋上の遊園地の中でも抜群の人気と存在感で知られていた「スカイクルーザー」という乗り物。

客は、球体を取り囲む輪っか状のところに立ったまま乗り、その輪っかがグルグルと回ることでスリルを味わうというものだった。1949年に設置され、夜は隅田川上のデパート建物屋上で電飾を点灯していたので、当時はかなり目立っていたという。

「ハチブドー酒」の広告が目立つ建物は、現在も盛業中の浅草の老舗「神谷バー」だ。巨大な「ナショナル」の広告を掲げている建物は昭和4年築の「雷門ビル」。松屋、神谷バー、雷門ビルとも戦前築で、太平洋戦争の戦火をくぐり抜けて戦後も使われ続けてきた建物だが、雷門ビルのみ2006年に解体されてしまった。

この都電の「30」番の路線は、1969年10月26日廃止。1967年に東京都が決定した都電の全線廃止によるものだった。

なぜ都電は廃止されることになったのだろうか。別の“デジタル化写真”の中から、その理由を読みとれるようなものを見つけた。

この写真は1964年撮影。写っているのはひどい交通渋滞の中を走る都電。本来は都電が走行する軌道の中にも車が侵入してしまっている。交通整理をしているらしき警官の後ろ姿も見えるが、この渋滞を前にしてもはや諦め気味という風情だ。

車両前面の番号と行先表示板がヒントになる

撮影場所がどこなのかは不明だが、車両前面に掲示された「28」の番号と、行先表示板の「東京駅」がヒントになる。「28」番は、錦糸町駅前〜都庁前(当時の都庁は有楽町に所在)という路線。現在の都バスのドル箱路線・東22系統とほぼ同じルートで、錦糸町駅から四ツ目通りを南下し、東陽町駅の交差点で永代通りに入り東京駅へと向かう。

しかし、道路の周辺にランドマーク的な建物や、広告、看板なども写り込んでいないため場所の特定ができない。併走している自動車は、タクシー、トラック、軽自動車、オート三輪などいわゆる営業車が多く、自家用車は少なそうだ。

昭和30年代(1955~1964年)に入ると、日本は、いわゆるモータリゼーションの時代へと突入する。自動車産業が国の基幹産業として認知され、当時の通産省のまとめた「国民車構想」のもと、スバル360やマツダR360クーペなどが発売され、都内でも自動車保有台数が急激に増えていった。

道路交通を管轄する警視庁側は、自動車交通を妨げる都電の撤去を求め、それは、警視庁VS都電を営業する東京都交通局の対立に発展していった。東京都交通局は強硬に反発したが、結局、1959年には、自動車の軌道敷内乗り入れが認められることになった。

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