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堂々巡りの「石丸論法」を育んだ京大という"土壌" 結論を「出せない」のではなく「出そうとしない」

東洋経済オンライン / 2024年12月21日 18時0分

教員もしばしば飲みに連れていってくれた。大昔なら祇園に同伴してくれたのかもしれないが、「時代が変わったから」だけではない。大学の近くで教員もまたエンドレスの話に付き合ってくれた。

最低限の礼儀はあった(と信じたい)が、それでも、ほかの大学と比べれば、はるかに失礼というか、フランクだったに違いない。教員にとっても大学生や大学院生は、弟子という側面よりも「ひとりの知り合い」、ないしはその分野を研究するライバルとも見ていたのではなかったか。

酒の席で一緒になっても、それ以外でも「先生」との呼称よりは、「さん」付けが多かった。そう呼べる感覚だったというのも、その証だろう。

そんな調子なので、授業にあまり出ない(のが普通)とされてきた。私の在学中に、「5月の連休明けでも人(受講者数)が減らない」と教員が嘆いていたくらいだ。ただ、それから25年が過ぎた今では、もっと多くの学生が授業に出席しているのだろう。

25年前ですら「教室に人が多いですね」と驚く教員もいたので、京大では授業を聞く習慣はメジャーではなかった。授業を聞くぐらいなら、各自で勝手にする。勉強をしようが、サークルに熱中しようが、何だろうが構わない、これが学風だった。その認識を教員も共有していた。

となると、授業は難しい。教員側はわからせる気がないし、わからなくても良いと思っている。下手をすると「わからないほど良い」とすら考えていたふしもある。

京都大学を明らかに舞台にしている、絹田村子のマンガ『数字であそぼ。』(小学館、2018年)では、こうした、京大での「わからなさ」が、理学部数学科を舞台に、良く描かれている。

作中では「吉田大学」と表記されている大学では、学生がわかろうがわかるまいが、教員には関係ない。もしくは「わからない」と言われるほうが良い。学生ごときに簡単に理解されないレベルの高さを裏書きすることになるから、「なお良い」ということになる。

マンガ同様、京大の教員はそう考えていたのかもしれない。学生は「わからないのが当たり前」と思うしかない。こうなるとまた「学歴」をめぐるコンプレックスは醸造されにくくなる。わからないのが基本である以上、焦る意味も、劣等感を抱くこともないからである。

『数字であそぼ。』では、主人公の横辺建己が、「昔から学校の勉強なんて簡単だった」と思い出すシーンで始まるが、わずか11ページ後では、数学(微分積分学)の講義について、「考えてもないし 理解もできていない」と落ち込む。「思えばこれが人生初の挫折であった」と振り返り、シーンは、「2年が経った」とのト書きを経て、3年生に進学する直前の3月に移る。

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