1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

60年前の「アジアっぽい東京」が今の姿になるまで 当時の写真から読み解く「街が変化した」必然

東洋経済オンライン / 2024年12月1日 12時0分

つまり、それまでは都電の軌道内に自動車は原則的に侵入してはいけなかったところ、走行してもよいことになったため、結果的に自動車が都電の進路を塞ぐ事態が発生し、この頃から都電の平均時速は時速13キロ台から昭和40(1965)年代に入ると11キロ台へと徐々に落ちていった。

バスや地下鉄への移行は時代の必然だった

池袋―数寄屋橋間の「17」番での往復時間は、1955年頃は80〜85分、1960年には90〜100分、1967年になると130〜140分となった。現在、東京メトロ有楽町線に乗ると(都電17番とは違うルートを通っているが)、池袋から、数寄屋橋のすぐ近くである有楽町駅までの片道所要時間は約23分だから、2地点間の所要時間はかなり異なる。また、1両で走る都電と、連結して走行する地下鉄では一列車で輸送できる人員数も桁違いとなる。

そんな状況を見ると、バスや地下鉄への移行は時代の必然だったということになるだろう。確かに、都電全盛期を知る戦前生まれの古老に都電の思い出を聞くと、懐かしい、風情があったという思い出を語る一方、「どこに行くにもとにかく時間がかかって大変だった」、そのうえ「目的地にいくまでに何度も乗り換えなくてはならず不便だった」という話も聞く。

そのような状況での利用者減や人件費高騰が進み、収支も赤字に。東京都は1967年に都電を全線廃止することを決定。その後1967年12月から、1972年11月の6次にわたり、段階的な廃止が行われ撤去は進んでいった。

都電廃止後の代替交通となったのは、バスと地下鉄である。

次の写真は、1968年、都電が走る脇で地下鉄の建設工事が行われているという象徴的な場面を捉えたカット。

都電「37」番、「20」番がゆく通り沿いで行われているのは営団地下鉄9号線の建設工事。9号線とは、現在の東京メトロ千代田線だ。

「37」番は、三田―千駄木二丁目間を結ぶ路線。「20」番は江戸川橋―須田町間。どちらも不忍通りを走る路線で、写真は、その不忍通りの千駄木付近の風景を捉えたものだ。

「37」番は1967年12月に、「20」番は1971年3月に廃止。一方で、不忍通りには都営バスの路線も複数走り、1969年にはこの地区に地下鉄千代田線の駅が開業。こうして都電は、バス、地下鉄に取って代わられていった。

公園に車両が保存展示されている

千駄木からほど近い文京区本駒込には、都電の神明町車庫があり、「20」番の電車は、この神明町車庫から発着していた。現在、車庫跡は都営住宅、勤労福祉会館、神明都電車庫跡公園となっていて、公園には、かつて神明車庫に所属していた6000形の車両などが保存展示され、往時をしのぶことができる。

現在、都内に唯一残る都電は、早稲田と三ノ輪橋間をつなぐ荒川線。ほかの路線は全廃されていったなか、専用軌道がほとんどで交通渋滞を誘発しない、代替する交通機関がないといった理由で残った。

現在もレトロな風情を味わうことができる都電荒川線は、まち歩き愛好者、外国人観光客などにも人気があるが、戦前生まれの古老によると、「荒川線とは、“都電”ではなく、“王子電車“、または“荒川電車”」なのだそうだ。

かつて、東京中を路線網でつなぎ、神田や上野などの都心を王様のように走っていた都電こそが、本来のものであり、東京の周縁の専用軌道で走っている荒川線はそれとは別物だという認識だ。

しかし、都電全盛時代をまったく知らない私たちにとっては、荒川線で、都電の走る街を今も擬似体験できることはやはりありがたいことだと思う。

鈴木 伸子:文筆家

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください