名作「罪と罰」で舞台女優として芽吹きはじめた大島優子

wezzy / 2019年1月31日 20時5分

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 劇場へ足を運んだ観客と演じ手だけが共有することができる、その場限りのエンタテインメント、舞台。まったく同じものは二度とはないからこそ、時に舞台では、ドラマや映画などの映像では踏み込めない大胆できわどい表現が可能です。

 学生時代、教養の一貫や学校の課題として海外純文学の大作に挑戦し、そして挫折した経験があるというひとは、少なくないと思います。19世紀後半のロシアの作家ドストエフスキーは、誰もが名前を知る文豪でありながら、そうやって腰をひけさせてきた文豪のひとりでしょう。

「自分は特別な人間だ」

 重厚な作風から、現代社会とはかけ離れた世界観というイメージもありますが、ドストエフスキーの代表作である「罪と罰」は、もはやインフラと化したSNSのなかで、何者かでありたいと自己承認欲求を声高に叫ぶ現代人との共通性を見出すことができます。

 その「罪と罰」が現在、イギリス、ロイヤルシェイクスピアカンパニー出身の演出家、フィリップ・ブリーンの演出で上演中。主演は三浦春馬で、主人公に救いをもたらすヒロイン役には、海外留学から戻ってきたばかりの大島優子が挑んでいることでも話題を呼んでいます。

 物語の舞台は1860年代の帝政ロシア、サンクトペテルブルク。優れた知性を持つ青年ラスコリニコフは、階級社会のなかで貧困にあえぐ多くのひとの絶望を目の当たりにし、自分のような「特別な人間」ならば、社会の大儀のためには法を犯す権利があると考えていました。



 その一歩として、強欲な質屋の老女がため込んだ財産を世のために使おうと計画したラスコリニコフは彼女を斧で殺し金を盗みますが、老女の異母妹で彼女に虐げられていたリザヴェータ(南沢奈央)の命も予定外に奪ってしまいます。罪の意識から幻覚にさいなまれる彼を、何も知らない友人や家族は案じますが、ラスコリニコフはその家族が送ってくれたなけなしのお金を、小さな子どもを抱え酒浸りだった夫の葬儀代にも事欠くカテリーナ(麻実れい)にすべて渡してしまいます。

 ラスコリニコフはカテリーナの義理の娘で、家族を養うために娼婦として働くソーニャと出会い、彼女の自己犠牲の精神に触れるうちに考え方が変わっていきます。しかし、老女殺しの犯人を追う国家捜査官ポルフィーリ(勝村政信)はラスコリニコフを疑い、彼を追い詰めていきます。

無精髭の三浦春馬、突出した輝き

 三浦春馬が演じるのはラスコリニコフ役。映像作品での活躍の印象が強いですが、本作の演出家であるブリーンの、日本での初めての演出作であるテネシー・ウィリアムズ作「地獄のオルフェウス」(2015年)にも、大竹しのぶ演じる主人公が恋して破滅する青年役で出演しており、演出家だけでなくコアな舞台ファンからも信頼される優れた舞台俳優でもあります。

 ラスコリニコフは頭脳明晰であるがゆえに、自分こそが物事の真実に迫ることができる選ばれた存在であると思い込み、しかし罪の意識から精神の均衡を失っていきます。薄汚れた衣裳に無精ひげの姿は、狂気だけが目立ってしまいそうなものですが、そんな姿でも、三浦はひたすらキレイでした。



 原作の「罪と罰」は1865年にモスクワで起きた金目当ての連続老女殺害事件やサンクトペテルブルクで起きた高利貸し殺人事件がモデルになっていますが、ラスコリニコフのなかで、気高い理想と弱い存在である女性の惨殺が両立していることに納得できるのは、そのキレイさゆえ。老女殺害以降、終盤まで三浦の手は血まみれのままですが、観客にとって理解不能な狂気ではなく、青年の苦悩や正義の報われなさへの憤りが印象的でした。



 一方で、三浦の突出した輝きは、大島優子にとっては少し、分が悪かったかもしれません。ラスコリヌコフにとって道徳を守ることは、新しい考えや行動に踏み出せない愚かな大衆であることと同義。世間から搾取されるだけのソーニャもそんな大衆のひとりですが、ラスコリヌコフは彼女には自身を似たものを感じやがて贖罪意識を覚え、会心します。物語上はそうなのですが、三浦のラスコリヌコフが知性と芯が確立しているため、ソーニャの存在の必要性が、薄くなってしまったように感じられました。

 といっても、決して大島の演技が弱かったわけでもありませんでした。特に印象的だったのは、声。可憐でありながらも劇場内にちゃんと響く、聞き取りやすい発声は、しっかり舞台俳優のものでした。

大島優子が“選択”した演技

娼婦として客をとる直接的な描写がないせいか、ソーニャから感じられたのは、つらい境遇への諦念ではなく、他者の苦しみへただ寄り添う心。その博愛ぶりはいっそソーニャの鈍感さにさえ思えましたが、三浦の確固とした自我を持つラスコリヌコフとの組み合わせは、男女としての特別な結びつきからではなく、人間同士として理解しあったからこそ彼の心を変えることが可能だったのではと思わせました。



 原作が長大であり、強烈な登場人物たちの群像劇という側面があることを思えば、ソーニャの存在が一歩引いていることで、舞台劇としてラスコリヌコフを主人公として際立たせた戯曲に生まれ変わらせたとも受け取れます。実際、海外の演出家作品にも数多く主演している元宝塚トップスターの麻実れいが演じるカテリーナとの対峙でも、ソーニャがかき消されていなかったことを思えば、大島の演技はクレバーだったともいえるかもしれません。

 自分は何者かでありたい、特別な存在であると思いたい気持ちは、誰の心の中にも存在するものです。その思いが肥大すれば、やがて歪みが生じるもの。その命題はラスコリヌコフの心理の変化を通して提示されますが、本作に限っていえば、自身が一歩引くことで結果的に全体を引き立てた「女優・大島優子」の在り方からも、ひとつの解決策を見いだせるかもしれません。

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