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<Wコラム>韓流ファンのための「日韓・近現代史」~朝鮮王朝の滅亡

Wow!Korea / 2016年5月2日 17時28分

韓流ファンのための「日韓・近現代史」~朝鮮王朝の滅亡

1894年2月、東学を信奉する多くの農民が全羅道(チョルラド/朝鮮半島西南部)で決起して、役所を襲いました。ここに、「甲午(カポ)農民戦争」が始まったのです(「東学党の乱」とも呼ばれます)。東学とは、西学(キリスト教)に対抗する東洋思想(儒教・仏教・道教)を意味しており、その根底には人間平等と社会改革の思想がありました。

■日清戦争が始まる

反乱の総大将は全琫準(チョン・ボンジュン)。彼に率いられた農民軍は5月末には全羅道をほぼ制圧しました。

危機に瀕した政府が清の軍隊に頼ろうとすると、すかさず日本も在留邦人の保護を名目に出兵の構えを見せました。

「清と日本に出兵の口実を与えてはならない」。

そう考えた全琫準は政府との和睦を実現させるのですが、それに構わず日本は出兵し、清の軍勢と衝突しました。もはや日本と清の戦闘は避けられなくなったのです。

1894年8月1日、日本は清に対して正式に宣戦を布告しました。ここに日清戦争が始まったのです。

戦争を遂行する日本の目的は、朝鮮半島を保護国にすることでした。実際、清との戦争中に朝鮮半島は日本の占領下に置かれました。

憤怒した農民軍は再び蜂起しましたが、日本軍に歯が立たず、全琫準は捕らえられて1895年3月に処刑されてしまいました。

■国号を「大韓帝国」に変更

日清戦争を有利に進めた日本は、1895年4月に清との間で日清講和条約(下関条約)を結び、莫大な利権を手中に収めました。

とりわけ大きかったのが、清の勢力を完全に朝鮮半島から追い出したことです。いよいよ日本の朝鮮半島支配に拍車がかかりました。

危機感を強めた朝鮮王朝は、ロシアに接近しました。とりわけ、明成(ミョンソン)皇后は日本に抵抗する姿勢を鮮明にしました。

日本は強硬手段に出て、1895年10月に王宮に乱入した一派が、明成皇后を暗殺しました。「国母」とも称される王妃が外国勢力に惨殺される、という信じがたい事件でした。

明成皇后亡きあと、朝鮮王朝には親日政権が誕生しました。しかし、1896年2月に26代王・高宗(コジョン)はひそかに王宮を脱出してロシア公使館にたてこもり、親日派の高官たちを次々に処罰しました。以後、朝鮮王朝はロシア寄りの政治姿勢を鮮明にしたのです。

冬でも海面が凍結しない港がほしかったロシア。高宗を懐に引き入れたのは願ってもないことでした。

高宗がようやくロシア公使館から王宮に戻ったのは1年後のことでした。彼は1897年10月に国号を「大韓帝国」と改めて初代皇帝の座に就きました。

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